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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『盗賊』

盗賊 (新潮文庫)盗賊 (新潮文庫)
(1954/04)
三島 由紀夫

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二人の天才

 私は現代日本文学に、ふたりの天才的文章家を知っている。ひとりは太宰治、もうひとりが、この三島由紀夫だ。

 太宰の天才については、私は一度『津軽』の記事のなかで、触れさせていただいた。それを簡単に繰り返させていただくと、彼の文章は、散文でありながら高度に詩的だ、ということだ。それはとても感覚的で、直感的な印象を受ける。

 三島の文章をそれと比較するなら、極めて理知的、とでもいうべきだろうか。それはどこまでも散文であり、しかも天才的なまでに完成された散文だ。その考え抜かれたような表現には、曖昧さへの忌避、そして論理矛盾への神経質なまでの嫌悪を感じさせられる。

 だから、私は太宰を読んでいると、「こんな書き出しから、こんなところに向かってしまって、いったいどう物語に決着をつけるのだろうか」などと、不安になることがあるのだが、三島の文章のときには、「こんなに細かいところの表現に、こんなに気を使った文章が、さて、最後まで破綻もせず、気抜けもしないまま、続けられるものなのか」という不安を感じる。

 つまり太宰の文章には、あまりに感覚的、即興的な不安定感を憶え、三島の文章には、小説の文体としてはあまりに高い論理的完成度を狙いすぎて、ひとつの失敗が全てを台無しにしてしまうような、逆の意味の不安定感を覚える、ということだ。

 しかし、そんな私の凡人らしい心配などどこ吹く風、このふたりの天才は、いつでも見事に文章をつなぎ、きちんと終わらせ、傑作として完成してみせてくれる・・・という訳には、残念ながらやはりいかないのだ。

 太宰に関しては、その初期の意図的に形が崩された作品を除外するとしても、なにやらあれこれ散らかしっぱなしで、最後にそれを収拾できぬままに終えられてしまった作品が、少なからずあることは、きっと誰もがすぐに気づくことではないだろうか。

 いや、太宰の場合、ほとんど常に散らかしっぱなしで、それがかえって、彼の文章を「詩的」にしているといえるのかもしれない。散文小説らしくきちんと終わらず、何やら大いに言い残したようにぷっつり終えてしまうので、はっきりしない様々な印象を読者に残す。それが、彼の文章の特徴であり、独特の魅力を形作る要因のひとつなのかもしれない。

 だがあるとき、彼の感情に浮かされたような文章が、見事に「論理的に」収まり、わだかまりなく物語が終えられることがある。太宰の天才はそこに成就し、ひとつの傑作が生まれる。例えば『津軽』がそうだし、『パンドラの匣』がそうだ。我々は、やはり太宰が並大抵の作家でないことを思い知らされる訳だ。

 三島については、実は私は太宰ほど彼のものをたくさん読んでいる訳ではないのだが、それでもいつも、彼の文章に感じることがある。それは、その豊富な語彙と、表現の多様さだ。そしてそこに、たとえ同じ事象を表現しようというときにでも、同じ言葉を二度使用することを潔しとしないかのような、そんな印象を受ける。

 そしてそのたくさんの言葉を、彼は正確無比に並べてみせることによって、対象を揺るぎなく描ききる。論理的な精密さによって、描写はまるでその正当性を主張するかのようだ。そして、ここまで感傷というものを排斥してなお、いきいきとした情景を読者の眼前に余すことなく展開してみせるあたりに、私は彼の真骨頂をみる思いだ。

 それは、描写されるのが人物であろうが風景であろうがそうなのだが、殊に強くそれを感じさせられるのは、人物の心理描写だろう。三島は、ある人物の行動を長々と追い、そのいちいちにくどくどと解説をつけるようなことはしない。人物のある決定的な行動だけを取り上げ、その行動の意味や動機づけなどを、その心理の内に正確に描き出す。その手法は正確そのもので、物語をぐいぐいと、点と点をつなぐ迷いなき直線で引っ張っていくような、論理的な力強さを感じる。

 そこに、私は彼の天才の理知的なものを感じるのだが、ただ、そうした描写の効果を、筆者があまりにも作為的に狙いすぎていることが読者に伝わり、興ざめてしまうことがある。そう、三島の文章はあまりにも理知的なのだ。あまりにも、というのは、文学作品としてはあまりにも、という意味だ。我々は、彼の明晰な心理描写を楽しむことはできる。それこそ一段落ごとに、我々を唸らせる見事さがそこにはある。

 しかし物語の行方を左右する、決定的な場面に、あまりにも「上手に」その明晰な心理分析に基づく正確無比な心理描写を使われてしまうと、場合によっては、逆に物語に現実味を感じなくなってしまう、ということがある。

 なぜなら、我々は現実の人間関係のなかを生きていくうえで、彼のような透徹した心理分析などしないし、できないものだからだ。我々にとっての現実とは、もっとあやふやで、いい加減で、見通しのきかないものであり、彼の物語にのようには「理屈通りにいかない」ものなのだ。もっと主観的な曖昧さのなかで、我々は周囲を眺めている、ということだ。

 それが、ときに彼の物語を、我々に作為的に感じさせてしまう。つまり、太宰とは全く正反対の印象を受ける、ということなのだが、それは、今回読んだこの『盗賊』でも、やはり感じた。いや、特にはっきりと感じた、としたほうがいいのかもしれない。

 読み始めてまず私が感じたことは、いかにも三島らしい文章だ、ということだった。つまり、抒情性ではなく、表現の多様性によって、あるいは言葉の選択の正しさによって詩的であるような散文だ。そして通読し終えての感想は、これはまるで、最後の一行から筆を起こし、そのままさかさまに書き進め、最後に、最初の一行を書き終えたような小説だ、というものだった。

 どう評価すべきなのだろうか。三島の生死観だとか、自殺観だとか、恋愛観だとか、もっとざっくりいってしまうならば彼の哲学や価値観を、この作品中にあらわしてみせることには見事に成功している。しかし、それを物語の舞台装置として使用することは、はたして妥当なことだったのだろうか。

 作為的といえばあまりに作為的だ。悪い言いかたをするならば、ほとんどひとつの計算式を解いてでもいるかのように、どこまでも理詰めに物語は進行し、最後にひとつの、他にありようもないような解答に到達する。これは一個の小説のありかたとしてどうなのだろうか。

 読者がもし、小説を読むという行為に、物語への没入や、人物への感情移入、そして同情や共感からくる感動などを求めるのだとし、それによく応え得るのが「よい小説」だとするならば、この『盗賊』は失敗作だというべきだろう。これには、そんなものなどこれっぽっちもないからだ。

 しかし、この小説は、全体の構成は勿論、細部の組み立てまで、まさしく筆者の意図した通りに仕上げられた、そんな作品だ。そう、三島はまさしくこういうものを書きたくて書いたのであり、それに成功している、という意味で、実に三島らしい小説、といえるのではないだろうか。

 これは、三島にしか書けない作品であり、そして読者が、他でもない三島の作品を読みたくて読もうというのならば、つまりこれは傑作、ということができるはずだ。三島の天才の独自性が、これほどまでに純粋にあらわれているのだから。

 こういう作品を、「小説とは」などという一般論によっては無論のこと、他の作家のものとの比較によっても、評価しようとするべきではないと私は思う。私は、三島も、太宰も、両方ともが天才だと思っているが、どちらが優れているか、などということは考えることすらできない。同じく天才的文章家だとしても、それはあまりにも性質の違い過ぎる才能だからだ。

 この天才作家たちは、ふたりともがその生を自殺によって終えている。太宰は、愛人との情死。三島は、決起の末の割腹。その死に様に、それぞれの文学的な特色が反映されているようにも思われる。三島の理想は、現実においてもやはり理知的に過ぎたと、そういうことだったのではないだろうか。

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