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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『カイン』

カイン (岩波文庫)カイン (岩波文庫)
(1960/03/25)
バイロン

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近代人、カイン

 私の読書遍歴は、ドイツ文学とフランス文学にひどく偏っている。まあ、このふたつの分野だけでも、私の読書量ではとても網羅しきれないような広大無辺さがある訳で、ドイツ文学なら何でも来い、などとは全くいえないのではあるけれど、偏っている、というのは確かで、そのせいで他の、特に英語圏の文学を、私はほとんど読めていない。

 だから、英米文学好きの方々からみれば、読書が趣味とかいいながらこんなものも読んでいないのかと、びっくりされそうな名著名作もいまだ読んでいない、という有様で、このバイロンのものなどはその好例といえるだろう。

 何を隠そう、バイロンを読むのは、この『カイン』が初めてなのだ。巻末の訳者解説によれば、この詩人は英国本国よりはむしろ大陸の各国で受け入れられたそうで、確かに私も、ドイツやフランスの本のなかに幾度もこの名前をみていたのだから、「齢不惑に至らんとして」はじめてです、とは、あまり堂々といえたものではないのだが、本当なのだから仕方がない。

 よって、バイロンという詩人のことも、なんだか伝説的な面影程度の印象以上に、詳しいことは何もわからないままに、読んだことになる。しかしまあ、それもまた悪いことばかりでもないだろう。先入観ほど、判断を誤らせるものはないのだから。しかし、予備知識は理解を容易にしてくれる、ともいえるけれど。

 この劇詩は、いうまでもなく、『旧約聖書』の『創世記』にある一挿話に材を得て成っている。私が初めて『旧約聖書』を読んだのは、予備校生だった頃のことだ。予備校生時代に『旧約聖書』を読んでいる、とは、私がどれほど真面目な受験生だったか解るというものだ。あんな本を読みながら、まともな受験勉強なんかできる訳はないのだ。

 その『創世記』を読んでいて、まず疑問を覚えたのが、このカインとアベルのエピソードだった。弟アベルを殺し、人類最初の殺人者となったカインなのに、神は彼を追放はしても、それ以上の罰らしい罰は与えない。それどころか、「罪深い放浪者である自分をみつけたなら、人は自分を殺すだろう」と心配するカインに、神は、「カインを殺す者は七倍の復讐を受けるだろう」といって、カインがその人だとわかるように額に印までつける。

 そしてその後、カインの後裔はノドというところで栄えることになるのだ。「人類最初の殺人者」であり、「弟殺し」のカインなのに、どうして、神はすぐさま地獄のおとすだとか、イカズチで撃ち殺すだとかしないのだろうか。聖書の神学的な、あるいは文献学的、考古学的な研究などせず、ただひとつの古典文学として読むばかりの私には、いまだにこれは解けない疑問のままだ。

 で、この疑問に、バイロンが何かひとつの解答らしきものでも与えてはくれないものかと、私はこの劇詩を読んでみることにしたのだった。

 登場人物は少ない。全部で八人だ。しかも、ほとんどカイン、ルシファー、アダの三人で、物語は進行していく。そのせいか、劇詩、あるいは戯曲を読んでいるというよりも、対話篇でも読んでいるかのように感じた。その主題が哲学的であるからなおさらだ。いや、けっして無愛想な文章だということではない。いわば、抒情的な対話篇だ。

 そして登場人物の少なさは、それぞれの個性を際立たせる効果をも生んでいるようだ。舞台が、『創世記』のなかの一挿話という、よく知られたものであるだけに、登場人物にはっきりとした、しかもこの作品に独自の個性をもたせる、ということは重要だし、しかも簡単ではないことだろう。この点に成功しているあたりに、バイロンの詩才を感じた。

 『旧約聖書』においてこの挿話が語られるのは、『創世記』の第四章だ。つまりアダムとエバが、楽園を追放されてすぐの話であり、まだ数人の家族にすぎない最初の人類たちは、単純素朴を絵に描いたような者たちだ。だからこの劇詩においても、アダムとエバ、そして特にその良き息子であるアベルは、太古的牧歌的な「良い子」として描かれる。それは人物、というよりは物語の世界観を語る舞台装置のような役割を担う。

 彼らがエデンの外に暮らしている理由としてのアダムとエバ、そしてその罪を負わなくてはならない宿命としてのアベル。それはつまり、一個の人格というよりは、『旧約聖書』の思想全体を貫く、「原罪」というものの象徴的な姿であり、没個性的であることによって、逆説的に物語のなかで特徴的な位置を与えられる訳だ。

 その彼らの形作る太古的世界観のなかにあって、カインの存在は際立っている。彼だけが、ほとんど近代人だ。

 「蛇は真理を語った。(中略)知識は善だ、そして生命も善だ。このふたつのものがどうして悪でありえよう!」
 「神が全き能(ちから)だからといって、それだから神が全き善であるということが、いやでも出てこなければいかん理由があるのか?」

 こうした台詞によって、「懐疑のための懐疑」に取り憑かれたような、カインの近代人らしさが第一幕の序盤から強調される。「この苦しみは私だけのものだ」とも、彼は言う。太古的世界にあって、近代人たる彼は孤独だ。実際彼だけが、両親のひとつの罪によって人類全体に与えられた苦しみ、即ち労働や死というものを甘受しなければならない宿命に疑問を抱く。

 だからカインは、「あいつ(神)の前に跪かぬ奴はみんな今まで俺の前に跪いていたんだ」というルシファーに、「でも私はどちらの前にも跪く気持ちはありません」と答える。神でなければ悪魔に、という太古的単純さは、あるいは中世的厳格ささえも、彼には無縁のものなのだ。

 そのルシファーだが、「近代人カイン」の誘惑者たるに相応しく、これも太古的デーモンでもなく、かといって新約的な反キリスト者としての悪魔でもなく、「神」に反しながらも人間の味方であるかのような、いわばプロメーテウス的な「必要悪」という、実に思弁的論理的なものとして描かれる。サタンであるよりは、むしろメフィストフェレスだ。

 そのルシファーとのやり取りは、カインの「近代人的」葛藤そのものであり、そしてルシファーの、

 「人間というものの本質はつまらないものだということを知るのが、人間の知識のとどのつまりなのだ。」

 という台詞に至って、カインは近代の終焉にすら手を伸ばし、現代をも垣間みるように、私には思われた。次のルシファーの台詞などは、もうショウペンハウアの主観主義にあと一歩というところまで来ているといえないだろうか。

 「思索するのだ、忍耐するのだ。お前自身の胸の内に一つの内面世界をつくり出すのだ。そうすれば外面的なものはみんな無意味になってしまう。」

 そして、避けられぬ必然性をもって、悲劇は成就する。天使はカインに尋ねる。「お前の弟のアベルはどこにいる?」。カインは答える。「すると私は弟の守り番というわけですか?」。

 これとほとんど同じ台詞が、『創世記』にもみられる。

 「主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。」

 この台詞、バイロンの『カイン』で言われる分には少しも違和感を感じないが、あらためて『創世記』の文脈のなかで読むと、すごい言葉だな、と思わされる。ほとんど中学生のクチゴタエみたいだ。多分、これが人類初の「へらず口」ではないだろうか、などと思ってしまう。

 そしてカインは額に印をつけられ、その罪と共に追放される。もともと彼はアウトサイダーでしかあり得ないような人間だった。それを思えば、これは必然的な結末なのだろう。我々はこの結末を知った上で、ここまでカインを追ってきた。その徒労感、絶望感のなか、彼の妻、アダの存在だけが、ひとつの救いと感じる。

 アダは、物語の最初から最後まで、ひとつの姿勢を貫き通す。それは、とにかく愛するカインの味方であり続け、そしてその立場が、けっして「神」の前に間違ったものではないと信じる、というものだ。

 アダは単純で、愚直だ。しかし彼女は常に正しい。カインのように何かを追い求めたりはしないが、しかし彼女は常に足りている。娘であり、妹であり、妻であり、母である彼女は、つまりあの「永遠にして女性的なるもの」なのだ。

 この物語が二極に、即ち太古的なものと近代的なものとに、決定的に分断されながらも破綻しないのは、彼女の永遠性によって支えられているからだ、ともいえる。そして我々は彼女の存在に救われ、安心して物語を閉じることができるのだろう。

 ところで、私の疑問は結局また、解かれずに終わった。どなたか、わかる方はおられませんか?

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