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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『トム・ソーヤーの冒険』

トム・ソーヤーの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)トム・ソーヤーの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)
(2001/10/18)
マーク トウェイン

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誰のための児童文学か

 先日、実家に遊びにいったとき、居間の書棚を何となく眺めていて、ふと眼についたのが、この『トムソーヤーの冒険』だった。

 これを最初に読んだのは、まだ本を「買う」ことができず、本は「買ってもらう」ものだった子供時代のことだ。正直、愛読書、ではなかった。もっとファンタジックな物語が好きだった子供時代の私は、例えば佐藤さとるのコロボックル童話などを(妹の本だったがこっそりと)愛読していた。だから、古い本なのに、びっくりするほど保存状態がいい。

 しかしそれがかえって、慕わしさからくる懐かしさではなく、「ああ、こんな本をよんだこともあったなあ」というような、とっくに忘れていた、遠い記憶を呼び覚まされるような懐かしさを私に感じさせたようで、上下巻二冊、書棚から抜き取り、持って帰ってきた。

 今回また読んでみて、改めて思ったことは、やはり、あんまり子供向けの本じゃあないな、ということだった。まず、長い。文庫本で二冊、これはなかなか読み応えのある分量だ。実際子供の頃(子供といってももう小学校高学年だったと思うが)には、何度か挑戦してやっと上下巻を通読できたような、そんな記憶がある。そして何より、その内容もまた、子供向けではないと、私には思われるのだが、どうだろうか。

 巻末の、訳者による「あとがき」には、この作品が発表された当初には、

「「模範少年」のすきなおとなや、日曜学校の先生たちの間では、評判がよくありませんでした。そのわけは、このお話を読んでみれば、よくわかります。」

と、ある。確かに読んでみたならば、さて公的な教育機関が、この本を例えば「夏休みの推薦図書」みたいなものに選ぶことはあるのだろうか、とは思われる。だが私はなにも、この本が「悪漢児童文学」だから、子供向けでない、などといっている訳ではない。

 この本は「悪漢小説」だ。それは間違いない。主人公のトムは、ひとことでいうなら「どうしようもない悪ガキ」であり、それ以外の何かではない。友人のジョーも彼の同類だ。彼らがいかなる子供であるか、それはあるひとりの少年が、ひとつの「理想像」として体現する形で、物語っている。

 ハックルベリ・フィン。彼は学校へも、教会へも行かなくていい。顔を洗う必要もないし、服を汚して叱られることもない。いつでも昼寝をしていいし、いつ森だの川だのに遊びにいってもいい。彼はつまり浮浪児なのであり、そしてその浮浪児としての生活こそは、トムたちの理想なのだ。

 それはまた海賊だとか山賊だとかへの憧憬としてもあらわれる。「良い子」たち、「優等生」たちと敵対し、ならず者の自由に憧れ、実際家出をして「海賊として」野外生活をしてみたり、宝探しをして事件に巻き込まれてみたり、そして最終的には本当に宝を手にしてしまい、すてきな恋人まで手に入れる彼ら「悪ガキ」たちのこの物語は、良俗だの道徳だのではなく、一貫して彼ら自身の視点と、価値観に支えられている、という点において、まさに「悪漢小説」なのだ。

 だが、この「悪漢小説」的価値観こそは、実は子供というものの本心そのものなのではないだろうか。それは、とにかく子供たちが自分の好き勝手にしていたい、という欲求のあらわれに他ならないからだ。だからこの物語は、子供の現実の心そのままを描いているのだ、ということができる。

 私が子供向けでない、と思う理由はここにある。勿論、子供が読んでも充分に楽しめるものであることは私も否定しないが、むしろ、大人が、自分の子供時代を懐古するために読むのが、この本を楽しむための最もよい方法であるように、私には思われるのだ。

 子供は、日々の遊びのなかで、海賊なり、山賊なり、その他なんであれ、自分の好むところのものになりきって、その所謂「ごっこ遊び」をトム・ソーヤーのように楽しむことができる。その舞台は特に19世紀のアメリカの片田舎である必要はなく、現代日本の小学校の校庭だとか、コンクリートの公園だとかでかまわないし、あるいは、高層マンションの通路だとか、携帯ゲーム機のなかの仮想空間であったとしても、全くかまわないだろう。

 そう、環境がどうあれ、子供というものはあくまで子供としてあり、それぞれの時代背景は彼らの姿を変化させ、その憧れの対象を別の何かに向かわせるのだとしても、主体となる子供自身の本質においては、DSに夢中になる現代の小学生も、トム・ソーヤー少年も同じだと私は思っている。

 だから、子供がこの本を読んだのならば、そこに見出されるのは自身の分身としてのトム・ソーヤーだろう。それはそれでひとつの楽しみなのかもしれないが、しかし自分に近いものであるだけに、おかれた環境の違いは際立って感じられるのではないだろうか。

 現代の小学生は、筏を盗んで海賊ごっこなどしないだろう。同じくハックルベリのような自由には憧れを抱くのだとしても、それは、仮想空間での冒険物語の主人公になることによってあらわされたほうが、より現代の子供らしいし、そのほうが彼らの心にもかなうのではないだろうか。

 勿論実際のところは、子供たちに聞いてみなければ判らないことではあるが、そうだとするならば、特に「教育にいい」訳でもないこの本を読み、昔の外国の子供の遊びに付き合わされることよりも、彼ら好みの現代的な遊びをさせてあげることのほうが、ずっと彼らにはありがたいことだろう。子供というものは、空想家であると同時に現実主義者であり、手近なもの、現実的なものほど彼らを喜ばせるものはないのだから。

 だが一方において、我々大人にとってはどうだろうか。時間によって、過去の思い出は美化される、とはよくいわれることだが、それはつまり、実体験というものが思い出として抽象化されることの副産物なのだろう。それは、現実性や具体性を失うことを意味するが、ある面においては、個人的で些末な差異などは淘汰され、より集合的で本質的なものへと純化されることをも意味する。

 そうした「大人の眼」でこの物語に触れるとき、トム・ソーヤーは、時代も国境も越えて、我々にとって慕わしく懐かしい、「子供時代の思い出」そのものとして、たちあらわれてくる。

 実際、物語のなかで彼のすることなすことは、どれも自分にも覚えのあるようなことだと、そう感じる大人は多いのではないだろうか。いたずらをして叱られれば、悪いことをしたということを後悔するよりも、むしろバレないようにうまくできなかったことを後悔し、あるいは、好きな女の子の前では、その子の気を惹かんがためにさまざまな馬鹿げた「みせびらかし」をやってみたり、あるいはまた、ちょっと不運なことが自分にふりかかると、あたかも自分が世界中で一番不幸な子供であるかのようにわざと空想し、その悲しみに酔うことの快感を味わってみたりなど、みな、多かれ少なかれ私にも経験のあることばかりだ。

 我々は、彼の姿のなかに、輝かしい子供時代の自身の姿を思い出す。そのとき、トム・ソーヤー少年は、子供時代というものの象徴として、ひとつの「文学的地位」を得ることになる。ベアトリーチェやグレートヒェンが「永遠の女性」であるように、あるいは、ハムレットやウェルテルが「永遠の悩める若者」であるように、彼は、「永遠の少年」として、我々の胸の一部となるのだ。

 トム・ソーヤーがそうした力をもち得るのは、何といってもこの作品の「文学的完成度」の高さによるのだと、私は思う。この物語のなかでは、たしかに「悪ガキ」と「優等生」の争いが描かれている部分もあるのだが、しかし決して、道徳そのものが主題とされている訳ではない。

 物語の最後が、教訓や道徳訓で締められるようなことは全くない。また反対に、彼らの反道徳性を殊更に強調、あるいは美化することによって、反社会性の皮肉な賛美にはしるようなことも決してない。そこに、善悪の判断などは皆無なのだ。

 語られるのは、ただ子供たちのありのままの姿だ。子供の目線で、子供の想いだけを原動力に、物語は進んでいく。ここにこそ、この物語が、「児童文学」の傑作たり得ている理由があるのだと私は思うし、だからこそ、この物語は「大人向け児童文学」だと、私はいいたいのだ。

 つまり、この本は「子供にはもったいない」ということなのだ。子供はDSでもオニゴッコでも何でもやっているがよろしい。遊びならたくさんある。本を読みたいのなら、他の「子供向け」のものにして、こういう本はもっと大きくなってからにしなさい。



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