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『キリスト者の自由』

キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)
(1955/12/20)
マルティン・ルター

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キリスト教文化の理解のために

 私が『新約聖書』を初めて読んだのは、中学生の頃だった、と思う。キリスト教とは縁遠い我が家に、どうして聖書があったのか記憶にないが、とにかく、居間の書棚にあった小さな聖書を自室にもっていき、読んだのだった。

 なぜ聖書など読む気になったのか、これもよく憶えていないが、まあ、単なる好奇心、ということにしておこう。読んでみて、私は自分でも意外なほどに、この書物を気に入ってしまった。何がそんなに私の心に適ったのか、自分でもなんともいえないが、性にあっていた、ということなのだろう。物語は面白いし、比喩を使って語られるイエスの説教も面白かった。そしてもともと、私が一神教的な世界観に違和感を感じないたちだったこともあるのだろう。

 十代の頃の私は、二十代に比べるならば、あまりたくさんの本を読むほうではなかった。しかしこの『新約聖書』、特に四つの福音書については、繰り返し何度も読んだ。おかげで、後になって西洋の文学の深みにはまり込んだときに、そのキリスト教的な背景についての理解に、この読書経験を大いに役立てることができたのは幸運だった。

 ただ、その十代前半の頃の私は、キリスト教というものについて、特にカトリック的なのもの、ということになるのだと思うが、ある疑問を抱いていた。当時の私のキリスト教についての知識、というものは、ほとんど『新約聖書』から知ることができるものに限られていた訳だが、その知識と、実際に西洋で営まれるキリスト教信仰とでは、何やら大きな違いがあるように思われたのだ。

 以前、このブログでジャンヌ・ダルクについて書かせていただいたが、ジャンヌは、男装したことだとか、教会の権威を無視して直接神との対話を試みたことだとかについて、宗教裁判において罪に問われた。しかし、女が男の格好をするなだとか、神様とは教会を通してだとかいうことは、イエス・キリストの言葉が書かれた福音書の、どこにもみあたらない。

 そもそも、教会の権威、あるいは教皇の権威といっても同じだが、そんなものを保証することを、少なくとも福音書のなかではイエスはひとこともいってはいない。イエスが弟子たちに、自分の権威を分け与えるような場面は確かにある。しかしそこから、教会だの教皇だのの権威づけまで導き出すのは、ちょっと飛躍がすぎるというものだ。

 他にもマリア信仰だとか、教会の建物の豪華絢爛な装飾だとか、イエスならばそれは否定するだろうと思われるようなことは、様々ある。一切誓うな、と聖書にはイエスの言葉としてはっきりと記されている。しかし神様だとか聖者だとかをさして誓いの言葉を述べる人の、なんと多いことか。

 細かいことをいい始めればきりがないが、勿論、当時の私もそれをもってキリスト教を非難しようなどとは思わなかった。まあ、いろいろと私の知らない歴史的な、あるいは神学的な事情があるのだろうと思っていた。そしてそれは実際その通りなのだろう。

 キリスト教とは、宗教としては新しいものの部類に入る。最初にそれはユダヤ教の内側から始まった。世界宗教への第一歩が踏み出されたローマにも、やはり古来の多神教的な神話が根付いていたし、やがて、カトリックの支配するところとなり、キリスト教文化が華開くこととなるヨーロッパにも、元々はケルトやゲルマン等の様々な神話が息づいていた。

 そうした場所に、新参の宗教を根付かせるためには、古来の宗教がもつ要素や、そこから生まれた風習等をも生かしつつ、教えを広めていく必要はあったはずだ。古いものを全て否定されたなら、誰も新しいものを素直に受け入れはしないだろう。マリアという「女神」を信仰することも、北欧神話的な「世界樹」としてのクリスマスツリーを飾ることも、本来ならば全く「キリスト教的」ではないのだが、教会は仕方なくそれらと妥協したのだろう、そんな細かいことより、キリスト教の教えが広まることの方が重要だと考えて。

 本来はオリエントの宗教であるキリスト教の、ヨーロッパへの伝搬の歴史については、例えばハイネやミシュレなどの著作から、私も知ることができた。私は基本的には「西洋かぶれ」なところがあり、向こうの本をよく読んだおかげで、次第に「聖書との矛盾」の正体もみえてきたし、そうした矛盾をなんとかまるくおさめめようという、スコラ的神学的な屁理屈の意図も、まあ理解することができた。聖典は重要だ。しかし、実際に教会を権威づけ、運用し、信者を導いていくことも大切であり、そのためには「方便」もまた必要だったということだ。

 だが、その「方便」も行き過ぎると問題になる。教会の権威が、権力となり、利権となっていくに従って、それは過大になっていく。そうした流れに反するものとしてあらわれたのが、マルティン・ルターということだったのだろう。

 マルティン・ルターは、カルヴァン等と共に、宗教改革の指導的立場にあった者たちの内のひとりとして有名な人物だが、それのみならず、彼がドイツ語に翻訳した『新約聖書』が、ドイツ語という言語が(近代的な意味において)ひとつの言語として成り立つことに、大きな役割を果たした、ということでも有名だ。つまり彼はゲーテと共に、世界有数の言語文化を生み出したドイツ語圏の精神史における、実在の文化英雄だともいえる訳だ。

 この本を読んで驚いたことは、私がかつて『新約聖書』を読んで感じた疑問について、ルターもまた同じように考え、そして教会の(勿論カトリックの)過ちを告発していることだ。福音主義的な、つまり聖書に書かれていることを重要視しようという彼の考え方が、聖書しか知らない私の考え方と共通点をもつのは、当り前といえば当り前ではあるが。

 この『キリスト者の自由』という論文、ほとんど小冊子といってしまってもよさそうなほどに、短い文章なのではあるが、我々のような「異教徒」、門外漢、部外者が、「カトリック対プロテスタントの対立」という、キリスト教内の微妙で難解な問題について、何かを知ろうというときには、なるほどよい読み物だな、と思われる。

 この本を読んでみて、ちょっと面白かったのは、ルターの考え方が、浄土真宗的な他力本願に通じるものであるように思われたことだ。彼は、善い行いによって義とされることはない、という。

 「誡めはわれわれに種々の善行を教え且つ規定するが、それだからとてそのとおりになるのではない。誡めはいかにも指示するが、助力しない。何をなすべきであるかを教えるが、実行する力を与えない。故に誡めはただ、人間がこれによって善に対して無能であることを悟り、自己自身に頼り得ないことを知るのに役立つばかりである。」(本文 第八)

 そして、ただ「信仰」のみが必要だ、とされる。

「キリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるのにいかなる行いをも要しないということが明らかにされる。かくていかなる行いをももはや必要としないとすれば、たしかに彼はすべての誡めと律法とから解き放たれているし、解き放たれているとすれば、たしかに彼は自由なのである。」(本文 第十)

 なぜ「信仰のみ」でよいのか、勿論ルターは、聖書にその論拠をもとめつつ論証しているが、その詳しいところについては、ここでは触れない。ようするに彼のいう「キリスト者の自由」とは、カトリック的な戒律からの自由、という意味なのだろう。そして所謂「信じる者は救われる」という、この一点にのみ、信仰の実践というものの全てを見出そうとしているのだろう。

 こうして、修道的な勤行の必要を否定し、ただ神を、そしてイエスを信じることによって救いを「与えられよう」とするあたりに、私は浄土真宗の他力本願に通じるものをみるのだが、どうだろうか。まあ、私は浄土真宗についてよく研究したことがある訳でもないので、かなりいい加減な感想をいっているだけなのではあるけれど。

 それはどうあれ、少なくともカトリックの方からすれば、彼の考え方はとんでもないものだ、ということになるのは、容易に想像がつく。何せ、彼が否定しているのは、教皇の絶対権威をも含めた、カトリック教会の存在とその役割というものの全てに他ならないからだ。

 しかし一方において、ルターの主張は、事実その論拠を『新約聖書』に得ており、それだけに容易に否定できないものであったこともまた、確かなのだろう。実際、結局カトリック教会は最後まで彼を止めることができず(破門してみたりなどもしたようだが)、様々な混乱や争いの末、ヨーロッパというキリスト教世界の大分裂に至ったのだから。

 ただ、カトリックとプロテスタント、という表現をしてしまうと、なにやらプロテスタント教団、みたいな統一された組織があるように錯覚してしまうが、実はプロテスタントとは、カトリック教会に反して生まれた、福音主義的な諸宗派の総称だ。だから、ひとことで「キリスト教」といっても、実に様々あることになる。この所謂「西方教会」系の宗派のほかにも、東方系の正教会などもあり、我々部外者には、このあたりの微妙な違いを理解することは本当に至難の業だ、といえるだろう(いや多分、キリスト教の一般信者の人たちにも理解は難しいはずだ)。

 よって、あの歴史の時間に習った「宗教改革」なるものも、我々「異教徒」には理解が難しいのも無理はないことなのだろう。だがこの『キリスト者の自由』は、実に簡潔に、その改革の大きな原動力となったものの姿を、私たちにみせてくれる。そしてルターの考えを知ることは、カトリック教会という、もう一方の大きな勢力について知ることにもつながるのだ。

 ヨーロッパ文化の理解、などという大きなことではなく、ただヨーロッパ文学を楽しむ、ということのためにも、やはり「キリスト教」というものへのある程度の理解は必要だろう。この本は、そのための一助には充分になり得るものだと、私は思う。「そんなもん興味ないよ、他所の国のことだし」、ですませてしまうには、あまりにも魅力的な文化が、かの地にはあふれているのだ。

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