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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『人は成熟するにつれて若くなる』


 友の死

人は成熟するにつれて若くなる人は成熟するにつれて若くなる
(1995/04)
ヘルマン ヘッセ

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 このヘッセの詩文集については、以前にもこのブログで取り上げたことがあるけれども、再び、このなかのある一文について、書くことにする。書かなければならないような、出来事が起こってしまったからだ。

 この本に収録されている、『秋の体験』という小品。これは、ヘッセが七十五歳のある秋の日に、古い友人を自宅に招いたときのことを書いたものである。その友人というのは、オットー・ハルトマンといって、その61年前に、ヘッセがマウルブロン神学校の生徒だったときの、同級生であった。

 久しぶりの再会を楽しむ、ふたりの旧友。しかしオットーが滞在できるのは、たった一晩であった。その別れの際の、印象的な一行。


 別れにあたって私たちは、ふたりが考えていたことはひとことも言うことなく、互いに微笑み合った。「たぶん、もう、これが最後だね」と。


 出会ったときには十四歳であったふたりも、はや老年を迎えて久しかった。ふたりは遠くはなれて暮らしていたから、もうこの先、どちらも相手を訪ねる長旅には体力的に耐えられないはずであり、たとえそれが可能だったとしても、次にその機会を捉えるまでには、どちらかがもうこの世からは去ってしまっているだろうことを、ふたりともが悟ったうえでの、別れであった。そして実際、オットーはそれから間もなく死んでしまったのである。

 上に掲げた一文は、この本を最初に読んだときから私に強い印象を残していたのだが、つい最近、正月休みの辺りからしきりに思い出され、私は気になって仕方がなかった。たぶん、友人たちからの年賀状などを眺めたせいだろう。私もまたいつか、経験するかもしれない友人たちとのこうした別れのことが、しきりに思われた。そこで私は、ある旧友を訪ねることを思いついた。

 それは、このブログの記事に時折顔を出す、友人Yであった。Yと私の出会いは、中学二年の教室で同級生になったときのことだったから、ちょうど、ヘッセとオットーの出会いと同じ年頃、ということになる。

 私たちにはこうした事柄、生死に関わることや、人生の根幹に関わることなどを語り合う習慣が、ごく若い頃からあったし、何より、私がヘッセを読み始めるきっかけをくれたのはYであったから、まさしく、このことについて話をするには絶好の相手であった。さらには、昨年夏に彼は自宅を改装、なんとバーカウンターを自室に作ってしまったのだった。半年ぶりに、ほとんどどこかのお店にしかみえないそのバーカウンターの客になりたいとも私は思った。

 ただ、彼の職業は小学校の先生であった。しかも6年生の学級担任であったから、三学期である今は彼にとってはとても忙しい時期なのではないかと想像し、私は彼に連絡をすることを躊躇していた。4月か5月になってからのほうがいいかな、などと思っていた。その矢先の1月13日、別の友人から突然の連絡があった。

 Yが、倒れたというものだった。しかも、集中治療室に入っている、とのことだった。あまりといえばあまりに衝撃的であった。ただただ、驚くばかりでなす術を知らなかった私に、今度はYの奥さんが電話をくださった。ICUに入っているということで、お見舞いにいくべきか否か迷っていた私であったが、奥さんの、是非に、という言葉に、すぐに病院へ向かった。15日の日曜日のことである。

 集中治療室に横たわるYは、もうすでに意識不明の状態で、薄く開いた視線の定まらない眼から時折こぼれる涙を、奥さんや妹さんに拭いてもらっていた。私はすべてを悟り、泣いた。Yの前で泣くのはそれが初めてのことだった。奥さんは、私とYとを残して退室してくれた。私に、貴重な最後の時間を割いてくれたのだ。おかげで私たちは古い友人同士に相応しい、静かに語り合う時間を得ることができた。

 彼が心臓に病気を抱えていることは知っていたが、まさか、これほどまでに早く、「その時」を迎えることになろうとは思いもしなかった。私はヘッセのことを話した。話しながら触れた彼の額は汗をかき、そして温かかった。15分か20分ぐらい、私はひとりで話していた。しかし、彼の元を去ることが、なかなかできなかった。「もう、これで最後だね」といって微笑むことが、なかなかできなかった。

 16日から17日にかけての夜中に、Yは永眠した。45歳だった。

 通夜の日、私は仕事を午前中で終えてしまい、帰宅した。そして、過去にYからもらった手紙を手文庫から出してきた。いったい何通の手紙が、我々の間でやり取りされたことだろうか。特徴的なYの字で綴られた、それら思い出の記録の数々だったが、そのときは読む気になれなかった。ただ一通づつ順番に、私は手紙を眺めていった。すると、おかしなものが出てきた。

 それは空の封筒であった。しかし切手も貼ってあるし、宛名書きもしてあった。宛先は、和歌山にあった大学生時代のYのアパート。差出人住所は、そのころ私が一人暮らしをしていた静岡市内の1Kアパート。つまり、我々が最も頻繁に手紙のやり取りをしていた頃のもの、二十年以上も前のものだった。

 なぜ私は、その封筒を使わなかったのだろう。そしてなぜ、捨てずに取っておいたのだろう。今となってはわからないが、そのときにそれをみつけたことが、偶然だとは思われなかった私は、通夜の始まるまでの時間を利用して、手紙を書くことにした。その封筒に入れられるべき手紙を。

 今自分が書いている手紙に、Yからの返事を期待できない、というのはおかしな感じがした。手紙に限らず、私はこれまで、Yという読み手を意識せずに何かを書くということはほとんどなかった。このブログの記事にしても、以前書きなぐった訳のわからない小説のような論考のような駄文にしても何にしても、私は自分の書いたものは大概Yに読ませてきたし、Yは必ず、読んでなんらかの形で返答をくれた。

 そう、私は多くのものを彼との関わりの内に為してきたし、彼を意識して為してきた。思えば、あまりにも彼に依存しすぎていたのではないかと怖れるほどだ。私はもの言わぬ存在となってしまった彼に宛てた手紙を書く、という自らの行為の「異質感」を、今度Yに会ったらどう伝えようか、などと考えている自分に気づき、そのひどい自家撞着に苦笑した。彼の死から受けたこの心の動揺でさえ、私は彼に伝え、彼と分かち合うことを求めてしまっているのだ。

 そのときばかりではなかった。Yは以前から奥さんに、自分の葬式のときにはラフマニノフを流してほしいと言っていたそうで、出棺のとき、その約束はきちんと果たされた。私はそのラフマニノフを聴くともなく聴きながら、自分のときはタンホイザーの序曲かな、と思った。そして、今度Yに会ったときには、それをどう思うのか聞いてみよう、死出の旅路にワグナー、それも「序曲」なんて洒落ているじゃないか、といったら、あいつは何と答えるかな、などと思っていた。そして我にかえり、愕然とした。そんな些細なことにさえ、もう、私は彼からの返答をもらえないのだ、と。

 なんという大きなものを、私は失ったのだろうか。彼の葬儀を終えて、ようやくこうして何かを書く気になった今でさえ、私は自身のこの見極め難き損失について、多分小さく見積もりすぎているのだろう。きっと、これから徐々に思い知らされるのだ。

 旧友よ、君とは是非、ヘッセとオットーのように、互いに老境に達してから、静かに、その最後の別れのときをふたりともが悟り、受け入れたうえで、微笑んで別れたかった。

 そうだ、老年に達してこそ、若き日の共通の思い出は、輝きをまして私たちを楽しませてくれただろうに。あの北海道を共にオートバイで旅した日々も、大学時代の君の下宿に居候した日々も、語り明かした数えきれぬ夜々も、仲違いも和解も、取り交わされた幾通もの手紙も、いまだ果たされていない幾つもの約束も皆、これから我々の間でその価値を高め、我々の後半生をその基調となって彩ってくれるはずだっただろうに。私はこの底知れぬ空虚の前になす術を知らない。そしてこれから私を襲うであろう、さらなる喪失感を予見し、怖れおののく。

 このヘッセの老年期の詩文集は、私にとってきっと、以前とはまるで違った意味をもつことだろう。もう一度、読んでみようと思う。十代の頃、Yが教えてくれたヘッセ。西洋文学の広大な世界に、私はそのヘッセから入り込んだのだった。文学というものが、私のつまらぬ半生に幾分なりとも彩りを添えてくれたのだとしたならば、よってそれはYのおかげだといえるのだろう。

 だから、今一度、ヘッセから初めてみることにする。私の後半生が、これからいったいどのくらい続くのかは知らないが、こうして今、私とYとの友情が、これまでとは違う形に変化した以上は、私としては、この新しい形を受け入れ、そして、この空虚、この喪失を、埋めていかなければならないからだ。

 サン=テグジュペリは、旧友との友情というものを、樫の大木に喩えた。それは欲しいからといってすぐに得られるものではなく、何かによって替えのきくものでもない。樫の苗木を植えて、すぐにその木陰に休みたいといってもそれは無理なことだ、と。

 ならばそれは同時にまた、一度育て上げられた樫の大樹は、簡単に失われるものではない、ともいえるのではないか。これまで、我々は互いが「在る」ということを前提にして生きてきた。その半生の上に成り立つのが今の私である。その事実はもうすでに変えようがない。そしてその今の私を前提としなければ、これからの私、というものも在りようがないのだ。そうだ、否応なく、私はYとの、30年にわたって育て上げられた友情の大樹の根元にしか生きられないのである。

 いま、日射しが傾き、その葉の茂りが落とす陰が動いた。ならば私は少しだけ移動して、再びその木陰に憩うことにしよう。

 そう考えると、案外、Yはそば近くにいるのかもしれない。



 (この記事を、いまは亡き親友Yにささげます。一杯のシャルトリューズとともに。)




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『人は成熟するにつれて若くなる』

人は成熟するにつれて若くなる人は成熟するにつれて若くなる
(1995/04)
ヘルマン ヘッセ

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現在、ハーフタイム

 私は1971年生まれなので、今年の末にはいよいよ四十歳になる。よんじゅっさい。生まれてから40年。何だか嘘みたいな数字だ。

 日本人男性の平均寿命は、大体八十歳位らしい。だとすると、私に幸運にも平均的寿命が天より与えられているのだとしても、もう人生の半分は生きてしまったことになる。まあ、自分ではどうもそんなに長生きはできるとは思えないので、私の「これから」は、ほぼ確実に「これまで」より短いだろう、とは思っている。

 思い出せば二十歳の頃、私は、四十歳まで生きて、そこで自殺してしまう、という人生を考えていた。

 「七十、八十まで生きようと思うから、人生がややこしく、生きにくくなるのだ。四十年も生きれば充分だ。四十年かけても何もできないような人間は、その後何年生きても何もできないだろう。四十歳までに何かができるような人間ならば、それ以上無駄に生きながらえるよりも、すっぱり死んでしまったほうが、人生を善きものと観じながら満足して死んでいけるだろう。」

 というのが、当時の私の考え方だったのだが、ああ、こんなことを周囲の人たちに向けて大々的に公言しなくて本当によかったと、今では心底思っている。何とばかばかしい、というよりも痛々しい、浅はかで、思い上がった、ノーテンキな考え方だろうかと、我がことながら恥ずかしくなる。

 要するに、当時の二十歳の私には、四十年を生きる、ということが、まだ何もわかっていなかったのだろう。四十年という年月が、何だかとてつもなく長い、現実味のない時間のように感じられていたのだ。だが、二十年前の私に、今の私からいえることは、「お前、二十歳から四十歳までなんてあっという間だし、人間、そんな短い間には、それほど成長も達観もできないぞ」、ということぐらいだ。なにせ、才能に恵まれたひとならばともかく、凡人であることにさえ一苦労の私なのだから。

 そして今、実際に四十年を生きてみた上で、さあ人生ももうあと半分だぞ、と考えてみると、「これから」を果てしのない時間のように感じていた二十歳の私とは対象的に、今度は、その「短さ」におののく自分がいる。ええっ、もう半分か、といったところだ。

 何だか、焦りすら感じることがある。人生においては、時間の流れ方というものは一定ではない。時間はどんどん加速する。十代を生きた十年間は、三十代の十年よりもはるかに長かった。ならば「これから」の四十年は、「これまで」の四十年よりもずっと短い、と考えるべきだろう。しかも、その四十年とは、保証された四十年ではなく、もしかしたら三十年、あるいは五年かもしれないのだ。自殺? 馬鹿な。自分で死ぬ覚悟を決める前に、向こうからお迎えが来てしまうのではないか? 自殺なんかゼイタクだ。

 そして手に取ったのが、このヘッセの詩文集だ。どういうつもりか二十代前半の頃に買った本なのだが、例によって「積ん読」の山に埋まっていたのを、今回、引っ張り出してきた。テーマは「老い」。ヘッセの執筆活動の後半に書かれた、小品や詩を集めたものだ。私には早すぎるか、とも思ったが、読んでみると、決して早すぎることなどはなく、もっとも良いときに読んだのだ、とさえいえるかもしれない。

 この本の最初のふたつのエッセイ、すなわち『春の散歩』と『夏の終わり』は、それぞれヘッセが四十二歳と四十九歳のときに書かれたものだ。さらに、それに続く『湯治客』は四十七歳、『ニーナとの再会』は五十歳だ。そのどれもが、「老成」した作家が書いたものだとしか思えないような、そんな落ち着き、静かな諦観に満ちている。人間が四十年を、そして五十年を生きるということとは、これほどまでに「偉大なこと」であり得るのかと、凡人である私はそう思わずにはいられなかった。

 そして、さらにヘッセは老いていく。その筆に成るものは、さらに深みを増していく。そこには、ある生きかたが、つまり人生の後半期に相応しい生きかたが、確かにあるのだと感じられた。まだ前半期をしか生きていない我々には思いもよらないような、何かがあるのだ。

 それを、「これから」の私は学ばなくてはならないのだろう。だから、この本を読むには最も良いときに、私は読んだのだと思ったのだ。私は人生における「次の段階」に進むために、これから多くを学ばなければならず、そしてそのためには、若い頃とはまた違った本、たとえばこの本のようなものを読む必要があるのかもしれない。

 あるいは、ことさらに「老人向け」の本を、というよりは、これまでに読んだことのある本であったとしても、年齢に相応しい読み方、というものを学ぶべきなのだろうか。「老人向け」な本、などというものが、そうそうたくさんあるとも思えないからだ。

 以前、有島武郎の『小さき者へ』の記事で、私はこの本を息子としてと、父親としてと、ふたつの立場から読んで、全く違う感想を抱いた、というような記事を書かせていただいたことがあったが、つまりは、そういうことなのではないだろうか。例えば、『荒野のおおかみ』は、ヘッセが五十歳のときの作品だ。これを二十歳そこそこで読むことと、執筆当時のヘッセ、あるいは主人公のハリー・ハラーと同年代に至ってから読むこととでは、読み手にとってはまるで違った意味が生まれるのかもしれない、ということだ。

 あるいは逆に、同じくヘッセの『車輪の下』だとか、『クヌルプ』だとかいった、所謂青春文学と典型的に呼ばれ得るような作品に、かつてのように若者の立場に主体性をおくのではなく、年配者であり大人であり親としての、つまりは「常識をわきまえた市民」としての立場から、接するのだとしたら、やはり全く違う印象を抱く、ということは充分あり得るのではないだろうか。

 つまりそれは、同じものを違う視点から、違う立場で観る、ということだ。これは読書に限ったことではなく、当然、日常生活においても同じことがいえるだろう。そう、人生の後半期には、後半期に相応しい観点、というものがあり、それを、この『人は成熟するに・・・』という本は、我々に教えてくれているのだと私は思う。

 「生きる技術のかわりに、別の技術に私たちは関心をもちはじめる。人格を形成し洗練するかわりに、それを解体し分解することにかかわりあいはじめる。」(『夏の終わり』)

 すでに四十九歳にして、ヘッセはこんなことをいう。それはなるほど何かを喪失することであるのかもしれない。老いる、ということには、多くを失うこと、という側面があることは確かだろう。しかしそれは、あくまでもある偏った観点、具体的には人生の前半を生きる若者の観点からみた場合であるにすぎない。

 この本のなかで、私が最も感銘を受けたのは、『運動と休止の調和』と題された小品だ。このヘッセが七十五歳のときに書かれた、美しく、いいようのないほどの深みをたたえた短文のなかで、彼は、

 「自然のひとつのささやかな啓示の中に、神を、精霊を、秘密を、対立するものの一致を、偉大な全一なるものを感じるためには、生の衝動のある種の希薄化、一種の衰弱と死への接近が必要なのである。」

 という。この意味深い言葉の、ひとつの例として、一本のちいさなブナの木の、季節の移り変わりのなかでの変容について、詩人らしい印象的な描写を展開する。長らく寒さや風雨に耐えていたブナが、ある日、時が至り、あるかなきかのそよ風に、音もなく全ての葉を枝から散らせるその様に、老いたるヘッセはなにを観たのだろうか。

 「それは何ものも意味しなかった。何に対する警告でもなかった。むしろそれは一切を意味した。それは存在の秘密を意味した。そして美しかった。・・・」

 生まれ、成長し、老いて、死ぬ。人生は様々な様相を、そのときに応じてみせはするけれど、その全ては、結局、ひとつの「生」のもとに包括されるのだということ。生と死、というものですら、それは対立するものではなく、同じものの、別の観点からのふたつの「呼び名」に過ぎないのだということ。ヘッセが観たものとは、そういうことだと私は思ったのだが、どうだろうか。

 人生の前半期に、生きる、ということを底の底まで悩み抜いた、そんなヘッセだからこそ、後半期に、老いる、ということについても深く考え抜くことができ、そしてさらに、死というものの認識についてもまた、こうした「達観」にまで至ることができたのだろう。

 人間、漫然と生きていても、やがては老い、死ぬものではあろうけれど、しかし、「良い老いかた」、「良い死にかた」というものはあるものだと、この本に載せられた、老年期のヘッセの表情をみると、痛感させられる。その癒し難い苦悩が無数のしわとなって刻まれた面貌と、深い思慮に満ちた曇りのない眼、しかし全体としてこのうえないおだやかさに満たされた、晩年の彼の表情が、結局は全てを語っているのだろう。

 今回は、なんだか「年寄り臭い」記事になってしまったが、しかし、私にはまだ幼い子供が二人もいるし、老後の備えなどなにひとつない訳で、実生活においては、まだまだ老け込むことは許されない立場にある。また、自分でもまだ、老人になる気は毛頭ない。だいたい、私はまだあと数ヶ月は三十九歳なのだ。もうちょっと、「若者」の仲間でいさせてください。

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『デミアン』

デミアン (新潮文庫)デミアン (新潮文庫)
(1951/11)
ヘッセ

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読むに相応しいとき

 私がこの本を初めて読んだのは、二十年ほど前の話だ。しかも、古本屋で買ったので、最後のページを開いてみたならば、「昭和五十五年 十月十五日 五十五刷」と記されている。こうなるともう古本らしさ、というか、風格みたいなものを、こんな文庫本でも持つようになる。茶色がかったページだとか、あの甘いようなカビ臭いような独特のにおいだとか、使い込んだ辞書のようなしっとりとした手触りのやわらかさだとか。

 これで、この本を読むのが何度目になるのか、もうわからない。愛読書、といっていい。だから、この奇妙な物語をどう読み解くのか、私なりにその方法を持っている。ユング心理学で読み解くのが早道だし、多分最も正当な方法だろう。

 私は二十代の後半に、ユングをよく読んだ。しかし私は心理学者ではない。だからユングを、臨床心理学の学説であるよりは、ひとつの思想、美学あるいは詩学として読んだのだが、ユングを、私と同じような形で扱うひとは多いと思う。多分、ヘッセもそのひとりだろう。だから、ユングの「思想」の基本的な概念を知っている人には、この『デミアン』は理解しやすいものだ、ということができる。

 しかし、理解することだけが、本を楽しむということではない。いや、楽しむ、ということさえも、ある本と接するにあたって、必要ないこともある。ただ圧倒されることだったり、ひたすらに深い悩みに沈み込められることだったり、どうにもならない強烈な反感ばかりを覚えるということだけに終止する読書、というものも確かにある。私にとっては、初めて読んだときの『デミアン』はまさしくそういう本であったし、それだからこそ、今に至るまで愛読書として読み続けていられるのだろう。

 そう、初めて読んだときの『デミアン』は、私にとってはただ面白いというばかりの本ではなかった。終止圧倒され、なにやらおかしな興奮状態のまま、次の一行、次の言葉に引きずられるように、一気に読み通したような感じだった。

 それこそ、ユング的にいうならばそれは、「コンプレクスを刺激された」ということにでもなるのかもしれない。とにかく、どこが、とか、何が、という訳ではなく、この作品全体がもつものに、すっかり取り込まれてしまった感覚だ。特に、第五章の辺りでそれは顕著になり、私は全く、「読書」という行為に没入してしまった。

 それは焦燥感に似ており、物語の先へ先へと、動悸の高まりを覚えるほどに気が急くのだが、その一方において、ずっとこのまま、この本を読み終えることなく、読み続けていることを願うような、そんな矛盾した感情も相俟って、実に不思議な、現実から遊離したような感覚のなかでの読書だった。

 で、読後感は、というと、何やら呆けたようなため息とともに、脱力感に襲われるような、どちらかというと身体的な疲労感ばかりを覚え、ただ、何かすごい本を読んだんだな、という感覚ばかりで、詳しい内容についてはあまり記憶にない、そんな具合だった。本来読書というものは、文字を読んで理解する作業であり、それは主に論理的思考的作業になるのだが、このときは、ほとんど感性的感覚的に読書をした、といってしまってもよさそうな感じだったのだ。

 こういう読書が、良いものなのかどうなのか、そんなことはわからない。ただ、この本とはこれから長い間、もしかしたら一生涯にわたって、耽読するなり、熟考するなり、何らかの形で関わっていかなければならないな、と、そのときにはもう直観的に思ったし、実際、少なくともそれから二十年間は、何度も読むことになったのだった。

 こういう言い方はまたしてもユング的だし、よって『デミアン』的だともいえるのだが、私はこの本を、読むべきときに読んだのだ、と思っている。潜在的にか顕在的にか、当時の私はまさしくこういう本を、正しくはこの本が謂わんとしているようなことを求めていたのであり、そしてその求めに応える形で、偶然にか必然にか、この本が与えられたのだ。
 
 だから私は、本の細かな内容よりも、自身の求めに応えてもらった、その喜びばかりを感じていたと、つまりはあの読書はそういうことだったのだと、今は思っている。

 しかし、「齢不惑に至らんと」する今また、なんらかの本との出会いによって、あのような経験ができるものだろうか。それは無理な話だと、私は思う。歳を重ねると、実生活における経験も、読書における経験も、それなりに豊富になる。そのことによって我々は、何が起こっても、またどんな本を読んでも、それを自分なりに分析し、判断することがより巧くなっていく。

 つまり経験が豊富である、ということは、様々な出来事に対応することを繰り返すことによって、自分なりの判断基準を構築し、新たな経験にもそれによって対応する準備を整えている、ということなのだ。それは読書の場合には、どんな本を読んでも、自分なりにそれをとらえ、自分なりに理解し、自分なりに評価できるようになる、ということだ。

 それがすなわち、歳相応の落ち着き、というものなのだろう。だから、私ぐらいの中年男になると、本によって、善くも悪くも心を乱される、ということはほとんど起こらなくなる。上述のユング心理学もそのひとつだが、判断の方法は幾つかもっているし、自分の嗜好もある程度固まっている。あとは批判的に判断し、善いと思われたものは取り入れ、悪いと思われたものは捨てるだけだ。

 勿論、私のその「判断基準」などたかが知れたものであり、そんなにエラそうなことがいえるようなゴタイソウなものではないのだが、それでも、自分なりにどんな本でもなんとか読みこなす用意は一応できている、という訳だ。だから、『デミアン』のような本に、二十年前のように不意打ちを喰うようなことにもならない、はずだ。

 だが、こうして「自分のやりかた」を確立してしまう、ということは、逆に、初めて接するものを、新しく感じる、ということができなくなる、ということをも意味する。それは実は、文学を楽しむ、という観点からいうならば、あるとても大切なものを、失ってしまうことではないだろうか。

 冷静に、論理的に、批判的に読むということ。例えばこの『デミアン』を、ユング的に「解釈」して、それで「解決」してしまうこと。それにはそれの楽しみが確かにある。しかし、文学とは本来、「解釈」し「解決」するものではないはずだ。思想的背景だの、詩学的方法論だのについてあれこれ考えることと、二十年前のように、文庫本一冊に、熱に浮かされたようにのめり込んでしまうことと、さて、どちらが「文学を楽し」んでいるといえるだろうか。

 そう、確かに、私は『デミアン』と、相応しいときに出会ったのだった。早すぎても、遅すぎても、あんな読書経験はできなかっただろう。私にはあのとき、この本を理解することはできなかった。しかし、あのような出会いができたおかげで、この本を愛することができ、その後も何度も読み、そして、私なりに理解することができるに至った。これは本当に、かけがえのない出来事だというべきなのだ。

 若い頃には、確かに熱狂しすぎる、ということがある。しかし、まずはそういう「若き熱狂」をもって読むべき本、というものがあるのだ。理解だとか、解釈だとかは、その後に幾らでもできる。しかし瑞々しい感性によって、新鮮に「感じとる」ことは、経験が少なく、何もかもが新しくみえる、若者にしかできないことなのだ。

 だから、この『デミアン』もそうだが、ゲーテの『ファウスト』、ニーチェの『ツァラツストラ』、ボードレールの『悪の華』、ドストエフスキーの『罪と罰』などといった本は、若いうちに一度は読んでおくべきだといえるだろう。これらは、確かに若いうちには理解できないものだ。そのときはわかった気になっても、その後に折に触れて自分の理解不足を思い知らされ、だんだん自信がなくなってくる。『ファウスト』などは、私は最近では、人前で「読んだことがあります」ということさえ何だか怖い気がする。

 しかし理解はできなくても、ぜひとも若いうちに「感受して」おくべきなのだ。それは本当に、ある年齢に達する以前にしかできないことなのであり、後からどんなに後悔しても、もうどうにもならなくなってしまう。

 全身全霊をあげて感動する、ということ。それは若者の特権だ。逆にいうならば、それができるうちはまだ若者だ、といえる。だから、特に十代の若い人たち、ミステリーや芥川賞受賞作、ライトノベルなどもいいけれど、たまにはオッサンのいうことをきいて、歴史的名著と呼ばれるような文学に触れてみてください。それは決して、古くさい老人向けの本ではありません。まさしくあなた方若者たちのために、書かれた本なのです。

 さあ、早速、まずは『ウェルテル』を買いに古本屋にいきましょう。たぶん100円あれば買えますので。

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