FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『グレート・ギャツビー』

グレート・ギャツビー (新潮文庫)グレート・ギャツビー (新潮文庫)
(1989/05)
フィツジェラルド

商品詳細を見る


アメリカ文学事始め

 今回の読書は、前回の記事に書かせていただいた、私が私自身に与えている課題の、「3、英語圏の文学を読むこと」にあたる。英語圏の、特にアメリカの文学を、私はほとんど読んでいない。本当に、数えるほどしか読んでいないのだ。

 よって当然、この『グレート・ギャツビー』も初めてだ。私は、この作品の名前ぐらいしか知らなかった。しかし村上春樹の『ノルウェイの森』に出てきて、主人公のお気に入りということになっていたし、どうやら村上本人も、この本から大きな影響を受けたといっているらしい、というところから、この作品が、アメリカ文学のなかではかなり大きな地位を占めているらしいことを知り、興味がわいたのだ。

 ということで、今回の記事は、「アメリカ文学初心者」の読書感想文だ、ぐらいに考えてお読みください。

 読み始めて、何となく、村上春樹が「影響を受けた」というのがわかる気がした。いや、私は村上春樹を多く読んでいる訳でもなく、この『グレート・ギャツビー』を熟読している訳でもないので、勿論、何となく、わかった気がした、という程度を出ないのだが、その、どこか気取ったようにも感じる、独特の表現方法に、ある共通点を感じたのだ。

 それは、村上春樹が真似をしている、ということでは決してない。単なる真似事で、一個の作品を、例えば『ノルウェイの森』ぐらいの完成度をもって生み出すことができるとは私には思えない。作家本人が、影響を受けたといっているのだから、そこに全く模倣がない訳でもないのだろうが、しかし村上春樹のスタイルは、やはり彼がフィツジェラルドに限らず様々なところから学び、そして完成した、彼独自のものだというべきだろう。

 そんなことを思いながら、私は読んだ。読んでみて、何というか、「軽さ」のようなものを感じた。

 ドイツやフランス、あるいはロシアあたりの、旧大陸の文学を好む(例えば私のような)人たちからは、時折、アメリカ文学の「底の浅さ」を指摘する声が聞かれる。それはときには思想的哲学的なものの欠如、ときには若きアメリカが「古典文学」というものを決定的に欠いていることからくる根の浅さ、あるいは伝統的な意味における「詩情(ポエジー)」の不足などとして、具体的に説明される。

 ボードレールは、アメリカという国を、「時と金が彼の地ではかくも大きな価値をもつ!」と、または「売り手たちと買い手たちのああいう雑踏」、「実用の観念という、およそこの世で美の観念に最も敵対的な観念が万事に優先し、支配力をふるう国」と評した。

 確かに、ボードレールの「アメリカ観」はひとつの真実をついていると思うし、だとするならば、そういう「詩人が最も生きにくい国」としての土壌から生まれた文学が、ヨーロッパの文学者や、あるいはヨーロッパの文学を好みそれを是とする人たちにとっては、気に入らないものだと感じられるのも無理もないことだろう。

 だが、そのアメリカから、エドガー・ポーを見出したのもまた同じボードレールなのだ。私もやはり「ヨーロッパ文学好き」ではあるが、しかし私がこの『グレート・ギャツビー』に感じた「軽さ」は、旧大陸的価値基準で測っての「底の浅さ」というものとは、別のものだった、と思っている。

 登場人物たちの、ある種の偏執ぶりに、私は、ドストエフスキーに出てくる人たちを思い出した。自我、というよりもペルソナというべき自分の「役割」への固執、執着が、結局においてこの悲劇を悲劇たらしめているのだ、という意味でだ。つまりそれは決して「浅はかな」人物描写ではなく、ドストエフスキーと並べてみても見劣りはしないものだ、と私には思われた。

 そしてその人物たちが悲劇を演じる舞台は、まさにボードレールの所謂「時と金がかくも大きな価値をもつ」アメリカ的富裕のまっただ中だ。そしてそのアメリカ的富裕が、「偉大な」ギャツビーを、そして「哀れな」ギャツビーを生む。フィツジェラルドが、この作品において俎上にあげたのは、「反美的」、「反詩的」なアメリカそのものだったのだ。

 だからこそ、それに挑み、それに屈するギャツビーは、ひとつの「詩情」たり得たのだろう。そしてひとつの優れた文学作品が、「詩人が最も生きにくい国」であるアメリカに生まれたのだ。

 私が感じた「軽さ」とは、物語のはこびの「軽妙さ」だったのではないか、思う。それを「浅さ」や「物足りなさ」だと感じる、ということも私にはわかる気がするが、このよく練られた、しかしよくよく考えてみると少しばかり突飛でファンタジックな物語に、読者を惹き込み、捕らえたまま最後まで引っ張っていくには、ちょうどよいテンポ、ということなのではないだろうか。

 そう、細部の表現が写実的であるわりには、物語は少々「できすぎて」いるのだ。そこに読者が気を向ける暇を与えず、物語世界に取り込んでしまうには、勢い、というものが必要なのだ。この辺りにも、村上春樹の作品との共通点を私は感じもしたのだが、それはさておき、この「軽妙さ」が、この作品の完成度を大きくひきあげているのは確かだと思う。ドストエフスキーの繊細さはない。しかしそれにかわるものを、この『グレート・ギャツビー』はもっているのだ。

 ギリシアやラテンの古典文学、いやそれどころか、文字の成立よりもはるか以前より連綿と続く歴史的背景をもつのが、旧大陸の文学だ。それはきっと、人類の歴史と同じくらいの古い歴史をもっているというべきなのだろう。その悠久の流れともいうべき伝統から、ぽんっと外れてしまった感があるのがアメリカ文学だ。

 しかしそれは、旧大陸的価値観からみるならば、全く違う文化の、全く違う時代背景や価値観からしか生まれ得ない、ある新しい形の文学だと、そう考えるべきなのだろう。だから、そこに見慣れない形式や表現を見出したならば、それを「間違った」もの、「未熟な」ものだとみるべきではなく、「新しい」ものだとみるべきなのだ。

 勿論それを好むのか否か、それはひとそれぞれ、ということになるのだろうが、しかしパリにはパリの、そしてニューヨークにはニューヨークの「詩情(ポエジー)」が、そして「現代性(モデルニテ)」があることを、忘れるべきではないだろう。

 と、アメリカ文学初心者は、今回の読書では、こんなことを思いました。なんだかひどくざっくりした、というか抽象的な感想になってしまった感もあるが、しかしこの『グレート・ギャツビー』のおかげで、我が読書にはまたしても、「アメリカ文学」という広大な地平が開けた、という訳だ。さて、何からどう手をつけたものやら。



 追記。 前回の『ノルウェイの森』の記事に、彩月氷香さんからコメントをいただいた。そのなかに、この『グレート・ギャツビー』は「男性向けの物語のような気が」し、「良さがわからない」との一文があり、なるほど、と思わされた。

 いわれてみれば確かにこれは、「男性的価値観」、「男性的視点」に支配された物語だ。勿論男性作家の作品なのだから、そうならざるを得ない部分はあるのだが、それにとどまらない、ひとつの特質として、そうだといえるような気がする。

 この、アメリカ的富裕というもの、あるいは「アメリカンドリーム」などといわれるもの、それ自体が実に「男性的」であり、それゆえに、その「アメリカ的なもの」を正面から扱ったこの作品自体もまた、必然的に「男性的」にならざるを得なかったと、そういうことではないだろうか。そしてそれを「男性向けの物語」として評価する視点をもつということ、それはやはり女性の読書家ならでは、というべきなのだろう。

彩月氷香さんのブログへはこちらから。
『持ち歩ける庭のように』
私などがいうのもナンですが、一読の価値あり、です。

スポンサーサイト



PageTop