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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『読書について』

読書について 他二篇 (岩波文庫)読書について 他二篇 (岩波文庫)
(1983/07)
ショウペンハウエル

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読み手次第

 前回にひき続き、ショウペンハウアのこの本を取りあげる。今回は、表題作の『読書について』だ。つまり、前回の『著作と文体』では、「文章」というものとの能動的な取り組み方が問題にされていたが、今回は受動的な関係、すなわち「文章」を「読む」ということが、問題にされるということだ。

 私が新刊書をあまり読まないのは、若いころに、この『読書について』を読んだせいだ。

「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。」

 と、ショウペンハウアはいう。この短い論考のなかで、彼は一貫して、とにかく新刊書ではなく古典を読め、と主張している。確かに、評価の定まっていない新刊書は、勿論傑作である可能性もあるが、100年の歳月を生き抜くことで「超時代的」な価値を証明された「名作」よりも、「悪書」である可能性が高いといえる。

 読んでみなければ、その本が良いものか悪いものかは判断できない。しかし、自分でもあきれるほどの遅読である私にとっては、その「読んでみる」のが大変なのだ。どんな本でもひどく時間がかかり、そして私も一応社会人なので、時間は限られている。そこで、より「悪書である可能性が低い」ものを読んだほうがいい、という結論に達した。で、いまだにその習慣を律儀に守っている、という訳だ。

 勿論この方法が最良だ、という訳ではないだろう。この方法のおかげで、私は一年後にはブックオフで投げ売りされるような、話題性だけのベストセラーを掴まされることはないが、しかし読書が趣味、などといいながら東野圭吾がどんな作家なのか全く知らない、ということにもなる。

 これは実にバランスを欠いているといえるし、また、良書か悪書かの判断の一端を、自分の基準ではなく、「超時代性」というフィルターにゆだねてしまっているともいえる訳で、どちらかというと、あまりよくない方法だという気もする。

 ショウペンハウアという、極論好きな哲学者のいうことをそのまま参考にしてしまったが故の、この偏った読書習慣、という訳だ。フィヒテやシェリング、そしてヘーゲルまでもを「似非哲学者」呼ばわりするひとのいうことなのだから、それなりに、参考程度にとどめておくべきだったのかもしれない。

 そう、ときには悪書を読む、ということにも、やはり意味があることなのではないだろうか。結局、最終的には「自分がどう感じるか」が問題となるのが、読書というものなのだから。悪書を悪書だと判断すること、それもまた読書の「良さ」なのだ。

 今年の正月あたりから、こんなブログなど始めた関係で、他の方々のブログにお邪魔する機会もぐんと増えた。やはり自分のブログと同じジャンルのブログを読ませていただくことが圧倒的に多いのだが、そうしたなかで、様々な方々の、様々な読書スタイルというものを拝見し、いろいろと考えさせられることも多々ある。

 読書に、「良い方法」などを求めることの方が、間違っているのかもしれない、などとも思う。勿論、何かはっきりとした研究対象のようなものがあるのならば、しっかりと系統立てて、計画的に、対象を絞って読んでいくことが大切だ、といえるだろう。しかし、我々の多くは、読むことを楽しむ、そのために読んでいるのではないだろうか。

 そしてその「楽しみ」というものは、読書というものがひとりで行われる行為である以上は、当然きわめて主観的なものだ。だとするならば、大切なのはその「楽しみ」の主体であるところの「読み手」であって、読まれるものである本には、第二義的な意味合いしかないことにならないだろうか。

 「すなわち悪書は、読者の金と時間と注意力を奪い取るのである。(中略)我が国の現在の書籍、著作の大半は、読書のポケットから金を抜き取ること以外に目的がなく、著者と出版者と批評家は、そのために固く手を結んでいる。」

 と、ショウペンハウアはいう。確かに事態は彼の生きた19世紀よりも悪化しているといえるだろうし、その害毒といっては単に資源と労力の無駄遣いに留まらないような、そんな社会悪的な書物が、ただ「商売」のためだけに日々市場に垂れ流されていることもまた事実だろう。

 しかし、だからといって私のように、岩波文庫だとか「世界の名著」シリーズだとか、間違いのなさそうなところばかりを探っているのは、せっかく運転免許を持っているのに、迷子になることや事故にあうことを恐れて、知らない街までドライブに出かける楽しみを捨てて、近所の良く知った道ばかりをちょろちょろしているのと同じことだ。つまり、対象を限ってしまうことは、「安全」かもしれないが、やはりある大きな可能性を捨ててしまうことを意味するのだ。

 さらには、全ての文学は、それぞれに与えられた時代背景のもとに生まれてきた訳で(ボードレールの「現代性(モデルニテ)」を想起されたい)、それは最新の現代文学だとて同じ事情である。つまり、良書も悪書も皆、現代というこの我々の時代の申し子なのであり、それを避けるということは、今自分が生きている世界のある一面から、眼をそらすことにはならないだろうか。だとするならば、それは歴史を学ぶばかりで、それを現在に生かそうとしないことと同じといえるだろう。

 そしてまた、大いに話題にはなるが、それも一時的なもので、間違っても文学史に名を残すようなことはなく、良くても数年後には誰も思い出しもしなくなるような書物は、逆にいうならば「そのときにしか読めない書物」ともいえる訳で、しかも話題になる、ということは、「文学的価値」はどうあれ、その時代に適った何かを持っていることは確かなのだから、「旬」が過ぎないうちに読んでおく、というのも、そうした意味では価値のある読書だといえるのではないだろうか。

 と、いう訳で、私もこれからは、新しいものもたまには読んでいこう、などと思っている。が、どうにも書店の店頭に並んでいるような本についてはまるきり不案内で、作家の名前もよく知らないし、何から手をつけたらよいのか見当がつかない。

 とりあえず、少し前にこのブログでも取りあげた、村上春樹あたりから読んでみようか、というところだが、また、あちらこちらのブログにお邪魔して、参考にさせていただきますので、よろしくお願いします。

 しかし、我が家には「積ん読」本と化した歴史的世界的名著が山とあり、そして私の遅読に変化は全くない、という現実も一方には厳然としてある。この上に新刊書も、とよくばったりしても、さて、どこまで読んでいけるのやら。

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『著作と文体』

読書について 他二篇 (岩波文庫)読書について 他二篇 (岩波文庫)
(1983/07)
ショウペンハウエル

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ミスター・ノーバディー

このブログで、ショウペンハウアのものを取りあげるのはこれで二度目だ。この『読書について』もまた、前に扱った『自殺について』と同じく、『パレルガ・ウント・パラリポメナ』のなかから抜粋されたものになる。

 この本に収められた三篇、すなわち『思索』、『著作と文体』、『読書について』は、扱われる題材もまたその扱い方も、主著である『意志と表象としての世界』を読んでいなくても特に不自由なく読める類いのもので、その意味では、先の『自殺について』に収録されたものよりも「一般向け」だ、といえるのかもしれない。

 ただ、だからといって「ショウペンハウアらしさ」が少ないか、といえばそんなことは全くなく、彼独特の小気味よい毒舌だとか、思い切りのいい極論だとかは充分に楽しめるので、ショウペンハウア哲学の入門書、というか、最初の「とっかかり」とするにはなかなかよい本だと私は思う。

 で、今回、この本の中で、表題作ではなく、『著作と文体』を選んだのは、他ならぬ、私が今、こうして文章を書いている、このことについて少し考えてみたくなったからだ。

 インターネット上の、掲示板だとかブログだとかにおける、匿名性、というものの問題点については、よく取沙汰される。つまり、匿名であることをいいことに、人種差別的な暴言だとか、有名人への中傷だとか、極右的あるいは極左的な過激な極論だとかを、明らかに大した考えもなく書き込んだり、あるいは、個人のホームページやグログへの「荒らし」行為だとかをしてみたり、そういう類いのことだ。この「匿名」、ということについて、ショウペンハウアはいう。

 「この匿名という物陰に身をひそめることが我が身保全の道であると考えるようになれば、青年たちは信じがたいほど破廉恥な精神のとりことなり、いかなる文筆的悪事にもひるまないことになる。」

 文筆で身を立てる人たちだけではない、誰も彼もがインターネット上にいいたい放題ということになった現代に至り、彼の憂慮は、彼の予想を越えた酷い有様として現実化してしまった、ということだろう。

 ただ、現代にあっては、特にインターネットにおいては、「匿名でなければ危なくてしょうがない」という、19世紀の哲学者には想像もつかない現実もあるので、一概に彼の「先見の明」を賞賛するばかり、という訳にもいかないのかも知れない。つまり、匿名性が、大きな意味での(つまり「法的な」意味に留まらない)「表現の自由」を、保証してくれる部分もある、という訳だ。

 そういった意味では、このブログのような形は、その「匿名による表現の自由」に、かなり頼って成り立っている、というべきだろう。私のような、無名の中年男が、世界的名著について好き勝手なことを、ほとんど何のリスクも負わずに、こうして書きなぐっていられるのだから。

 勿論、そればかり、でもないとも思う。パソコンがあり、インターネットにつながっていれば、いや、携帯電話でもよいのだが、とにかく、ブログの開設や更新には、直接お金はかからない、というのは今や常識だが、一方において、私のような無名の中年男がいくらせっせとブログを書いても、一銭も稼ぐことはできない、というものまた常識だ。

 この市場経済主義の世にあって、こうしてお金によらず、またお金のためでもないものとしてあるがために、私の、あるいは我々無名のブロガーたちの「自由」が、保証されている部分は確かにあると思う。(勿論、こうしてFC2のシステムを利用している以上は、完全に市場経済から脱しているとはいえないのだけれども。)

 この著作と金銭について、我々の哲学者はこういう。

 「ドイツやその他の国でも、現在文学が悲惨をきわめているが、その禍根は著作による金銭獲得にある。金銭の必要な者はだれでも机に向かって本を書く。民衆は愚かにもそれを買う。このような現象に伴って言語が堕落する。」

 ひと昔前までは、書いたものを世に発表するためには、どこかの出版社に認められてどこぞの紙面を割いてもらうか、さもなければ自費で出版する以外になかった。つまりそれは、「著作」というものが、市場経済と分ち難く結びついていたことを意味する。

 インターネットの普及によって、その市場経済から独立した形で、まがりなりにも「著作」を世に問うことができるようになった訳で、そのことによって、企業だとか、「消費者」だとかを考慮する必要もなく、また商品の大量生産よろしく書きなぐることもなく、好きに書けるようになった、というのは確かなのだ。

 だが、こうして図らずも得られた我々のこの自由も、やはり良いことばかり、とはいかない。先に引用したショウペンハウアの言葉の、最後の一文に注意していただきたい。すなわち、「言語の堕落」。この論考において、とくにショウペンハウアが取り上げ、憂慮し、憤っているのが、これだ。

 誰もが、自分の好きに書ける、ということ。この手軽さが、前述の「匿名性によるやりたい放題」と同時に、「言語の堕落」をも生み出しているということ、これもまた確かだと、私は思う。

 かつての、出版社を通してしか著作を発表できなかった時代には、どんな著作であれ、少なくとも発表される前に、筆者以外の誰の眼にも触れない、ということはなかったはずだ。編集者なり誰なりが確認した上で、著作は紙のうえに活字として印刷され、そして初めてそれは世に出ていた。

 しかし、例えばこのブログなどはどうだろうか。私が書き、書き終え、読み返し、良し、と思えばすぐにアップロードだ。その間、私以外の誰の眼にも触れることはない。いや、大概のひとは、自分のブログ記事を、誰かに確認してもらってからアップする、なんて面倒なことはしていないと思うが、どうだろうか。

 もしそうならば、正に世界中から閲覧可能な場所に、客観的な評価、というものを全く受けていない文章が、一分一秒毎に大量に公開されていることになる。このことの「異常性」について考えてみると、何やら恐ろしい気がしてくる。ここでもうひとつ、ちょっと長いがショウペンハウアの言葉を引用してみる。

 「国家は新聞に真剣な考慮をはらって完全無欠な国語を使用させるべきであろう。そのために検閲官を任命するのも一つの方法であろう。すなわち記事の内容にはいっさいふれず、不具畸形の語、あるいは一流の著作者には見あたらない語を用いたり、文法上の誤りや文章構成上のごく些細な誤りを犯したり、前置詞の結合を誤って不当な意味に使ったりした場合には、そのたびごとに罰金として金貨一枚をその新聞記者から徴収するのがその検閲官の任務である。」

 勿論これは、彼一流のユーモアを含んだ極論ではある。だが、ただの冗談だと聞き流すことのできない鋭さが、この一文にはある。検閲官、は極端だが、誰か他人の文章を読み、判断することに長けているひと、例えば出版社の編集者、それも「売れる文章」ではなく「正しい文章」の何たるかを心得ている編集者のようなひとに、客観的に評価されることもなく、完全な「自己判断のみ」で、自著を公にするということの危険性を、この一文は我々に思い知らせてくれる。

 インターネット上において、日本語の文章、というものは確かに変化した。例えばこのブログでも、段落と段落との間に一行の空白が挟まっている。これも勿論、正しい文章の書き方ではないが、大概のグログには、この空白がある。それは画面上で文章を読む、という、「文章の正しい書き方」の成立以後にできた、新しい環境への適応の形だ、といえばそうかも知れない。なぜなら実際、この空白がある方が読みやすいからだ。

 しかし、よくアイドル歌手だとかお笑い芸人だとかのグログにみられるような、あの一、二行の文章と文章との間に、数行に渡る空白が続くようなものは、読みやすさのため、というよりはもう、ページレイアウトのデザイン性を優先したような形であり、私としては、あれは最早「文章」とよぶべきでない、新式の「何か」だ、といいたい。

 これは文章のレイアウトの話だが、文章そのものにも、やはりインターネット上に独特な形、というものがある。それは、文章語であるよりは限りなく口語に、しかもより日常会話に使われる口語に近い形の言葉遣いで書かれる、というものだ。

 これはきっと、日本におけるブログというものの普及の過程や経路が関係しているのだとは思うが、私は正直なところ、パソコンを使い始めたのも、インターネットを利用し始めたのも、世間の平均からすると極端に遅かったので、この辺りのことについては全く知らないので何ともいえない。

 わかるのは、現在の日本語のブログは、この非常にくだけた口語体で書かれることが多い、ということだ。そしてこの口語というものは、普段あまり意識していないが、文法的には実にむちゃくちゃな日本語だ、ということもまた確かなのだ。

 日常会話、とは意味さえ通じればそれでよいので、きっちりとした日本語などは邪魔にさえなる場合もあるだろう。しかし、いくらそれが親しみやすく気軽だからといって、そのまま文字にしてしまうことにはやはり問題があるのだ。この辺りのことについては、ショウペンハウアはこんなことをいっている。

 「話すとおりにものを書こうとするのは、誤った努力である。むしろいかなる文体も碑文的文体の面影を、いく分でも留めているべきである。(中略)話すとおりに書こうとする努力は、その逆の努力、つまり書くとおりに話そうとする努力と同じように否認さるべきである。」

 我々は会話の際には、非常に省略された形の日本語を、無意識的に使っている。あるいは所謂「ら抜き言葉」の使用だとか、代名詞の乱用だとかを、平気でしている。そんな言葉を、文章としてインターネットという「公共の場」で、皆して使っていたのならば、やはり「日本語の文章」というもの全体に何かしらの影響を与えずにはいないだろう。

 勿論、言葉というものは変化していくものではある。しかし、インターネットという新しいシステムによる変化を、古来からの日本語の歴史的な変容と同列に語るのは、ある生き物が、最近百年の急激な環境破壊によって絶滅したことを、長い生物進化の歴史における自然淘汰と同列に語るようなものだ。

 だから、我々、「正しい日本語」の解答をしっている訳ではない名もなきブロガーとしては、とりあえず、匿名性によって守られていることや、書いたものに誰にも文句をいわれないことなどによって、調子に乗ったりなどしないことが大切だろう。我々を律することができるのは、我々自身しかいないのだから。

 我々のこの「自由」を、私は上で「図らずも得られた自由」といった。そう、我々ブロガーのほとんどは、この「自由」を得るために、何の努力もしていないのだ。しかしだからといって、この自由を守るために何もしなくてよいという訳ではないだろう。

 この『著作と文体』を読んでいると、何だか文章を書くことが恐くなってくる。それぐらいに厳しいことをショウペンハウアはいっているのだが、しかし、素人文筆家を気取った私のような人間にとっては、常に正しい日本語の使用を心掛けるべきだ、という自戒の念を忘れないために、こういうものを時折読むべきなのかもしれない。・・・などといいつつ、今日もこんな駄文をアップする私なのであった。

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『自殺について』

自殺について 他四篇 (岩波文庫)自殺について 他四篇 (岩波文庫)
(1979/04)
ショウペンハウエル

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自殺の合理性

 この本は、ショウペンハウアの『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』の一部を訳出したものだ。この哲学者の書いたものは、その主著である『意志と表象としての世界』に展開される彼の哲学体系を、一通り理解していないことにはどうも理解しづらいという難点がある。

 まあ、この『パレルガ・・・』というのが、訳者が解説してくれているとおり、翻訳すると「付録と補遺」といった意味であり、ようするに主著の「おまけ」みたいなものなので、それも仕方がないのではあるが。

 私はこの哲学者が好きだ。「世界は私の表象である」という、最も極端な主観主義を第一命題とするこの人の哲学体系は、極論ゆえの傲岸さがある一方において、極論ゆえの単純明快さがあって面白い。文章も、上手なたとえ話があちこちにあって、あまり哲学書を読んでいるという堅苦しさを感じないで読める。また、好き嫌いのはっきりした人で、嫌いな対象にぶつけられる皮肉たっぷりの毒舌も、読者を楽しませてくれる。

 そしてショウペンハウアといえば、徹底した厭世主義で有名で、「人生なんてものは始めてしまったのがそもそも大きな間違いだ」というのが彼の基本姿勢なのだが、その彼の哲学が、自殺を否定しているというのもまた、興味深いところだ。

 この点について詳述することは、つまり彼の形而上学について細かく説明することになってしまうので割愛するが、まあ、ざっくりいってしまうと、「生きんとする意志」を否定することを、ひとつの理想、というか目的として挙げるのが彼の哲学なのだが、自殺はその「生きんとする意志の否定」にはならない、ということになる、そうだ。

 だた彼は哲学者らしく、論拠なく自殺を否定するような姿勢をも否定する。つまり、生きるということは苦しみの連続に過ぎない、とする彼としては、ただ卑怯だだとか、不正だだとか、まともじゃないだとか、そういう感覚的、感情的嫌悪だけで自殺を否定するな、といいたいわけだ。

 彼にいわせれば、「自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになる」からダメだ、ということになるらしいのだが、ナンノコッチャである。同じく人生の苦しさからオサラバできるのなら何でもよさそうなものだが、さすがに哲学者となると、いろいろと注文が多い。

 そこで彼の教説に対抗して、という訳ではないが、自殺を合理的に肯定することはできないか、少し考えてみたい。ひとことで自殺、といっても様々ある訳で、実際に自殺をした人たちは決して少なくはなく、そしてそういう人たちは、合理的か否かはおくとしても、とにかく自殺という行為を肯定する、という結論を得た訳だ。

 それは確かに、軽視すべきでない結論だろう。それに賛同するにせよしないにせよ、こうして自殺せずに生きている我々の立場に、真っ向から対立する、小さからざる一群がたしかに存在する以上、やはり一度は考えてみるべきなのだと私は思う。

 ここは主に文学作品を扱うブログなので、一応、その守備範囲でみまわしてみると、やはり眼につくのは、あの有名どころだろう。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』だ。主人公の自殺に終わるこの物語だが、そのなかに、自殺について議論する場面があったのを、憶えておいでだろうか。

 これはその物語の結末に、正当性よりは必然性を与えるために、ゲーテが挿入したエピソードだ。だから、自殺の合理的な正当化よりはむしろ、その性格に相応しい主人公の考え方を披露する演出に主眼がおかれており、結果、ウェルテルの感動しやすい性質そのままの、「苦しみが耐え難いのだから自殺も仕方がない」という、合理的であるよりは大いに感情的な主張になっている。

 勿論合理的であることばかりが正当性を証明する訳ではないけれど、今回は一応哲学書を扱う回なので、これは充分でない、ということにしよう。ひとつだけ、ゲーテはあの有名な、ハーテムとズライカの「死して成れ」の詩をかいた人だ、ということを付記しておく。

 では、これはどうだろう。ヘルマン・ヘッセの『荒野のおおかみ』。これのなかに、「荒野のおおかみについての論文」というものがでてくるが、そこで、「自殺者」というものが語られる。ただヘッセは、ここで「自殺は正当か否か」という議論をしている訳ではなく、「自殺者」と呼ばれる人間について語っているだけだ。 

 で、その「自殺者」とよばれる人間は、「個体化は罪であるという感情に襲われた人間」で、人生の目的は「自己の解体、母への復帰、神への復帰、全体への復帰」と考える、と定義されているが、これはほとんどショウペンハウア主義者といってしまっていいだろう。

 そして彼らは、自殺という手段を、「いつでも用意されている非常口」だと考えている、とされる。実際に自殺するか否かは別として、常にそれはそこにあると意識されているということだ。つまりそれは、選択肢のひとつとして少なくとも肯定されている訳で、私はここに注目したい。

 人生というものは、絶えざる選択の連続から成り立っている、と私は考える。我々は日々何らかの選択をしながら、自分の進むべき方向を決めている。選択肢が多ければ、人は自由を感じるだろうし、選択肢が少ないか、あるいはひとつしかなければ、人は不自由で抑圧されているように感じるだろう。

 夕飯を何にするのかだの、何時に起きるかだのといった些細な日常的なものから、どの大学に進むのかだの、どの会社に勤めるかだの、どの異性と結婚するのかだのといった、人生の大きな方向を定めかねない重大なものに至るまで、選択の機会というものには、いつでも、どこででも我々は遭遇する。その選択肢のなかに、自殺を含めるということ。Aか、Bか、それとも自殺か。こういう形での自殺の肯定に、合理性はみとめられるだろうか。

 確かにこれでは、自殺それ自体の正当性の合理的な説明にはなってはいない。所謂「自殺者」であるかどうかは、ほとんどその人の気質によるところが大きいからだ。しかし、この「選択肢に自殺を含む」という姿勢、についてはどうだろうか。この姿勢には、合理的な正当性があるだろうか。

 その合理性、というものが、形而上学的に説明がつくことをいうのだとしたら、勿論正当性の証明などは簡単にはできないだろう。しかし、それが実際に生きていくうえでの、ある種の合目的性と合致することによって、合理的だといいうるものであるとするならば、私はこの姿勢の正当性を信じる、といいたい。

 Aか、Bか、それとも自殺か。こういう形での選択肢からAなりBなりを選ぶこととは、選択肢に自殺を含まない場合と、何が違うのだろうか。後者が、単に生き方を選んだに過ぎないのに対し、前者にあっては、どんな形であれ死ぬことではなくて「生きること」を選んだ、ということを意味しないだろうか。

 つまり、ただ現在自分が生きているのだという事実だけを根拠に生きているのではなく、生と死とを天秤にかけたうえで、自ら生きることを選んで生きる、ということなのだ。それは、自殺というものを、大した論拠もなく感情的に毛嫌いし、選択の可能性すら否定してしまうのではなく、自らの自殺の可能性を積極的に認めてしまったほうが、逆説的に、生きることに対して能動的な姿勢を取り得る、ということだ。

 ひとつ、例証を挙げてみよう。勤めていた会社が倒産し、失業者となった45歳の男がいたとする。家族は、妻とまだ小学生の子供がふたり、住宅ローンも抱え、途方に暮れる。職安にいってみても、生活を維持できそうな収入を期待できる仕事などみつからない。男の脳裏に、俄に自殺という方法が浮かび上がる。

 それは単に、この苦境から手っ取り早く逃げ出すため、などではなかった。経済的にみて非常に合理的な方法だった。生命保険は家族にまとまったお金を残してくれるだろうし、そのうえ、住宅ローンは自分が死ねばそこで支払いの義務はなくなり、おまけに大人の男一人前分の口減らしまでできる。自分がどこかの会社に苦労して就職し、定年まで少ない給料を稼ぐよりも、ずっと楽な暮らしを、少なくとも金銭的には家族にさせてあげられるのだ。

 こうして、自殺は彼にとって充分な現実味を帯びている。しかしそれでもなお、彼が生き、生活していくことを選ぶためには、少なくとも、失業前の生きることが当たり前だった頃よりは、大きな勇気が必要だろう。そしてさらには、彼は以前よりも、自分が生きていることの意味を、嫌でも考えさせられることになるだろう。

 つまり彼は、自殺の可能性を自らに認めることによって、生きることへの積極性、能動性を、実践的にも心理的にも高めることとなる訳だ。勿論、彼が自殺という選択肢を選ばなかった場合に限った話ではあるのだが。

 人間とは地上で唯一、自らの意思によって自らを殺すことのできる存在者だ。だからこそ、我々が生き続けようとする意思は、動物的な生存本能などよりもはるかに尊いのだと私は思う。ヘッセの描いた「自殺者」や、ショウペンハウアの「生きんとする意思の否定」とは違う方向を向いてしまうことにはなるが、この自殺の逆説的な肯定こそが、私にとっての「自殺の合理性」だ、ということなのだ。

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