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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『人間の土地』

人間の土地 (新潮文庫)人間の土地 (新潮文庫)
(1955/04)
サン=テグジュペリ

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思い出話

 この本、私の愛読書、といっていいのだが、今回はこれを読んだ訳ではない。実は、このところ少々疲れ気味で(夏バテです)、子供を寝かしつけているつもりが自分まで寝てしまい、子供に邪魔されずに読書ができる貴重な時間がすっかり睡眠にあてられてしまう、という日々が続いてしまったため、本が読めていないのだ。そこで苦しまぎれの思い出話などで、ごまかすことにしてしまった。

 サン=テグジュペリの作品を、私は、『星の王子さま』以外は数年前までは読んでいなかった。特に理由はない。まあ、私は文学に身も心も捧げ尽くして死んでしまうような偏執狂的な作家が好きなので、飛行機パイロットと二足の草鞋の作家、というだけで、無意識的に敬遠してしまっていたのかもしれない。そのサン=テグジュペリの小説を初めて買ったのは、2005年の夏、北海道の稚内でのことだった。

 その年、長く勤めていた会社を辞めた私だったが、当時はまだ独身で、貯金も少しはあったので、すぐに次の仕事を始めるのも何だかつまらない、ということで、バイクに荷物を満載して長期北海道ツーリングに出掛けてしまった。日程は未定、お金がなくなるか、帰りたくなるか、1987年製という年代物の愛車が壊れるかしたら、帰ってこようという、実に自由気ままな旅だった。

 結局ひと月以上、私は北海道にいたのだが、その途上、私は、利尻島および礼文島に渡るために、稚内を訪れた。稚内港から、フェリーが出るのだ。どちらかの島で一泊して、また北海道に戻ってこよう、というつもりだったのだが、どちらの島も、バイクで回ったならば、あっという間に一周してしまうような小さな島だということはわかっていた。しかし、島でのんびり、も悪くなかろうということで、本を買っていくことにしたのだった。

 稚内市内のガソリンスタンドで、店員のお兄ちゃんに、どこかに本屋はないかときいてみた。読書とは縁のなさそうな、やんちゃそうなお兄ちゃんが、首をひねって考え込んた末に、思い出したように教えてくれたその店は、ブックオフのような大きな古本屋だった。

 バイクでの旅だ。荷物は極力小さく軽くしたい訳で、本、といっても文庫本以外には考えられなかった。しかしその店の文庫本の品揃えはじつに寂しいもので、ようやくみつけためぼしい三冊が、新潮文庫の、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』、ツルゲーネフの『初恋』、そして、サン=テグジュペリの『夜間飛行』だったのだ。ちなみに値段は、どれも一冊105円だった。

 『ウェルテル』と『初恋』は、ごく若い頃に読んだことがあったのだが、こうした青春文学の代名詞的な作品を、旅先でセンチメントに浸りながら読み返すのも悪くなかろう、ということで選んだ。しかし、読んだことのあるものばかりというのもつまらなかったので、『夜間飛行』も一緒に買ったのだった。

 予想通り、島では時間を持て余してしまった。おまけにフェリーに乗っている時間もあったりで、稚内港から島へ渡り、キャンプ場に一泊してまた稚内に帰ってくる間に、『ウェルテル』と『初恋』を読み終えてしまった。なので、再び広大な北海道の路を旅しながら、『夜間飛行』を読むこととなった訳だ。

 『夜間飛行』、及び、併録された『南方郵便機』。この二編について、私には書きたいことが山ほどあるのだが、ここではそれには触れないことにしよう。ただ、これは類稀な傑作だと思うし、それを初めて読む機会が、バイクでの旅の日々の内に訪れた、という幸運に、私は感謝しなければならないだろう。

 あの詩情にあふれた、しかし厳格な哲学に裏打ちされた力強い物語に、旅の途上という、嫌でも感性が敏感に、そして豊かになるときに出会えたのだ。実際私は、見事にこのふたつの物語、特に『南方郵便機』に魅了されてしまったのだった。当時私は三十四歳、年甲斐もなく、といってしまっていいぐらいの感動の仕方だった。

 だが、幸運はそれだけにとどまらなかったのだ。それから幾日かが過ぎ、お盆休みも終り、8月も二十日を過ぎようという頃、道東のオホーツク海岸沿いで、私は雨雲の動きを読み違え(10日間ほどバイクで旅をしていると、なんとなく雲が読めるようになります、本当です)、酷い雨に降り込められた。この旅はオール野宿で(つまりキャンプで)、と決めていたのだが、そろそろ旅の疲れも出てきたこともあり、あっさりとそんな決心は翻し、どこか屋根のあるところに一泊して、雨をやり過ごすことにした。

 どこか屋根のあるところ。北海道には、ライダーハウスという、多くは格安、500円とか1000円、あるいは無料で泊まることができる宿泊施設があちこちにあり、それが、北海道を「長期貧乏旅行」が可能な、たぶん日本では最後の土地にしている一因となってくれているのだが、その内のひとつに、私は向かうことにした。

 網走市から、オホーツク海に沿って稚内市まで伸びる国道238号線。その途中に、北海道で最大の湖であるサロマ湖があるのだが、その湖畔に計呂地というちいさな街がある。その街の「ツーリングトレイン」という名の、確か町営のライダーハウスを、私は知っていた。1993年に、初めて北海道に来たときに、そこで一泊したことがあったのだ。

 ずっと昔、サロマ湖の南岸沿いに、鉄道が走っていた、らしい。詳しくは知らないが、その廃線となった鉄道の駅のひとつが、公園として残されている。そこには、蒸気機関車にレトロな客車が二両つながって、プラットホームに停車した形で並んで展示されているのだが、その客車の内の一両を、内部を板敷きに改装して、何と宿泊施設にしてしまっているのだ。

 12年振りに訪れたその公園は、機関車に雨よけの屋根が設置されていたりなど、少しばかりは変わっていたが、客車の内部の様子も、かつて駅舎だったところで、300円の宿泊料を係の年配のおじさんに支払って受付をするところも、ほとんどかわっていなかった。

 午後も早い時間に、さっさと「避難」を決めこんでしまったヘタレライダーである私が、その日最初の宿泊者だったのだが、その日は本当にすごい雨で、私の後からも四人の旅するライダーたちが続けてやってきた。本当に、客車から座席を取り払って、そこに板敷きの座敷を造ってしまっただけの「雑魚寝宿」に、男五人。なにせオートバイという共通の趣味をもった者同士のことだ、すぐにうちとけ合い、楽しい夜を過ごすことができた。

 そして翌朝、ツーリング中は、普段のだらしのない生活からは想像もできないような「早寝早起きの良い子」になる私は、夜明けとともに眼をさました。他の四人はまだ寝ている。相変わらずの雨。車窓から雨に煙るサロマ湖の湖面を眺めながら、私は何となく『南方郵便機』を取りあげ、読み始めた。

 少し寒かった。お盆を過ぎて雨など降ると、北海道ではぐっと気温が下がり、日中でも15度ぐらいまでしか気温が上がらないことも珍しいことではない。だがその肌寒さが、かえって私を本に集中させてくれた。私はもともと暑いのが苦手で、夏よりも冬のほうが好き、というようなたちの人間なのだ。何となく始めた読書に夢中になっていると、いつの間にか眼を覚ました、隣に寝ていた気の良さそうな大学生が声を掛けてきた。

 「サン=テグジュペリですか。」

 私は手にした本の表紙をみせながら、この作家のものはこれが初めてだが、とても面白いねと、率直な感想をいった。すると彼は、自分の荷物から一冊の文庫本を取り出し、私に差し出した。

 「これも面白いですよ。よかったらどうぞ、家にもう一冊ありますから。」

 私はその本を受け取った。本当にもらってよいのかと聞くと、かまわないと答える。そこで私は、自分の『ウェルテル』を取り出し、読んだことがあるかと聞くと、ない、とのことだったので、ならばとお礼に『ウェルテル』を彼にあげた。そして彼がくれた本をみると、それが、サン=テグジュペリの『人間の土地』だった、という訳だ。

 その日、雨は降りやまなかった。特に帰る日も行く先も決まっていない私と、ごく若い二人組のお兄ちゃんたちは、そのままそこに連泊することにしてしまったのだが、例の大学生ともうひとりは、先を急ぐということで、冷たい雨の中を出発していった。

 その日一日、私は、宿泊施設に改装されていない、もう一両の、かつて線路を走っていたそのままの姿の客車の、固いボックス座席に座り、もらったばかりの『人間の土地』を読んで過ごした。その文庫本のカバーには、ブックオフの100円の値札がついたままだった。きっとあの大学生もまた、旅の途上に古本屋に寄り、好きな本をみつけて買ったのだろうと想像し、少し可笑しくなった。

 これが、私の『人間の土地』との出会いだった。私にこの素晴らしい本を読む機会をくれたあの大学生には、深く感謝している。勿論、彼がくれなければ、いずれ私はこの本を自分で本屋で買うことになったのだろうが、しかし、あんな印象的な形での出会いでなかったならば、きっと、私のこの本への愛着も、幾らかは違ったものになっていたことだろう。

 あれから、もう6年だ。あの大学生は、今、どこでどうしているだろうか。社会人となり、もしかしたら、もう結婚しているかもしれない。そして『ウェルテル』はどうなっただろうか。若者にこそ相応しいあの本を、彼は気に入ってくれたのだろうか。

 今の私は、再就職し、結婚をし、子供も生まれ、残念ながらバイクは手放してしまった。もうあんな旅をすることもないだろう。しかし私の本棚には、『夜間飛行』も、『人間の土地』も、しっかりと並んでおり、手に取られ、ページを開かれることもしばしばだ。『人間の土地』の100円の値札も、まだそのまま貼られている。どれもが、私にあのツーリングを思い出させてくれる宝物だ。

 そして、二冊仲良く並ぶこととなったツルゲーネフの『初恋』もまた、私には大切な思い出なのであった。

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『戦う操縦士』その3

戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)
(2001/08)
アントワーヌ ド・サン=テグジュペリ

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自分たちの「大聖堂」のための戦い

 サン=テグジュペリが、この本のなかで主張することと、ヒトラーが『わが闘争』のなかで語る「理想主義」すなわち「全体主義」とは、いったい何によって対立するのか。そのことを考えることが、つまりはこの本がいかにして「『わが闘争』への民主主義陣営からの最良の返答」たり得ているのか、を考えることになる。

 前回の記事で、まず共同体の利益を考え、個人主義を排することにおいて、両者は共通している、という私の見方について書かせていただいた。では、両者は何によって対立しているのか、というと、結論からいってしまうならば、ヒトラーの「全体主義」は、全体のためにその構成員である個々人を殺し、サン=テグジュペリの(便宜的に名付けるならば)「民主主義」は、全体の完成によってその構成員である個々人を生かす、という点に、私は両者の対立をみる。この観点から、両者の主張を考えてみよう。

 「大聖堂」の比喩が、著者の考え方を最もよく表していると思う。「大聖堂」は確かに、ひとつひとつの石材の積み重なりからできている。しかしだからといって、石を積み上げれば必ず「大聖堂」が組み上がる訳ではない。「大聖堂」がひとつの全体としての「大聖堂」たり得るためには、それを可能にする「思想」がなくてはならない。つまり、「幾何学と建築学」だ。

 まず「完成する大聖堂はかくあるべし」という設計思想がなければ、いかなる石材もあるべき場所を見出せない。なぜなら、その「あるべき場所」それ自体がどこにもないからだ。あるべき場所のない石材は石材ではなく、ただの石だ。

 「大聖堂」があって初めて、石は石材となり、さらにはそれを超えて土台や、柱や、丸天井たり得る。それは最早石ではない。「大聖堂」の一部であり、すなわち「大聖堂」という全体そのものとその性質を同じくするものだ。「共同体」への帰属によって、個々人が初めて「何者か」として定義される、とは、つまりそういうことだ。

 だがヒトラーもまた、彼なりの「大聖堂」を夢見て、その内に、ドイツ民族にあるべき姿を見出させようとしたのだ、とはいえないだろうか。しかし筆者は、ヒトラーのようなやり方、考え方に、次のように反論する。

 「・・・それもまた総和の表現にほかならない。ひとりの個人の手に委任された「集団」の力にほかならない。他の石材と自己を同一化させると自称するひとつの石材が、石材全体を支配することにほかならない。」

 ここでいわれる「集団」とは、「たくさんの石」ということだ。つまり人間でいうならば「群衆」であり、それは「共同体」の構成員であることとは、本質を異にする。つまり、ひとりの人間の、「みんな私のいうことをきけ」というかけ声によって集められた集団は、あくまでも個々の人間の集まりであり、そうした集まりとして出来上がった「国家」は、

 「はっきりと「集団」の道徳を説く。」

と、筆者はいう。この「集団」の道徳、というものがすなわち、「全体主義」なのではないかと私は思うが、どうだろうか。つまりそれは、たくさん集まってはいるが、それぞれの石は「ひとつの石」であり続け、ただ「集まっている」ということのためだけに、「集まっていろ」という「道徳」に従っているに過ぎない、そういう状態にとどまり、「大聖堂」を形作るには到底至らないのだ。

 石を石ころのままにさせておくものである以上、「全体主義」社会は単に、画一化された個人の集まりでしかない、と筆者はいうのではなかろうか。だとするならば、「全体主義」とは実は、「個人主義」の無秩序から一歩も出ておらず、その「個人」が本来の個性を失っているという点で、さらに悪いものですらあるとさえいえることになる。つまりそれが、「個人を殺す」、ということなのだ。

 ところで、例えば「大聖堂」を「大聖堂」たらしめている思想、すなわち「幾何学と建築学」、あるいは芸術的意匠、神学的主張や信仰心といったものを、形相(エイドス)だとするならば、それを形作る石材は、単に建材であるというにとどまらず、「大聖堂」の質料(ヒュレー)だ、といい得るだろう。

 何だかろくに理解もしていない哲学用語など使ってしまったが、それがつまり「共同体」への帰属によって、「個人」が何者かとして定義される、ということではないだろうか。そして「個人」は、自身を定義するものを得て初めて、生きた何かであり得るのだ。

 また、サン=テグジュペリは本書において、人は「いかにして」共同体へ帰属するべきか、については熱心に説いているが、「いかなる」共同体に帰属すべきか、についてはほとんど何も語っていない。ヒトラーがどこまでも具体的に「理想国家」を語り、それへの賛同に読者を導こうとしていることとは対象的だ。このことには、単なる論法の違い以上の、大きな意味があることだと思われる。

 つまりサン=テグジュペリにとっては、誰かの頭からでてきたような、そんな人工的で論理的、すなわち一夜漬け的な「共同体」のことなど、もとより眼中にないのだ。彼はあくまでも、忘却の彼方の過去から連綿と続くような、気の遠くなるような時間だけがそれを抽出し得るような、そうした積み重ねから、土着的な世界観、宗教観、道徳観を、ほとんど「ア・プリオリに」共有しているような、そういう類いの「共同体」をしか考えていない。

 だからこそそうした「共同体」の崩壊は、彼を非常に悲しませるし、落胆もさせるのだ。そうした「共同体」の再建は、十年二十年でできるものではなく、まるで焼かれてしまった森の再生のように、百年、二百年という単位で少しずつ、また一から育んでいかなければならないことを、彼は知っているのだから。

 そして、そうした自然発生的な「共同体」だけが、ようするに彼のいう「大聖堂」のような「共同体」であり得るのだと、そういうことなのだろう。だから、彼が祖国をフランスと呼ぶとき、それは「聖王ルイのフランス」でも、「ナポレオンのフランス」でも、「ド・ゴールのフランス」ですらなく、いってみればそれらの限定的なフランスの容れ物となるべき、超時間的な「フランス」のことをいっているのだ。

 だから、「大聖堂」がいかなるものであるべきか、それを決めるのはひとりの人間の頭脳ではない。その部分となることを選んだすべての人びとが、自分たちの「大聖堂」とはいかなるものであるべきかを、常に、しかも何世代にも渡って根気づよく、考え、試し、改めながら、一歩一歩完成に向けて進んでいくことによって、決定していくべきものなのだ。

 そうあってこそ、「大聖堂」の全体像を決定するところの「形相」に、全ての石材は「質料」として有機的に結びつくことを良しとし、それによって自らが生かされることを喜び、さらには、自身の帰属する「大聖堂」を誇ることにもなるのだろう。そしてそれこそが、「民主主義」の本来あるべき姿なのであり、そういう「民主主義」であってこそ、ヒトラーの「全体主義」に対する最良の返答であり得ると、私は考えるのだ。

 このブログで私は何度もいっているようだが、民主制国家ほど、その構成員に多くを求める政体はない。民主主義は決して自分勝手を許さない。その国民全員が、公共の利益を最優先に考えるような人間でなければ、民主政治はあっという間に衆愚政治に堕する。しかし我々はこのことをすぐに忘れてしまう。

 日々の生活に忙しく、理想の民主主義のことなど想っている時間はない、そんな事情も勿論理解できる。しかし確かに、命がけの偵察任務を遂行しながら、見事にヒトラーに反論してみせた男がここにいるのだ。ならば我々が、我々の「大聖堂」をいかなる形に仕上げていくべきなのか、考える暇を見出せない訳はないだろう。他ならぬ、それは我々自身の「大聖堂」なのだから。

 サン=テグジュペリは結局、第二次世界大戦の終わりを見ずに、亡くなってしまった。その後の歴史は、連合軍の勝利が必ずしも「民主主義の勝利」を意味しなかったことを、残念ながら物語ってはいるが、しかしせめて、ドイツ軍から完全に解放されたフランスの姿だけでも、彼にはみてほしかったと思う。

 1944年の6月には、すでにノルマンディー上陸作戦は行われ、連合軍はヨーロッパ各地でドイツ軍を圧倒し始めてはいたが、サン=テグジュペリの亡くなった7月31日には、まだパリはドイツの占領下にあった。地中海で彼の偵察機を撃墜したとされるメッサーシュミットのパイロットもまた、「サンテックス」の読者だったという。

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『戦う操縦士』その2

戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)
(2001/08)
アントワーヌ ド・サン=テグジュペリ

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反「人間」的なものとの戦い

 アラス周辺に展開したドイツの機甲部隊の動向を探る、というよりは、崩壊しつつある祖国フランスの惨状を思い知らされつつ、自身もその惨禍に巻き込まれて命を落とすことを義務づけられたような、そんな無謀で無意味な偵察任務に就いた、作者サン=テグジュペリ

 逃げ惑う人びとの群れや、彼自身もその一員である、敗走のうちに解体しつつあるフランス軍。それは、気の遠くなるような年月をかけて、少しずつ積み重ねられ、形作られ、育まれ、そしてようやく今ある姿に至った、文化や文明というもの、信仰や慣習によって結び合わされた人びとのささやかな「共同体」というものが、その結びつきを断たれ、元の無秩序なちらばりにかえっていく、悲しくも醜悪なる終焉の姿だった。

 その瓦解にのみこまれつつあった彼だったが、あるときを境に、変化を見せ始める。それはこの本でいうところの、第十七章だ。もっと細かくいうならば、章の中頃にある、この一文だ。曰く、

 「だが、きみが愛していた女がトラックにひかれたとして、きみはその女の醜さをあげつらいにゆくだろうか?」

 つまり彼は、今敗北の過程にあり、混乱した醜態を晒すフランスの姿ではなく、世界を相手に戦争を始めたドイツの隣国として、その侵略の「犠牲となることを受諾した点で」、フランスという国は評価されるべきだ、ということに気づいたのだ。

 ドイツと戦争をする、ということになれば、こういう事態に陥るであろうことは、もう初めからわかりきったことだった。「三人の敵兵にひとりの兵士を、工場労働者に農民を、なんの幻想もなく対決」させるものである以上、この戦争は、フランスが負けるものと初めから決まっていた。しかしフランスは戦争を拒絶しなかったのだ。

 この決定的な一文のうちに、作者は、ある決意をしたのだ。それは、フランスが負うこととなったこの運命を、受け入れる、ということだ。ここから、彼は再び、あの我々がよく知る、『夜間飛行』の、あるいは『人間の土地』のサン=テグジュペリに立ち返っていく。その姿は、我々読者を感動させずにはいない。

 「わたしたちは、ひとつの大義を共通の大義であると考えて、その名のもとに戦っている。単にフランスの自由ではなく、世界の自由がいま賭けられているのだ。審判者という対場はあまりに居心地がよすぎるとわたしたちは考えている。審判者たちを裁いているのはわたしたちのほうだ。」

 そこに、いま起こるすべては意味を見出す。避難民の右往左往も、フランス軍の敗走も、そしてこの無謀な偵察飛行任務もだ。その全ては確かに、戦争というものの「悲惨」の具現だろう。しかしそれはただ「悲惨」であるばかりではなく、同時にフランスという国の尊さの具現でもあるのだ。「フランスの自由」は蹂躙された。しかし、自由を放棄して敵に屈することを拒絶し、蹂躙されることを選んだことによって、「フランスの自由」はその価値を高めたのだと、作者はいっているのではないだろうか。そしてさらに問う。ならば世界は、「世界の自由」のために、どういう路をえらぶのか、と。

 やがて彼の偵察機は、目的地に近づいていく。対空砲のお出迎えが当然予想されるアラスに向けて、高度七百メートルまで降下していくということが、自殺行為に他ならないことは、充分すぎるほどに理解している。それでも彼は降下していく。フランスが、自由のために犠牲になろうとしている今このときに、彼がフランス人であり、フランス軍の軍人であり、三三-二飛行大隊の一員であるが故に、だ。

 そう、彼が再び、自分がある「共同体」に属していることを思い出したとき、その「共同体」に帰属するために果たすべき義務の神聖さをも、彼は思い出したのだ。そして目的地点、アラス上空七百メートル。たった一機の偵察機に、敵の対空砲火は集中される。一撃で機体をバラバラにする対空砲弾の炸裂するなか、彼は偵察任務を遂行する。

 一瞬後の死を覚悟しながらの飛行のうちに、一瞬毎の生の更新を見出していく彼。そして、奇跡的な生還。帰路に着いた彼が想うのは、祖国の再生についてだった。この小さな成功にかかわらず、彼が出撃の準備をしていたときと今とで、祖国が崩壊しつつあることには何の違いもなかった。しかしいまや彼は、任務遂行前とは正反対を向いていた。

 そして語られるのは、「人間」についてだ。「人間」とは、「関係の結び目」だ、という。それについての細かなことを、私はここで解説しようとは思わない。それはまさしく、著者の言葉に耳を傾けて知るべきことであって、私の不器用な言葉によって語られるべきものではないからだ。ただ、次の一文をだけ引用しておこう。もっとも端的に、彼の考え方をあらわしていると思われるからだ。

 「なぜなら、わたしの文明の説く「人間」は、個々の人間から出発しては定義されないものだからだ。個々の人間は、「人間」によってはじめて定義される。「人間」のうちには、すべての「存在」におけると同様、その構成要素である素材からは説明されないあるものがある。大聖堂は石材の総和とはまさに別のものだ。それは幾何学と建築学である。大聖堂を定義するものは石材ではなく、逆に大聖堂のほうが、その固有の意味内容によって石材を豊かにしているのだ。」

 「人間」、つまりそれは、今ばらばらになって逃げ惑う群衆が、廃残兵が、かつて形作っていたところのもの、例えば家族であったり、村や街であったり、あるいは一個の歩兵小隊であったり、フランス陸軍であったり、ひいてはフランスであったり、という形をもってあらわされていた、様々な「共同体」のことをいうのであり、こうした「共同体」の一員としてでなければ、つまりひとつの「大聖堂」の一部を担う存在でなければ、個人、というものはただの素材、「石材」でしかないのだ、と彼はいうのだ。

 ここで私は、最初の問題にやっと立ち戻ることができる。そう、この本が、いかにして「『わが闘争』への最良の返答」たり得ているのか、ということだ。

 サン=テグジュペリのいうところと、ヒトラーの「全体主義」を比較してみるとき、奇妙な共通点があることに、すぐに気付く。ヒトラーの「全体主義」は、「純粋に個人的な関心を喜んで無視しようという気持ちが増大すればするほど、ますます包括的な共同体を建設する能力も高まる」のだとし、「エゴイズムや私利」を敵視する。

 一方においてサン=テグジュペリもまた、「個別的なものの崇敬は死しかもたらさない」といい、「個人に対する「人間」の優越」のために」戦う、という。個人の軽視と、全体の重視、という点で両者は共通しているようにみえないだろうか。

 しかしここで、両者の決定的な違いを知ることこそが、実はまさにこの『戦う操縦士』が、「『わが闘争』への最良の返答」たることの最も核心的な点に触れることになるのだと、私には思われる。

 まず、ヒトラーの主張をもう少しよくみてみる。ヒトラーは、「全体主義」の理想へ向かう志操をよく内在するという点で、「アーリア人」の優越を主張し、その正反対の志操の持ち主であることを理由に「ユダヤ人」を蔑視する。つまりユダヤ人には「共同体への奉仕」などというものは全くなく、あるのは我利我利の利己主義のみだとし、そうした「ユダヤ的傾向」の行き着く先にこそ「衆愚政治」たる民主主義がある、という文脈において、自らの「全体主義」を肯定し、民主主義を否定する。

 その人種差別主義にはここでは触れないとして、ようするにヒトラーは、基本的には愚劣で自分勝手な「大衆」という多数者の意見によって、気まぐれにあちこちへと向きを変える民主主義など捨て去り、全体の発展という高い理想に全国民が自己犠牲的奉仕によって邁進する「全体主義」をこそ選ぶべきだ、と主張するのだ。

 ここにひとつの、民主主義へのヒトラーの誤解(あるいは意図的な曲解)がある。そして実は、今日の日本においても、この民主主義への誤解はよくみられる。そしてサン=テグジュペリの主張は、この誤解を正すことによって、ヒトラーへの反論となり得ているのだと、私は思う。それはどういうことか。

 端的にいってしまうのならば、行き過ぎた個人主義は、「反社会的」だ、という意味において、「全体主義」にとっては勿論、民主主義にとっても敵だ、ということだ。数ある社会制度のうちのひとつであるところの民主主義を選ぶからには、まずもって、つきつめれば文字通りの「万人の万人に対する戦い」に行き着く個人主義ではなく、自分勝手は許されないが、社会、あるいは「共同体」に帰属することを選ばなくてはならない。だがそれはつまり、「社会的動物」であるところの人間という生き物の本然に立つことを意味するのだから、人間にとっては自然な選択だ、といえよう。

 (ついでに付記しておくならば、「万人の万人に対する戦い」の状態を、「人間の自然状態」とするホッブズの、あるいはルソーの意見は、現代の自然科学によって否定されている、と私は考える。非社会的であることは、人間の本性に反した状態だと考えた方が合理的だからだ。チンパンジーも社会をもつ。原始時代の人間だとて、社会をもたないはずはないだろう。)

 そう、民主主義は決して、無闇にその構成員たちそれぞれの「個人的事情」を、いちいち尊重してくれるような、そんな誰にでも都合の良いようなものではない。それは社会全体が良きものであるために生まれた「社会制度」であり、公共の利益こそをその一義的な目的としているのであって、「個人の尊重」というものとは本来全く無関係なものなのだ。

 このことを理解しないと、民主主義は確かに容易に衆愚政治に堕することになるだろう。直接民主制が、注意深く避けられてきたのは実はこのためなのだ。最近、軽々しく国民投票の必要性などが主張されるのは、こうしたことへの理解がなされず、「自分勝手」な個人主義ばかりがはびこっているせいだろう。そして日本の民主主義がうまく機能していないとしたならば、それは政治家の無能のせいであるよりは、もしかしたら、我々国民の身勝手のせいかもしれないのだ。

 だから、この「反個人主義」の点では、実際ヒトラーとサン=テグジュペリは立場を同じくしているのだ。よって、「全体主義」と民主主義の対立を、「全体主義」と個人主義の対立にすり替えてしまうヒトラーの詭弁に巻き込まれることなく、はっきりと民主主義と個人主義の対立、という構図を認識して初めて、その先に、ヒトラーとサン=テグジュペリの対立点を見出すことができるのだ。

 そしてその対立点について・・・は、なんだか思ったより長くなってしまったので、次回に続く、ということにします。


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『戦う操縦士』その1

戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)
(2001/08)
アントワーヌ ド・サン=テグジュペリ

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「戦争」との戦い

 4回ほど、ヒトラーの『わが闘争』についての記事を書かせていただいた。ありがたいことに幾つかの拍手などもいただき、こんな過疎ブログの管理人としては嬉しい限りなのではあるが、正直、あのような「悪書」を読むのは非常に骨が折れる作業で、上巻を読み終えたところで止まってしまい、なかなか下巻を手に取れずにいる。

 そこで、この本を読むことにした。この本が、「ヒトラーの『わが闘争』に対する、民主主義陣営からの最良の返答」だと、評されるものだからだ。勿論、この本がいわんとすること、あるいは、人類史だとか文学史的な意味においてこの本が占める位置、というものが、この評価だけで全て語り尽くされている、という訳ではない。

 この本は決して複雑で難解なことを主張している訳ではないが、しかし、単純だからといってそれは一面的であるということではない。たったひとつのダイアモンドが、みる方向、当てる照明によって様々な輝きをはなつように、単純であっても多面的であることは、優れた文学作品の常だ。

 よってこの本について、私には様々いいたいことがあるのだが、せっかく『わが闘争』を読んでいる最中、ということもあるので、今回は、とりあえずこの「民主主義陣営からの返答」としての『戦う操縦士』とは、いったいどういうものなのか、この点に絞って、私なりに考えてみようと思う。

 ヒトラーは『わが闘争』の第一巻第十一章において、こんな主張を展開する。それは、義務の遂行、即ち「自己自身を満足させるのではなく公衆に奉仕する行為が出てくるところの、根本的な志操」を、エゴイズムや私利と区別して、「理想主義」と呼ぶ、というものだ。

 ヒトラーは、その彼の所謂「理想主義」だけが、

 「・・・われわれが人類に文化といっているものの前提条件で過去にあったし、現在あり、また未来もあるだろうということ、それどころか理想主義のみが「人間」という概念を創造した・・・」

 のであるといい、「アーリア人種」の優越性は、この「内的志操」の唯一の保持者であることに由来する、という。つまり、「アーリア人種の優越」のみならず、社会への自己犠牲的な奉仕、また彼がその「志操」なるものの正反対の性質をしかもたないと決めつけたユダヤ人への差別政策、あるいは世界征服の野望にいたるまで、 この「理想主義」なるものによって正当化されているのだ。

 このヒトラーの「理想主義」と、サン=テグジュペリが『戦う操縦士』のなかで訴えるものとを比較してみるとき、確かに、この本は「『わが闘争』への返答」たるに相応しい、と思われた。なので、話の焦点をこのあたりに当ててみようと思う。ただ、ややこしさを避けるために、ヒトラーの「理想主義」のことは、その実質にさらに相応しい呼び名であるところの「全体主義」の名で呼ぶことにしよう。それはようするに、全体の利益ために個人的な欲求などは圧し殺すべきだ、という考え方に他ならないからだ。

 このふたつの書物の対立が悲劇的、かつ無視できないものとなったその理由は、その対立が単なる意見の相違にとどまらず、実際の戦争という形で、具現化してしまっているということにある。しかもその対立の一方の担い手であるサン=テグジュペリ自身が、まさにその当事者として、戦渦の真っただ中に身を置いている、という点で、さらに我々の心をとらえる。

 彼の意見に賛同するのか否かは別として、どこか安全な街の書斎からではなく、敵の対空砲射にさらされる軍用機の操縦席から語られるその言葉には、やはり肌身にしみるような現実味がある。彼の『人間の土地』を、あるいは『夜間飛行』でもいいのだが、彼が航空事業の開拓者として、アフリカの砂漠や南米の上空を飛んでいた頃のことが語られた本を読んだことがある者には、この『戦う操縦士』は、読み進めることすら辛いと感じられるものだ。

 かつて、航空機による長距離国際郵便という未完成の事業のための、航空路の開拓という冒険的飛行に挑み、何度か命を失いかけ、同僚の死を何度か経験し、その果てに、事業の完成というよりは、人類の文化だとか、伝統だとかいうものの重みや、人間性というものの尊さを見出し、空高くからそれを、感動的で詩的な言葉で綴ったあのパイロットが、敗走する軍隊の一兵士として、再び我々の前に現れる。

 あの明けることのない夜に、荒れ狂う颱風に、天に至るような山脈越えに、果敢に挑んでいった優しい勇者の姿は、いったいどこにいってしまったのか。課せられたのは、ほとんど成功する見込みもなく、仮に運よく成功したとしても、持ち帰った情報は何の役にもたたないとわかりきっている、あまりにも無謀で無意味な偵察任務。無気力に疲れきった表情で、あらゆるものに愚痴をこぼしながら飛び立つフランス空軍の偵察機部隊の大尉、それが1940年の、サン=テグジュペリの姿だった。

 彼の翼の下に広がるもの、それは最早果てしない砂漠の静寂でも、夜の大西洋の漆黒でも、雲海の幻想でもない。崩壊する祖国だ。ドイツ軍の侵攻がもたらした恐慌が、全てを破綻させた。かつての「村人たち」は、村という囲いから溢れ出し、ただの混乱した「群衆」になってしまった。彼らの荷車だの、自動車だのに満載された「いままでは家の面ざしを形づくっていた」、「思い出によって美化された」家財道具は、あるべき場所から引き離され、最早ただのガラクタ、「胸をむかむかさせる代物」の堆積でしかなくなった。

 その様子を、作者はどれほどの悲しみをもって眺めたのだろうか。真夜中の空高くから、街々の、村々の灯火をあれほどに愛おしんだ彼が、そのひとつひとつの灯火の守り主たちがこうしてばらばらに逃げ惑う姿を目の当りにして、何を思ったのだろうか。あるいは、『南方郵便機』のなかで、古い家というものと、それを形作る魂のような、何世代も伝えられた家具調度やこまかな道具類というものへの、限りない愛着を、あれほど繊細に描いてみせた彼が、荷車に山積みにされた椅子だの額縁だのの醜悪な有様を目の当りにして、何を思ったのだろうか。

 いや、彼も最早、そんなことには思い至らないのかもしれない。彼はいう。

 「出撃しようとする私も、ナチズムと西欧との抗争など考えない。ただ直接的な細部のみを考える。高度七百メートルでアラス上空を飛ぶことの馬鹿さ加減を思うのだ。」

 つまり彼もまた、崩壊する祖国、壊滅する軍隊の一部に相応しい者となってしまったのだろう。ただ、任務の遂行という、軍人としての義務だけが、彼の支えとなっているに過ぎない。いや、その支えさえも、ときにおぼつかなくなる。完全に制空権を敵に握られた状態での、敵情偵察なのだから、一瞬たりとも気は抜けないはずだ。しかし彼の想いは、あちこちへと四散する。学校の教室での思い出だとか、家政婦のポーラだとか。

 このとき、彼はただの一兵士に過ぎない。戦争を戦っている、というよりは「戦争と」戦っている、つまり戦争という混乱のなかでただ右往左往しているひとりの兵隊に過ぎない。そんな彼を、敵軍の最高司令官であり、敵国の最高権力者であり、そのイデオロギーの最高指導者であるところのヒトラーと、まともに比べる訳にはいかない。

 彼はフランス軍のパイロットだ。しかしそのフランス軍は、雪崩のような敗走のなかで、もはや軍隊としての体をなさなくなりつつあった。

 「勝利だけが人びとを結び合わせる。敗北はある兵士を仲間の兵士から離反させるばかりではなく、その人間を自己自身からも離反させる。逃亡兵たちが崩壊しつつあるフランスに涙しないのは、彼らが敗者だからだ。彼らの周囲にではなく、彼らの内部でフランスが敗北しているからなのだ。フランスに涙するためには、すでにして勝利者でなければならない。」

 破れ去りつつある軍隊に身を置いたことのある者だけが、きっとこうしたものを実感するのだろう。そして作者自身もまた、そうした敗残兵に身をおとしつつあったのだろう。課せられた任務への集中力を持続できないのは、そのためだ。家を捨て村を捨て、逃げ惑う群衆となりはてた、眼下の気の毒な人々と同じように、彼もまた、軍隊の秩序からこぼれ落ち、戦線から敵に追い立てられ、指揮官もいないままにただ後方へと退却しつづける敗残兵になりつつあったのだ。

 民間航空会社のパイロットだった彼には、ヒトラーに相対する権利があった。事業のために、命がけの冒険飛行を幾度もこなし、彼の飛行機をたたき墜とそうとする全て、夜や風、故障や恐怖などの全てに、敢然と立ち向かっていたかつての彼には、間違いなく、どんな人間に対しても、その想うところを主張する権利があり、その言葉は、どんな相手にも力強く響いたはずだった。

 しかし、偵察機とはいえ武器を備えた軍用機を操縦する、空軍大尉としての彼にその権利がないとは、何という皮肉だろう。しかしそれが事実だ。彼は確かに戦っている。命令通り、ほとんど成功の見込みもなく、生還の見込みすら乏しい任務のために出撃したのだから。しかし彼はもう諦めてしまっている。郵便物を届けることを最優先し、決してそれを諦めようとしなかったかつての彼との違いは、そこにある。

 ヒトラーはいうだろう。共同体、つまり国家や軍隊への帰順を忘れ、ばらばらになった者たちなど、わが「理想主義」の担い手であるドイツ民族の敵ではない、と。そしてまさにその通りなのだ。最早彼には、ヒトラーと対峙するどころか、ドイツ軍の一兵卒と戦うことすらおぼつかないだろう。

 彼は、かつての彼にたちかえる必要があった。次回は、そのことについて、書いてみようと思います。


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