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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『君主論』 

マキャヴェッリ全集1 筑摩書房
『君主論』  ニッコロ・マキャヴェッリ著 池田廉訳

ルネサンスの実用書

 我が「積ん読」本のなかでも、異彩をはなっているのが、『マキァヴェッリ全集』だ。全六巻全てそろっている。第一回配本が、この第一巻で、1998年だ。この第一巻を、5600円も出して、何故に買おうと思い立ったのか、今となっては我がことながら不可解だが、第一巻を買ったんだから第二巻も、という具合で、数年かけて発行された全六巻、全て買ってしまった。
 
 しかしその後、本棚に収まったまま、ページを繙かれることもなく今日まで放置された。二年前まではヘビースモーカーだった私の部屋にあったせいで、綺麗なカバーはすっかりヤニでべたついてしまった。せめてもの罪ほろぼしに、『君主論』だけでも読もう、ということで、今回はこれを取りあげることにした。

 (ところで、我が書棚には、中央公論社の「世界の名著」シリーズの『マキアヴェリ』の巻もしっかり並んでおり、当然、そのなかにも『君主論』は収録されている。そして、私はマキァヴェッリの著作といってはこの『君主論』しか知らなかったのだし、さらには、特にこの思想家について興味を抱いたことなどこれまでに一度もないのだから、ますますもって、何故に全集を六巻全て買いそろえたりなどしたのか、全く訳がわからない。)

 このブログでは、これまでにルソーの『社会契約論』だとか、サン=テグジュペリの『戦う操縦士』などの記事のなかで、民主主義、というものについての、私なりの考え方を書かせていただいている。ヒトラーの『我が闘争』を扱ったりなどもしたが、そこでもまた、独裁政治よりは、民主主義について考えてみた。なので今回は、君主制国家について考えてみることもまた、面白いのではないか、などと勝手に思ってみた。

 ただ、実際に読んでみると、この著作でマキァヴェッリは、君主制の是非、などは論じてはいない。君主制国家をいかに治めるべきか、それを論じているだけだ。冒頭にロレンツォ・デ・メディチ宛の献辞が掲げられた文章なのだから、それも当然といえば当然だ。(ここでいわれる「君主」とは、世襲的な王から皇帝、封建領主や僭主、指導者までもを含むおおきな意味での「支配者」のことである。だから当然ロレンツォ・デ・メディチも、それに含まれることになる。)

 それに、民主制との対比、という形で君主制をみる、というのは、根底に君主制への否定的な意図をもったより現代的な観点だ、というべきだろう。十六世紀のイタリアを舞台に活躍したマキァヴェッリには、多分、思いもよらないような考え方だと思われるのだろう。まあ、全集を積んであるだけの私には想像しかできないのだけれども。

 さらにまた、我が国日本も、国際的な観点からは、英国などと同じく「立憲君主国」ということになるらしく、「共和国」ではない。しかし民主主義国ではある。すなわち、「民主制と君主制」という問いの立て方が、根本から間違っている、ともいえそうだ。比較しようとするならば、「共和制と君主制」という形であるべきなのだろう。

 ということで、私もここでは民主制なり共和制なりとの比較はせずに、この『君主論』という書物のみをみてみようと思う。ただひとつ、民主主義が現代のように「当り前」のものになったのは、意外なほどに最近のことだ、ということだけを確認できれば良し、ということにしよう。

 マキャヴェリズム、といえば、「目的が正しければ、手段は問わない」とか、「目的は手段を正当化する」とかいう形で、単純化されて一般には知られているし、私も正直なところ、この言葉をしか知らなかった。しかしこの言葉は、どうやらこの『君主論』のみならず、彼の他の著作にも、この文字通りには出てはこないらしい。

 つまり、「目的は手段を・・・」というのは、彼の考え方のある一面を、象徴的に表したもの、と理解するのが正しいようだ。そしてまた、それはあくまでも「ある一面」にとどまるのだと、私は実際に読んでみて思った。

 例えば、

 「一つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡にかかわる容易ならざる場合には、悪徳の評判など、かまわず受けるがよい。」

 などという言葉だけをこうして抜き出して読んでみると、なるほどいかにも所謂マキャヴェリズムだ、という気がしてくる。

 が、しかし実はこの文章は、「理想の君主」のような想像の産物ではなく、実際に国を治めなければならない立場にある人物が、どう身を処するべきか、という甚だ実践的な文脈のなかでいわれたものであって、ざっくりいってしまうと、「どうしても悪いことをしなければならないなら仕方ないだろう、完璧な人間なんていないんだから」という意味合いが強いのだ。

 そう、この『君主論』は、理想論を語ったものではなく、とても実践的な書物なのだ。ルネサンス期の思想、というと、私はフィチーノあたりに代表されるような、所謂ルネサンス・プラトン主義的なものをしか知らなかったので、これは全く意外だった。

 この書物に語られることは実に具体的で、国の成り立ちや、以前の民衆の暮らし方によって、それぞれいかなる困難が予想され、その困難をいかに克服すべきか、というあたりから始まり、軍隊をどうするのか、傭兵がいいのか自国軍がいいのかという問題や、さらには君主は気前がよいと思われるべきかケチと思われるべきかなど、事細かに、だがくどくどしくなく簡潔に語られる。

 しかも、その具体性は決してある特殊性にとどまることなく、あくまでも一般論として語られる。だから読んでいて面白い。なるほど、と思わされる。その「なるほど」は、今日的にみてもなお「なるほど」なのだ。

 それは実際、現代のこの日本という国のありかたについて、考えさせるに充分な力をもって我々に語りかけてくる。

 「非武装があなたのうえにおよぼす弊害はさまざまだが、とくにそれによって、あなたが人に見くびられることである。・・・
 (中略)
 実際武力のある者とない者では雲泥の差があり、たとえば武力のある者が武力をもたない者に進んで服従したり、武力をもたない者が武力をもつ従者たちに囲まれて安閑としていられる、などの考えは筋がとおらない。」


 これなどは、我が国の平和憲法を全否定するような文章だ。勿論彼は十六世紀の人間であり、彼の言葉をそのまま、二度の世界大戦を経験した現代にもってくる訳にはいかないが、しかし我が国の平和憲法が選択した道が、いかに困難なものであるかを、存分に我々に思い知らせてくれる。

 現在日本は、それが平和憲法の精神に反するか否かはおくとして、現実として自衛隊とアメリカ軍によって守られている。この所謂「安保体制」にも、マキャヴェッリの言葉は疑問を投げかける。曰く、

 「・・・役にたたない戦力として、外国からの支援軍がある。これは、あなたが他の有力君主に、軍隊の支援や防衛を求めるときのことである。
 (中略)
 なぜなら支援軍が負けると、あなたは滅びるわけで、勝てば勝ったで、あなたは彼らの虜になってしまうからだ。」


 実際このような問題が、いまアフガニスタンやイラクで起こっているし、多分リビアも似たようなことになるだろう。先の震災で、在日アメリカ軍の展開の早さに我々は救われたのだが、それは逆をいえば自国に自前の自衛力が充分でないことの証明でもある訳で、襲ってきたのが津波ではなくどこか敵国の軍隊であった場合、日本も「アメリカによる暫定統治」に甘んじなければならないことになる可能性は、けっして小さくはないだろう。

 あるいは、こんな一文もある。

 「物惜しみをしないとの評判を守りつづけようとすれば、あげくのはてに民衆に異常なまでの重税をかけ、貪欲になって金銭を得ようとやっきになる。こうなると領民に恨まれるようになり、貧乏になって、誰からも尊敬されなくなる。」

 これなどは、地方自治体だの国民だのへの、選挙対策のバラマキ政策で、大借金国家となったどこかの国そのものではないだろうか。

 あるいはまた、この本の「君主国」を「会社」や「企業」に、「君主」を「経営者」だとか「管理職」だとかに、「民衆」を「社員」だとか「部下」だとかに読みかえれば、ちょっとしたビジネス書的な実用書として読むこともまた、可能なのではないだろうか、という気もする。私は、そういう本はまず読まないので、よくわからないけれども、興味のある方は一度読んでみてください。

 我が蔵書中の、「積ん読」本の代表格であった『マキャヴェッリ全集』だが、意外な面白さを発見できたせいだろう、今回のこの読書は、なんだか、とても気分がよかった。古典というものは、本当に、読んでみないとわからないものだ。学校かどこかで習ってきたか覚えてきたかしただけの、いい加減で乏しいイメージで満足してしまい、マキャヴェリズムといえば「目的は手段を・・・」にとどまったまま、『君主論』を読まずにいたならば、それは本当にもったいないことだったと思う。

 しかし、『マキャヴェッリ全集』は全部で六冊もある。これを全て読み通さない限りは、もったいないものであり続ける訳だ。そして実は、『君主論』は意外に短く、分量でいうと一冊目の四分の一ぐらいしかない。つまり、まだまだ「読みました」などといばっていえるような読書はしていないのだった。ああ、人生は短く、全集は長い。

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