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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『羊をめぐる冒険』

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)
(2004/11/15)
村上 春樹

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夢であることのリアリティ

 『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』に続く、三部作の第三作。前二作を中編と呼ぶべきだとするなら、今作は長編ということになる。何せ、前二作を両方合わせたぐらいの分量があるのだ。

 そして本作の異質さは、単に分量の問題には留まらない。これらを三部作としてひとまとめにすることには、私としてはかなりの違和感がある。あくまでも前二作からの続編として本作を捉えようとするのならば、この『羊をめぐる冒険』という作品全体を、主人公である「僕」の「夢」だとする他はないのではないかと、そう思わざるを得ないほどに異質だと感じられた。

 確かに、人物設定やその関係などは、前作のものをそのまま受け継いでいる。しかし本作は、前二作と比較するならばほとんど「ファンタジー」である。『風の歌』では、青春というものの、あるリアルな側面を描いた。『1973年』では、その青春が必然的に結果するであろうことを描いた。どちらも、その「出来事」のリアリティによって(多分に「小説的」ではあるとしても)、作品としての完成度を得ているといえた。しかし、本作においては、出来事はとにかく「突拍子もない」ものばかりである。それが、私にこの作品を捉え難く、評価し難いものとして感じさせた。

 読み物として面白いのは確かだ。私はこの作家のものをたくさん読んでいる訳ではなく、本作で五作品目ではあるのだが、物語がこれほどに素直に一直線に、発端から結末まで時間軸に沿って進んでいくものは、これまでに読んだ四作(前二作と、『ノルウェイの森』、そして『海辺のカフカ』)にはない形であり、これは物語のなかへとすんなりと入り込むことを助けてくれた。そしてその物語自体、読者を引っ張って先へと急がせる力を充分にもったものだった。

 つまり、物語としての完成度が高いのだ。その結末に、解釈の余地を残しすぎている、という理由で、物語の自己完結性が損なわれている、ということもできるのかもしれないが。しかし、前二作を支配していた、あの徒労感というか、閉塞感から脱し、物語が躍動しているのもまた確かだろう。前二作の成功を、私は、物語性というものをもたず、ただ静的な世界観だけを描いたことに見出したのだが、今作においては、世界観の構築なるものは前二作にまかせ、ただひたすらに物語性を重視したことが、作品の完成度を上げているのだ、と思えた。そうした意味でもまた、本作は「異質」だといえるのかもしれない。

 では、この「異質」で捉え難い物語をどう読むのか。ただ「解釈」のみを目的とするならば、やはりユング心理学をもって読み解いてしまうのが近道か、とは思えた。この物語の登場人物に、ユングの所謂「元型」的なもの、いいかえるならば「神話的モチーフ」に通じるものを見出すのは容易だ。例えば、耳モデルの彼女に「アニマ」を、羊博士に「老賢者」を、という具合にだ。そして物語の最後の舞台となる山上の別荘を、主人公の無意識の闇の奥、集合的無意識の世界だ、などと解釈すれば、まあ一通りユングの「基本形」にはめ込むことができるだろう。

 そして実際、それが正しいのかもしれない。この作家には、どうもユング心理学への傾倒が感じられる。特に『海辺のカフカ』においては強く感じられた。しかし、それでお終いにしてしまうのもつまらないので、今回は敢えて、ユングを持ち出さずに、また違う側面から、この物語を見てみようと思う。

 私は先日の『1973年』についての記事のなかで、『風の歌』において描かれた青春が、『1973年』においてあるひとつの形として結末をみた、というようなことを書かせていただいた。その見方には、今も変化はない。しかしだとすると、この三作目というものは、二作目で完結したはずの物語に、さらにあとからくっつけられた「大いなる蛇足」ということになってしまう。これをどう考えるべきだろうか。

 私は、まさしく「大いなる蛇足」であるのだと思う。そして結論からいってしまうならば、この作品は、「蛇足」的なものとして書かれたからこそ、作品として成功したのだ、と私は思った。

 『風の歌を聴け』という、ある青春の物語は、『1973年のピンボール』という形で、結末を迎えた。「僕と鼠」の物語は、だからここで終わったのだと考えるべきだろう。だが、人生というものは青春をすぎてもさらに続くもの、あるいは、続いて「しまう」ものなのだ。小説、というものは、終わることで自己完結し得るものだ。しかし実人生というものはそうはいかない。否でも応でも続けなければならない。

 太宰治の印象的な言葉。

       生きて行く力
  いやになってしまった活動写真を、おしまいまで、見ている勇気。


                              (『碧眼托鉢』)

 そう、私には、この『羊をめぐる冒険』という物語が、その太宰の所謂「勇気」なるものを得ようという物語である、と読めたのだ。

 主人公は、物語の序盤で多くを失う。まず彼はジェイの店と、その店のある「街」を失う。それは彼の青春の舞台となった場所だった。また、妻と、仕事をも失う。つまり、彼は彼の青春が結果したものを失ったのだ。だがそれらは、本来「行動しない」人物であるところの彼が、自ら積極的に「得た」ものではなく、偶然だとか、なりゆきだとかが彼に「与えてくれた」ものであった。つまりそれらは、彼が彼の人生を生きることを可能にするものとしては、相応しくはないものだといえるだろう。だから「必然的」に、それらは清算された。清算される「べき」ものであったから。

 そしてさらに、彼は彼の人生を生きるための力を得る必要があった。そのために、彼は「必然的」に、旅立たなければならなかったのだ。それがつまり、「羊をめぐる冒険」なのであり、鼠を探す旅であったのだ。だから、この物語は、前二作の続編ではあっても、前二作の「結末」なのではなく、新しい何事かの「発端」だとみるべきだろう。私が「蛇足」だというのはこうした意味において、だ。

 だが実人生において、こうしたはっきりとした「転換点」というものが得られる、ということはほとんどない、というかほぼあり得ない。あとから思い出して、ああ、あの時がどうやら俺の人生の分岐点だったのかなあ、などとしみじみ思う、というのが実際のところだろう。

 しかしだからこそ、この作品が「ファンタジー」であることに必然性が生まれるのだ、といえるのだろう。こうした「決定的出来事」が起こる様を、現実的に描いてしまうことのほうが、実は「本当らしくない」のである。この物語は、ファンタジックであることによって逆説的にリアリティを得ているのだ。そう、これはやはり「夢」なのである。「夢」であることによって、前二作との有機的な繋がりが生まれているのだ。

 だとするならば、「解釈の余地」を多く残して物語を終えてしまっていることにもまた、ある正当性が生まれることになる。この物語が「発端」であるならば、勿論、それがどう発展し、展開し、やがていかなる結末を迎えるのか、それは全て、この物語「以降」にゆだねられていることになるのだから。

 そしてさらには、この三部作の主人公とは(鼠もそうだが)つまり作者自身の分身であるのだから、この物語は、ある年齢に達した村上春樹という作家が、自分の若かりし日々に決着をつけ、作家としてこの先を生きていくためのある方向性を見出そうとした作品である、とも読むことができるのだろう。その方向性とういものが具体的にどういうものなのか、それはもっとこの作家のものを読んでみるより他に知る術はないが。

 「ユングを持ち出さずに」いくつもりが、どうも、次第にユング的な解釈に近づいていってしまった感もあるが、私の「むらかみはるきはどんな作家なのか」を知ろうという作業に、ひとつのテーマ、というか、視点のごときものを得ることはできたように思う。

 例えば『海辺のカフカ』などは、私には失敗作のようにしか読めなかったのであるが、しかしもう一度読んでみても面白いのかもしれない。あの作品が失敗作であるのか否かは別として、かつて読んだときにはみえなかったものを、もしかしたら見出すことができるのかもしれない、という意味において、だ。

 ということで、なかなか有意義な読書であった。読みやすく、物語も面白く、それでいてあっさり読み終えてしまうことのできない深みのある、そんな作品であった。これを全村上作品のなかでも最高傑作だと評するひとが少なくないことも頷ける。そして私自身、どうやら「人生の転換期」らしき時期にあるようなので、もうすこし深く、この物語についていろいろと考えてみるべきなのかもしれない。

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『1973年のピンボール』 紙一重

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『1973年のピンボール』

1973年のピンボール (講談社文庫)1973年のピンボール (講談社文庫)
(2004/11/16)
村上 春樹

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紙一重

 村上春樹作品は、私にとってこれが四作目だ。先日読んだ『風の歌を聴け』が処女作で、本作はその続編である。

 『風の歌』は、『海辺のカフカ』よりも、『ノルウェイの森』よりも良かったが、この『1973年のピンボール』はさらに良かった。処女作に感じられた「良さ」が、さらに強調された感じを受けた。

 淡々とした、あるいは乾いた、といってもいい文体は相変わらずであり、「金に困らない若者たち」というものがちょっと鼻につくのも相変わらずだ。しかしこれはもう「村上春樹作品」の特徴のひとつなのであり、これが嫌で我慢できないならばもう、この作家のものを読むことを諦めたほうがよさそうだ。好き、嫌いの問題は感性的なもので、これはもう理屈ではどうにもできないものだ。

 この文体は、つまり、村上春樹の物語世界を形作るために欠かせないものなのだ。そう、過去に私は、この作家のものについて、「世界観の構築」という点から、幾つか記事を書かせていただいた。なので今回もまた、まずこの辺りの観点からこの作品をみてみたいと思う。

 しかしもし、『風の歌を聴け』という作品において、その「世界観の構築」に成功しているのだとしたら、この『1973年』においてもまた然り、ということになるだろう。この作品は、『風の歌』の世界観をそのまま引き継いでいるからだ。よってその点については、もう答えは出ている。前作と同じく(あるいは『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』とも同じく)、この作品でもまた、その「世界観の構築」には成功している。

 だが、私は先日、『風の歌』についての記事のなかで、あの『風の歌』という作品は、若さ、というものが、時間や可能性やを浪費するものとして描いたということ、つまり、結局「何も起こらない」ということによって、作品として成功しているのではないか、というようなことを書かせていただいた。この点についてはどうだろうか。

 この『1973年』は、『風の歌』から二年後の物語である。私は、この二年という年月が「過ぎた」、ということに注目すべきものがある気がする。

 そう、青春時代というものが、何かが起きそうで起きないものだとしても、時は過ぎ、何かが「結果する」ということ、これもまた確かなことなのだ。この、積極的に求められたのではない、あくまでも「なりゆき」が最終的に結果したものとしての「続編」として、この作品は、非常によくできていると思う。

 つまり『風の歌』の、虚脱感というか、徒労感というか、閉塞感とでもいったものが支配するあの物語世界が、二年という時間の経過した後に、たどり着くべきものとして、不自然なところなく導き出せるようなものを、新たな作品として表わすことに成功している、ということだ。

 その象徴として、配電盤の挿話があり、あるいはピンボール台の挿話がある。非常にわかりやすく、納得できる舞台装置だと思う。変に飛躍した「メタファー」が好きな作家ではあるけれど、ここはわかりやすくして正解だと思う。なぜなら、これは物語の主題に関わる大切な部分だからだ。まだ充分に問題なく使える配電盤。しかし周囲が変化し、それは「そのまま」でいることができなくなり、新しいものと交換される。それはまさしくこの登場人物たちの青春の終焉の様だ。そしてピンボール台も、また。

 さらに、私はこの作品には、ところどころに「抒情性」を感じた。村上春樹の作品にこれを感じたのは、初めてだといっていい。直子の故郷についての描写(犬のいる駅のあたり)などもよかったが、なんといっても、「鼠」の物語が語られる部分に、私は強く惹かれた。

 この物語は、「僕」と、「鼠」というふたりの人物の、ふたつの物語が同時進行する、という体裁をとっているのだが、前作『風の歌』と同じく、「僕」も「鼠」も、共にあるひとりの人物(つまり作者)の分身であり、本来は同じ人間である、と考えてよいと思う。そして「鼠」の部分の場合、三人称で語られることによって、語り手と作中人物との間に、ちょうどよい「距離感」が生まれているのだ、と感じた。

 私にとって、これはひとつの発見だった。ああ、村上春樹という作家は、こんな文章も書けるのだな、と思った。だがこれは皮肉にも、「僕」の物語の部分については、その語り手と作中人物との「距離感」というものが、うまく保たれていないのだ、ということをも同時に意味することになる。

 簡単にいってしまうと、「鼠」の部分は、「普通の小説」なのである。だから、情動的な場面でも客観的に描写し得るし、そのために、感情の動きというものを「抒情性」というかたちで「文学的に」描き出すこともできる訳である。「普通」であるということは、やはり「王道」なのだろう。

 しかし「僕」の部分はどうだろう。「村上春樹らしさ」という点では、こちらのほうが勝っている。つまり、作者がねらった「効果」というものの主軸は、間違いなくこちらにあるはずなのだ。しかし前述のように、こちらにおける「距離感」は、「鼠」の部分のようにはうまく保たれてはいない。

 近すぎるのだ。こうした、乾いた、淡々とした調子で語るのならば、もっと距離をとるべきではないだろうか。あるいは遠すぎるのか。これほどに「僕」に近づこうというのならば、もっと感情的に語るべきなのではないだろうか。

 私が「皮肉にも」というのはこうした意味において、だ。この作家は、「世界観の構築」がとても上手だと、私はこのブログで何度も書いてきたが、その「世界観の構築」のためには、前述のようにこの文体は不可欠、といっていいと思う。しかしこの文体で語るかぎり、「僕」とのよい距離感は掴み得ないと私は思う。

 それでも、作品が作品として成り立ち得たのは、前作『風の歌』においては、時間軸というものが欠落した小世界を、「物語がない」物語として描くことに徹したからであり、本作においては、その時間というものを、「続編」という体裁をとることによって、即ちある原因が結果したものを、ただ「結末」として描くことによって、いわば作品の外に置くことができたからである。

 そう、時間軸というもの、つまり物語というものが作品に展開されるためには、やはり語り手は登場人物との距離感を掴むことが大切なのだ。大きく距離をとり、いわば「神の視点」から作品世界に物語を与え、登場人物の右往左往をその感情に至るまで客観視して描くか、あるいは逆に登場人物にのめり込んで、その視点から作品世界とそこに展開される物語を描ききるか、そのどちらかであるべきなのだ。

 しかしそれに失敗し、中途半端に距離をとると、何やら「こんなもんさ」と冷めた眼で周囲を眺める主人公が、なんだか都合のよい世界観のなかで淡々と物語を追っていくような、そんな形になってしまう。その典型的な例として、私は他ならぬ『ノルウェイの森』を挙げたいと思う。

 だから、この『1973年』も、実は紙一重のところにあるのではないだろうか。続編であるということや、「鼠」の物語の存在が、作品を大いに助けてくれた。しかし、例えば双子の存在について、どう考えるべきだろうか。私には彼女たちが、余計者のようにも思えた。単に奇抜な状況を生み出させる効果だけを狙った舞台装置のように感じた、ということだ。彼女等が双子である必要が果たしてあったのかどうか、私は非常に疑問に思う。

 さらには、ピンボール台についてはどうだろうか。前述のようにこれは非常に大切な要素だ。しかしその扱いについて、どこか唐突に感じられたのは私だけだろうか。どうにも、取ってつけたような印象が拭えなかった。もっと、物語の進行に深く絡ませておくべきだったと思う。これは前述のように、作品の核心部分を象徴するものだからだ。

 しかしもしも、このピンボール台についてのエピソードが、物語に深く関わっていたとしたならば、あるいは作品全体の破綻を呼んでいたかもしれない、ともいえるだろう。なぜならそれは、物語というもの、時間軸というものの要素を強めることになるからだ。

 これまでに読んだ四作のなかで、一番よかった、と私は書いた。その「良さ」とは、実はこうした微妙なライン上に成り立っていることから生まれているのだ、ともいえるのかもしれない。傑作と駄作は紙一重、というところだろうか。

 こうなると、さて、三部作の第三作目、即ち『羊をめぐる冒険』のことが、俄然気にかかってくる。こうしたもろもろの要素が、いったいどう転がっていくのか。私の知らない「村上春樹」は、みられるのだろうか。楽しみであり、怖いようでもある。読んでみよう。

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『風の歌を聴け』

風の歌を聴け (講談社文庫)風の歌を聴け (講談社文庫)
(2004/09/15)
村上 春樹

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村上春樹的世界

 私にとっては三作目の村上春樹。初期のものを、と考えていたところに、『羊をめぐる冒険』をすすめていただいたりもしたのだが、その『羊を・・・』が、三部作の最後の一作にあたるものだ、と知って、ならば、とその三部作を最初から読むことにした訳だ。私にはどうも、順番のあるものは最初から順番に読まなければ気が済まない、という、変に潔癖性じみたところがあるのだ。

 それに、この『風の歌を聞け』が、村上春樹のデビュー作だ、というのも、私をしてこれを選ばせる大きな理由となった。今私は、簡単にいうと「むらかみはるきはどんな作家なのか」ということを知ろう、という作業をしている訳で、それならば、その出発点は確実におさえておくべきだろう。この作家は、どうやら初期のものと最近のものとでは大きな違いがあるらしいので、何が、どこからどう変わったのか、それを知るためには、当然、「最初の形」を知っておかなければならない訳だからだ。

 と、いうことで、読んでみた。結論からいうならば、この作家を知る、という意味においては、なかなか実りのある読書だったと私自身としては思っている、といったところだ。

 読み始めて、おや、と思った。『海辺のカフカ』と、『ノルウェイの森』の二作しか読んだことのない私ではあるのだが、その私にも、デビュー作にしてすでに、はっきりと「村上春樹らしさ」をもっていることに気付くことができたのだ。それはつまり「作風」が、あるいは「文体」が、かなりの完成度で確立されている、ということだ。

 さらに、読み進め、読み終えていえることは、これは全く「村上春樹の小説」であって、それ以外ではあり得ない、ということだった。三作品しか読んでいない私が、エラそうにいえることでもないのかもしれないが、しかしそれをいい始めると何もいえなくなってしまうので、今、私が感じていること、つまり現段階における私の「村上春樹観」を、思い切って、エラそうに語ってしまうことにしよう。

 この作品は、1979年発表のものだ。私が読んだ他の二作品、即ち『ノルウェイ』は1987年、『カフカ』は2002年だ。私は図らずも、新しい方から読みはじめ、今回処女作を読んだ訳だが、三作を比較して感想を述べるとすると、『ノルウェイ』は『カフカ』より良く、『風の歌を聴け』は『ノルウェイ』よりも良い、と感じた、といえる。これは一体どういうことだろうか。

 上で私は、デビュー作にしてすでに「春樹らしさ」をもっていると書いた。それはつまり、以前『ノルウェイ』を読んだ感想を記事にさせていただいたときにも書いた、作中にはっきりとした「世界観」を構築し得ている、ということであり、さらにいうならば、その「世界観」というものが、見事に「村上春樹の世界観」だ、ということだ。

 その、「世界観」なるもの。それを具体的に、ただし、あくまでも私の印象でいってしまうならば、第20節の最後の言葉、「あなたって確かに少し変っているわ。」に象徴される、「変わり者」たることを自任する、あるいは、「変わり者」たらんと欲する者たちの小世界であり、アメリカのミュージシャンの固有名詞等によってイメージさせられる舞台において、アメリカ文学的、もしくはアメリカ映画的な「気のきいた会話」がかわされ、そしてその会話は、最終的には「そういうことさ」だとか、「そんなものさ」だとか、「いつものことさ」というような冷笑的、自嘲的な言葉でしめくくられる、と、つまりはそんな具合のものだ。

 そうした全てが、あるいは物語の舞台である1970年当時の「若者文化」というものがもつ雰囲気、というものだったのかもしれない。そして作者がこの作品において描いたのは、結局その「雰囲気」、それだけであった。様々な、あるいは「小説的」というべきであるような出会いによって、幾人かの男女がある時間を共有することになるのだが、結局、なにも起こらずに終わる。この作品には、極論してしまうならば物語というものがない。

 だが、それだからこそ、この作品は成功しているのだと、私は思う。何かが起こりそうな気配は、いつでも周囲に満ちているように感じる。しかし結局、何も起こらず、だらだら、まったりとした日々が過ぎていく。それは、実は大概の人間の「青春時代」というものの本当の姿ではないだろうか。何も起こらず、起こりそうなことすら起こらず、ただ、「思惑」だけが交差し、そして若者たちは時間を、そして自身の持つあらゆる力を浪費する。

 そう、この若さというものを「浪費」されるものとして描ききったところに、私はこの作品の魅力を感じたのだ。「固有名詞」の多用は、時代を限定してしまう、という点で、その作品から普遍性を奪うことに繋がりやすいが、しかし、この「浪費される若さ」という、世代を超えた普遍性を捉えていることによって、この作品は、「(当時としては)新しいスタイルの小説」でありながら、一個の文学として、というのはつまり日本文学というものの大きな潮流から脱落することなく、完成することができたのだと思う。

 では、なぜ私は、この『風の歌』よりも『ノルウェイ』を、『ノルウェイ』よりも『カフカ』を評価しないのか。それは、その「物語」というもの、「出来事」というものの扱い方、つまりはそこに尽きる。

 先に述べたように、「世界観の構築」という点では、三作とも成功している、と思う。しかし、『ノルウェイ』においては、そこに「物語」が加わってくる。私の印象では、そのことによって、「世界観」に力強さを付与するところの「リアリティ」というものが減ぜられているのだ。全体に弱々しくなってしまっている。「物語」に、「世界観」が引き回されているのだ。

 特に主人公が力を失う。何も起こらなければ、『ノルウェイ』の主人公は、『風の歌』の主人公のように、無気力ではあっても少なくとも一個の自己完結した「人物」たり得ていただろう。なぜなら、両者に本質的な違いはないからだ。だが『ノルウェイ』においては、「出来事」が、「物語」が彼を翻弄し、彼は単なる傍観者然としてしまっている。なぜなら、彼は本来「行動」する人物ではないからだ。あるべき場所にない人物は力を失う。極寒の南極大陸では、ライオンだとてペンギンより強い動物ではいられないだろう。

 そして『カフカ』においては、それはさらなる破綻を起こす。作品の主軸がさらに「物語」の方に傾くからだ。さらに加えて、相変わらず「1970年の若者」然とした主人公は、最早作者の思い出から生まれた、「世界観」にとって都合のよい人工物でしかない。そしてそれは、登場人物たち全てについていえるだろう。その「物語」そのものにつては、好き嫌いもあろうからここでは触れない。(詳しくは、『海辺のカフカ』についての過去の記事を読んでいただければ、と思う)。

 と、いうところが、私が村上春樹の三作を読んだところの感想だ。そして結論的なことを述べさせていただくなら、もしかしたらこの作家は、短編のほうが面白く、完成度の高いものを書くのではないか、ということだ。何度もいうが、この作家の、「物語世界」の構築の手腕はすごいものだと思う。そしてそれは、読みはじめてすぐに、読者を取り込んでしまう力を持っているのだ。だとしたならば、短編でこそ、その力量はいかされるのでは、と私は思うのだが、どうだろうか。

 そしてそれは逆に、「長編物語」にどうやら傾いているようにみえるこの作家の指向が、さて正しいことなのかどうなのか、疑わしくなってくることをも意味する。最近話題になった、『1Q84』などを読んでみたならば、あるいはそこらあたりのことがみえてくるのかもしれない。

 しかしまあ、とりあえず、この「三部作」から読んでみよう、とは思っている。そして長編ではあるが、『羊をめぐる冒険』を読むことを、とても楽しみにしているのだ。でも、次は『1973年のピンボール』か。ま、順番に、いこう。

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『ノルウェイの森』「賛否両論」


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『ノルウェイの森』

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
(2004/09/15)
村上 春樹

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賛否両論

 私は今、自分に幾つかの課題を与え、その上で本を読んでいる。それは、

1、読んだならちゃんとその感想をブログに書くこと。つまり、読み飛ばしておしまいにせず、しっかりと読むこと。

2、大量の「積ん読」本を、少しずつ減らしていくこと。つまり、手を出しづらい古典も面倒くさそうな哲学書や論説もちゃんと読むこと。

3、英語圏の文学を読むこと。つまり、学生時代の英語嫌いの名残なのか何なのかわからないが、この英米文学を避けて通る私のおかしな悪習を根絶すること。

4、新しいものを読むこと。つまり、新刊書へのショウペンハウア的偏見を捨てて、自分で読み、自分で判断することを学ぶこと。

 で、今回は即ち、「4」の課題をこなすことになる訳だ(『ノルウェイの森』を新しい、とすることには異論もありそうですが)。これについては少し前にも書かせていただいたが、とにかく私は現代作家というものをほとんど知らないので、この村上春樹、という私でも知っているビックネームに頼ろう、というところだ。

 私にとって、村上春樹のものはこれで2作品目だ。『海辺のカフカ』が私の『初ハルキ』であり、それは残念ながら私には良いものとは思われなかった。で、今回はこの『ノルウェイの森』だ。

 『海辺のカフカ』もそうだったが、この本も、私は、普段の遅読っぷりからは考えられないような早さで読み終えてしまった。『海辺のカフカ』のときは、物語の面白さにひきずられて、一気に読んでしまったのだと、自分らしからぬ速読を自己分析してみたのだが、今回、またしても、というところで、どうやらその理由は、単に物語への興味だけではなさそうなことに気付いた。その辺りのことも含めて、この『ノルウェイの森』という作品について考えてみようと思う。

 とはいいつつ、このベストセラー作品について、今更何かをいう、というのは、どうも蛇足も極まれりの感が否めない。アマゾンあたりのレビューなどをのぞいてみれば、もう読みきれないほどにたくさんの人たちがいろいろ意見を寄せているし、それをちょっと拾い読みしただけでも、なかなか興味深いことを書いているひとが少なからずいる。なので、ここで私が面白かっただのつまらなかっただのいってみても、誰も最早興味など抱いては下さらないのではないだろうか。

 ただ、これはどうも村上春樹の作品全般にいえることらしいのだが、この『ノルウェイの森』も、これは傑作だ、という意見と、これは駄作だ、という意見とに、極端に大きくわかれることに世間の評価の特徴があるらしいことがわかった。そこで私は、なぜこんなに評価がまっぷたつに割れてしまうのか、そのことを考えることによって、この作品を私なりに評価してみたいと思う。

 皆それぞれ、その好みや考え方に従って、いろいろと意見を述べておられるようだが、肯定派も否定派も、読みにくさ、というものは感じないひとが多いようだ。皆、一気に通読している。それを、「物語にひきこまれた」からだというひともいれば、「中身が薄くてさっと読めてしまう」というひともいる。

 私もまた、前述のようにその例にもれず一気に読み通してしまったのだが、私はその理由を、この作品の「最も成功している部分」に見出せるのではないか、と思う。そしてその「最も成功している部分」こそは、評価が賛否の両極端に割れることの理由でもあるのではないか、とも思うのだ。

 小説には、その物語が演じられる舞台であるところの、世界観というものが必要だ。この世界観の構築こそ、私は、この作品の「最も成功している部分」だと感じた。特徴的で、しかも最初から最後まで一貫して、たゆまなく物語を支配する世界観の構築に、作者は見事に成功している。

 これは、とても大切なことだと私は思う。特に、この『ノルウェイの森』のような、物語の展開の面白さだとか、あっと驚く結末で読者を驚かせるような類いのものではない作品においては、だ。

 その世界観がしっかりと構築されていることによって、物語は多くを語り得る。特に哲学的、形而上学的な、あるいは信仰告白的なものを語らずとも、世界観そのものが、ある価値観をしっかりと保持し、揺るがないのならば、そこに読者は著者の主張を容易に読み取ることができる。説教くさい、理屈っぽい文章を連ねる必要はなく、その説教や理屈に支配された物語世界を、その具体例として構築し、読者の前に展開してみせれば、それが全てを雄弁に語ってくれる、という訳だ。

 例えば、キリスト教信仰が当り前である、という世界観に基づいた物語のなかでは、わざわざ「私はイエス・キリストを信じます」などと作中人物に語らせる必要はない、ということだ。

 この点における成功が、読者に、この物語世界へ入り込むことを容易にさせているのだと、私は思う。そして、すんなりと一気に読み通せる理由は、まさにここにあるのではないだろうか。勿論、文章の平易さが、それを大きく助けていることもあるのだけれど、読者は、作者が与えてくれた安定した視点から、絶対の座標軸のうえに物語世界を眺め、そしてそれをゆるがない価値観で評価される様を、迷うことなくなぞっていくことができる。すなわちそれが、この作品の「読みやすさ」なのではないのだろうか。

 しかし反面、その「世界観の構築」の完成度が高ければ高いほど、その世界観を支配する価値基準が必然的に一面的になっていくのも確かなことだろう。そしてこの一面性が、つまりは評価の賛否両論化につながっているのだと、私は思う。

 先ほどの例でいうならば、「キリスト教的価値観」にあまりにも強く支配された物語は、キリスト教徒にしか支持されなくなる、ということだ。

 例が宗教のことなので少々誤解されそうなのが恐いが、ようするに、この物語の登場する人物たちを支配する価値観や、そこから生まれる空気感のようなものと、同じかそれに近いような傾向をもったひとにはこの物語は受け入れられ、そうでないひとには拒否される、ということだ。

 そして受け入れるひとにとっては、もう全てが「自分好み」の色で染められているように感じられ、部分的な欠点がみられたとしてもそれは「アバタもエクボ」式に全肯定され、拒絶するひとにとっては逆に、何もかもは気に入らない空気感のなかに包まれているようで、局所的には実は自分好みのものがあってもそれは「袈裟まで憎い」式に全否定されると、そういうことになり、結果、「0」か「100」かの賛否両論まっぷたつの評価を生むに至る、というのが私の考えだが、どうだろうか。

 繰り返すが、これはこの村上春樹という作家が、ひとつの物語世界というものを、高度に構築し得ているからこそのことだ。よって、「村上春樹の作品」としては、これはかなり成功した作品だといえるのではないだろうか。大ベストセラーではある。しかし実は「読者を選ぶ」本だ、ともいうことができるのかもしれない。

 で、私自身はどうかというと、ただひとつ、その「高度に構築された物語世界」を、大きく揺るがしかねない部分への評価によって、それは説明できそうだ。

 物語の終盤、「永沢さん」が、主人公にこんなことをいう。

「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ。」

 この言葉ほど、この物語において異質で、しかも力強い言葉はないと思った。そうだ、このほとんどツァラツストラ的なひとことは、この物語の作中人物たちが織りなす全てに対立し、それを「鉄槌をもって」打ち壊す。

 「私はこんなに不幸なの」といって自殺していく繊細な彼ら彼女らに向かって、決然といい放たれたこの言葉によって、私は、この永沢なる人物が、最も大きな苦悩を抱え、しかもその苦悩を苦悩として苦しむことのできる人物なのだと思われた。彼の強さはきっとそこにあるのであり、東大の法学部からすんなりと外務省へいくずば抜けた頭脳や、あっさりと女の子たちをものにする容姿や話術が、彼の能力の本質ではないのだろう。

 そして私の考えでは、もしこの作中人物たちが実在するとしたならば、本当に心を病み、自殺する可能性を秘めているのは、ただひとりこの永沢さんだけだろう。彼だけが、「深淵は常に渇く」ことを知っているからだ。他の、自分の弱さを他人に話すことのできる「楽天家」たちは、きっと自殺などせず、「自分に同情」しながら生きていくだろう。彼らは結局、自分の周囲に小世界を築き上げ、そこに安住する術を知っているからだ。

 「自分に同情するな」。この物語世界においては、ほとんど「破滅の呪文」に近いようなこのひとことは、「物語世界の構築」という観点からは、作者の痛恨のミスだということもできるのかもしれないが、しかし私にとっては「逆説的に」この作品の価値を高めてくれた。これがなかったならば、多分私は、残念ながらもっと厳しい評価を下していたことだろう。

 しかし他方において、村上春樹の作品を、もう少し読んでみようか、という気にさせられたのも事実なのだ。理由は自分でもはっきりわからないが、多分、やはりこの作家が独自の物語世界をもっていることに、魅力を感じているのだと思う。初期の作品を好む声が、あちこちで聞かれる。読んでみようかと思っている。

 そしてまた、主人公と永沢さんが絶賛する『グレート・ギャツビー』、これも読んだことがないので、読もうと思う。つまり、私の課題の「3」だ。実は、もう買ってきた。早速、読もう(村上訳ではないけれど)。

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『海辺のカフカ』

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
(2005/02/28)
村上 春樹

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初ハルキ

 (はじめに。この作品は、これまでにこのブログで扱ってきたものと比べるならば、ほとんど新刊書といってもいいほど新しいものなので、一応、今回の記事にはネタバレがたっぷり含まれることをお断りしておきます。)

 村上春樹のものを読むのは、この『海辺のカフカ』が初めてだ。読み始めてまず思ったことは、意外に娯楽小説指向だな、というものだった。もっと、純文学指向の強い作家だと、勝手に思っていたのだが。

 勿論、純文学というも、娯楽小説というも、そこに明確で客観的な境界がある訳でもなく、これはあくまで私の基準で測っての判断だ。よって私には、こうしてひとつの作品を判断し評価した以上、その判断基準を明確にする義務があるといえるだろう。今回は、このあたりのことも絡めつつ、この『海辺のカフカ』を扱ってみたいと思う。

 文学、特に小説という分野における、「話」というものの重要性については、昔から議論のわかれるところだ。その最も有名なものは、谷崎潤一郎と芥川龍之介との論争、ということになるのだろうけれど、私はというと、ほとんど芥川と意見を同じくしている、といってしまってよいかもしれない。

 ちょっとカッコイイことをいわせて頂くと、私の頼りない「文学観」は、ヴィーコの『新しい学』、あるいはニーチェの『悲劇の誕生』あたりから多く影響を受けて成っているので、芥川とは本来無関係なのだが、彼の『文芸的な、あまりに文芸的な』の冒頭あたりを読む限りでは、彼にほぼ全面的に賛成、といったところだ。

 (まあ、この『文芸的・・・』という題名をみるかぎり、芥川もまたニーチェの影響を受けている、ということになりそうなのだが。)

 芥川の謂うところを、私の理解において簡単にいってしまうと、全然「話」のない小説、というものは成り立たないだろうが、小説の価値を決めるのは、「話」の長短や奇抜さなどではなく、「詩的精神」なのであり、もし「(最上のではなく)純粋な小説」は何か、ということになれば、それは「通俗的興味」がない、という点において、「話」のない小説ということになる、といったところか。

 なお、「詩的精神」とは、という問いには「最も広い意味での抒情詩」だと芥川は答え、「通俗的興味」とは何かというと、それは「事件そのものに対する興味である」と説明している。

 簡単にいってしまうと、その「通俗的興味」即ち「話」の面白さを追求したならば、それは最終的にはミステリー小説になり、反対に、「詩的精神」だけを突き詰めれば、それは純粋な抒情詩に行き着く、ということだと私は思っている。で、私がこの記事の冒頭でいった「娯楽小説指向」というのは、つまりその「話の面白さ」の方向に重心をおいた作品だ、という意味だと、ご理解頂きたい。だから、「純文学指向」とは何かというならば、全ての文学の原点は抒情詩だ、というニーチェ的立場から、その原点にたちかえる、あるいは原点からできるだけ離れない方向性を持った小説がそれだ、ということになる。

 と、まあそんな具合の判断基準でいきます、と一応納得頂いたものとしてしまって、ようやく、『海辺のカフカ』をみてみることにしよう。

 活字を小さくすれば、もう少し少量にできるのだとしても、厚めの文庫本二冊分のこの小説を、私は、私の普段の「遅読」っぷりからすればかなり早いといえるペースで読み終えた。理由はただひとつ、その物語が面白く、睡眠時間を削り、オムツが汚れて泣く赤ん坊を放ったらかしにしてまで、読んでしまったからだ。

 つまりはそれだけ、面白い物語だった、ということだ。読者をひきつけて一気に読み通させる魅力が、確かにそこにはあった。しかし残念ながら、それは読んでいる最中に限られた。読後感、ということになると、話はかわってくる。

 たっぷりの伏線、たっぷりの思わせぶりに、構成の奇抜さ。これによって私は、この小説が芥川の所謂「話」を楽しむ小説だと判断した。しかしだからといって、「詩的精神」への期待を直ちに捨てた訳ではない。なぜならそれは、芥川が谷崎の小説を例として挙げているように、共存し得るものだからだ。

 「話」の方は、前述した通り、読み進める過程においては文句なく面白かった。しかし「詩的精神」のほうはどうだろう。まず、その人物描写をみる限りにおいては、残念ながらそれは否定される方向にあった。

 とにかく、人物が人工的なのだ。本当らしさがない。まず主人公だが、MDウォークマンや携帯電話がある時代の15歳の少年、という具体的設定であるにかかわらず、まるで1970年代の若者のようだ。その文学の趣味も、音楽の趣味も、「今の大人たちにとっての、理想的で真面目な青春を送る若者」然としているように感じる。

 ようするに、人工的なのだ。こういう人物は、時代背景をぼかしたうえでしか生きてこないだろう。しかし筆者は時代をはっきりと限定してしまっている。これではもう、読者は変身願望的な感情移入はできるかもしれないが、そこに抒情性を見出すことは諦めなければならない。なぜなら、抒情性とは、主観的で実感的なものだからだ。

 その他の脇役たちも、やはり本当らしくない。はっきりいってしまうと、「いきいきとした人物」などひとりもいないのだが、そのなかの、物語に重要な役割を果たす人物だけをみてみよう。

 まず、大島さん。身体は女性だが、性同一性障害で、しかもゲイ、という人物は、勿論現実にはあり得ない、などとはいえないだろうけれど、しかし小説の登場人物としては、どうにも現実味は感じられない。これはもう、身長2メートル30センチの女子高生を登場させるのと同じようなものだ。その特殊性を作品の主題とするのなら、こういう人物を扱うのもよいだろう。だがこの特殊性、ほとんど物語の運びには関係がないのだ。物語の進行に、道案内役として非常に大きな役割を果たす人物であるだけに、このとってつけたような人物設定には、違和感を感じざるを得ない。

 それに比較して、佐伯さんという、この物語上の最重要人物の扱いの曖昧さはどうだろう。特に、主人公が彼女に出会ってから、彼女に好意を寄せるまでの過程においては、私にはこの人物がどんな女性なのか、さっぱりイメージがわかなかった。その描写の方法ではなく、描写そのものが少なすぎる、という印象だ。それが筆者の狙いだといわれれば仕方がないが、しかし、他の登場人物と比較してのこのボンヤリ感は、どうにも受け入れ難い。

 その原因は主に、佐伯さんの人となりについてが、彼女自身の言動ではなく、大島さんの説明によって表現されていることによると思う。そのことが、彼女の「抽象性」に拍車をかけてしまっているのだろう。つまり、大島さんがでしゃばりすぎたのだ。

 表現は、基本的には写実的だ。しかしその特徴的な細部の描写への偏向は、情景の明確化よりは、文章の冗長さを生む効果にしか役立っていないようだ。そのうえに、あの猫と会話のできるナカタさんの存在。しかし幻想小説的なものは感じられない。あるのはただ、どうにもならない違和感だけだ。

 いや、そうした全ても、読んでいる最中には、読者の興味を惹き付ける効果を、存分に発揮している。だからこそ私も、その興味にひきずられ、期待に胸をふくらませて読み続けたのだったが、とにかく、その全てが最後に裏切られた感じだった。勿論、悪い方に。

 あの大風呂敷の数々は、一体なんだったのだろうか。冒頭に語られる、あのおかしな事件は結局、米軍の報告書の形で語られる必要があったのだろうか。いや、そもそもあんな事件が、詳細に語られる必要さえ、あったといえるのだろうか。

 それに限らず、全てが思わせぶりなのだ。しかもその結末までが思わせぶりで、結局この物語の全体がなんだったのか、はっきりと語られることなく終わる。何なのだろう。単にエディプス・コンプレクスのことをいいたかった、という訳でもあるまい。なにやら、いろいろなものが未解決、あるいは放ったらかしのまま、終えられてしまったような感じだ。

 最初の方で、さりげなく、という具合に、ユング心理学を思わせる言葉があるが、これだろうか。ユング心理学的な世界観の小説世界を、筆者は創りあげたかったのだろうか。つまり、集合的無意識だとか、シンクロニシティだとか、そういうものを、扱ったつもりだったのだろうか。

 そう考えると、「アニマ」的な佐伯さんだとか、両性具有者的な大島さんだとかが登場する理由も、何となくみえてくる。もしそうならば、私見ではむしろ、大島さんが主人公の目的たるに相応しく、佐伯さんは道案内である方が、よりユング的だと思われ、それだけをみても、とても成功しているとはいい難いのだけれど。

 というわけで、その「話」の方も、残念な印象をもって終わってしまった訳で、結論をいわせていただくならば、私はこの小説を、高く評価することはできなかった。その衒学趣味を廃し、文章をもう少し簡潔にするなどした上で、登場人物の数も半分ぐらいにして、全体の分量を半分か、できれば三分の一ぐらいにできるよう、物語もスリムにすれば、あるいは面白い短編になるのではないかと、そんな印象をもった。

 筆者にいいたいことがたくさんあって、その全てをひとつの作品に放り込んでしまった結果、細部、あるいは部分だけがあって、全体というものを失ってしまった、そんな作品だというのが、私の読後感だ。

 前述のように、私は村上春樹のものを読むのはこれが初めてだ。だから、大いに期待をもって読み始めたのだが、この作品に関しては、期待はずれだったといわざるを得ない。しかし勿論、この一作で、村上春樹という作家の全てを評価してしまうつもりは毛頭ない。まだこれからも読んでみようと思っている。

 何冊か読み、この作家のことをもっと知った上で、またこの『海辺のカフカ』を読んだのなら、もしかしたら、今の私が読み取ることができないものを、読むことができるのかもしれない。身の程を知らない辛口批評みたいなことになってしまったが、単に、私の読解力がおそまつなだけだ、という可能性、これも小さくはないのだから。

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