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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『悲劇の誕生』

悲劇の誕生 (岩波文庫)悲劇の誕生 (岩波文庫)
(1966/06/16)
ニーチェ

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「強さのペシミズム」事始め

 1872年、ニーチェが二十八歳のときに発表された、彼の処女作であるこの『悲劇の誕生』は、このブログにときどき顔をだす我が友人Yが大学の卒業論文で取りあげたこともあり、私にとっては、ニーチェの数ある著作のなかでも、『ツァラトストラ』と並んで思い入れのある作品である。

 以前、ちらっと書いたことがあるが、私が読んだ最初のニーチェは『ツァラトストラ』だった。しかし当時まだ「似非新プラトン主義者」的な考え方をもっていたうら若き私には、ニーチェの思想にはほとんど共感できるものはなく、悪い印象だけを抱いて最後のページを閉じることとなってしまった。そしてそのために、しばらく私はニーチェを読むことなく過ごした。

 しかしやがてショウペンハウアの『意志と表象としての世界』を読み、その厭世哲学にそれまでの楽観主義的な自分の考え方を全否定されるような衝撃を受けるに及び、ようやく、まあ自分なりに、ニーチェを読む準備が整い、そしてこの『悲劇の誕生」を繙くに至った。

 結果的に、私は良い「順番」で、この二書、つまり『意志と表象』と『悲劇』を読むことができた、と思っている。というのは、この『悲劇』を書いた当時の若きニーチェは、いまだショウペンハウアの(そしてワグナーの)強い影響下にあり、実際、この『悲劇』にしても、その形而上学的根拠といっては、ほぼ完全にショウペンハウアに依拠しているのである。

 晩年に近づくにつれて、ニーチェはショウペンハウア哲学からの脱却、あるいは克服への意思を強め、ショウペンハウアどころか、形而上学そのものの価値をすら否定するに至るのではあるが、やはりその晩年期の彼の哲学のみを知ろうとするのではなく、彼がどこから出発したのかを知ったうえで、例えば『ツァラトストラ』などを読んだ方が、彼が「何と」戦っていたのかなど、いろいろとみえてくるものは多いと私は思う。
 
 よって、ニーチェを知ろうというのならば、やはりこの『悲劇』から始めるのがよいと考えるのではあるけれど、前述のように、その世界観はショウペンハウアそのままなので、準備的読書として、大著ではあるが『意思と表象』は読んでおくべきだと思う。無論、その『意思と表象』を読むためには、最低でもカントの『純粋理性批判』は読むべきだ、などといい始めると、もう最後にはプラトンから始める他はなくなってしまうので、この辺りはどこかで見切りをつけなくてはならないのだが。

 この書物は、「アポロ的なもの」と「ディオニュソス的なもの」という、ふたつの対立概念によって、ギリシア悲劇の、そして芸術というものの原動力とそのあらわれを説明しよう、という内容を持っている。

 と、これだけでは何のことやらわからないので、ざっくり説明してしまうと、「アポロ的なもの」とはつまり「表象としての世界」の壮麗な美しさのことであり、「ディオニュソス的なもの」とは、それに対して「もの自体としての意思」の、盲目的な衝動そのもののことである。・・・ますますワケがわかりませんか。しかし、『意思と表象』を読んだことのある方には、これで私が何をいおうとしているのか(私の解釈が正しいか否かは別として)おわかり頂けることと思う。

 勿論、『意思と表象』は読まず、『悲劇』の本文だけを読んだとしても、全く理解できない、ということはないだろう。この作品はニーチェには珍しく、秩序だった文章構成で論理的に(彼としては)書かれており、読んで内容を理解することは、預言の書のような『ツァラトストラ』だとか、他の格言めいたアフォリズム形式で書かれたものと比べるならばずっと容易だからだ。

 しかしここで語られるショウペンハウア=ニーチェ的な世界観は、まさしくこの作品で語られるところの「ソクラテス的主知主義」的な考え方に慣れきってしまっている我々には、感覚的に捉えにくい部分がおおきい。本当に、まさしくこの本のなかで提起されるこの問題故に、私は、あのショウペンハウアの大著をまず読んでおくべきだ、と思うのである。そしてこれは、ただこの処女作一冊の理解に役立つのみならず、ニーチェという巨人に立ち向かうための、我々にとってのおおきな手助けになるだろう。

 そうした意味では、この『悲劇の誕生』をまずできるだけしっかりと理解しておくことは、ニーチェ思想の迷宮に挑むにあたり、とても大切なことだ、ということもいえるのかもしれない。さらにいうならば、これをどう理解するかによって、様々な側面をもつニーチェが、そのひとにとってどういう意味をもつものとなるのかを、左右するともいえるのではないだろうか。

 この論文でニーチェは、徹頭徹尾その形而上学的根拠をショウペンハウアに負いながらも、ある決定的な価値転換をすることによって、彼独自の道への第一歩を踏み出している。ショウペンハウアにとっての、この「絶えざる苦脳」の連続に過ぎない、表象世界における生というものからの救済は、「盲目的な衝動としての意志」の否定、ということによって成されるものとされた。しかしニーチェは、「ディオニュソス的なもの」という形でその「意志」を積極的に受け入れることで、この苦しみ多き生を肯定的に受け入れる道を見出した。

 さらに彼の独創的なところは、「仮象」にすぎないものとしてのこの「表象の世界」の美しさ、すなわち「アポロ的なもの」をも否定せず、あくまでもこのふたつの対立概念の総合を、世界の芸術的、美的認識のために必要だ、としたことだ。それはショウペンハウアの「全否定の哲学」とは全く逆を向いた、「全肯定の哲学」であり、この二者が全く同じ形而上学的根拠から出発していること考えると、これは注目に値する。

 そしてこのことを、本書ではアッティカ悲劇の盛衰に仮託して語っている訳だ。だから、どうやら「文献学的」には、アッティカ悲劇の歴史というものを正しく捉えているとはいい難い本書であるらしいことは、あまり気にする必要はないだろう。ただ、我々が十把一絡げ的に「古代ギリシア」として俯瞰してしまいがちなものについて、その文化のうちにもやはり歴史的変容というものはあったのだ、ということを認識できればよいだろう。

 そんなことよりも、こうした世界の「美的認識」を、ソクラテス的な「主知的認識」、かんたんにいうと合理的、科学的な世界認識と対立させているニーチェの視点のほうを、我々はよく考えてみるべきだと私は思う。
 

 美的現象としてだけ、生存と世界は永遠に是認されている。
(第五節 抒情詩人の解釈)


 世界の合理主義的解釈、つまりニーチェ流にいうならば、「思惟は因果律という導きの糸をたよりに、存在のもっとも奥深い深淵にまで行き着くことができる」と信じる、理論的楽天主義的世界観は、ボードレールやドストエフスキーを経験し、さらには二度の世界大戦だとか原子爆弾だとかアウシュビッツだとかを経験してもなお、そして共産主義の理想の挫折だとか新自由主義の破綻だとかを経験してもなお、我々を支配し続けている。
 
 それは確かにある面では、この世界の謎を多く解明し、我々に多くの知識をもたらしてくれた。しかしその「知識」が、「世界を是認」することを助けてくれただろうか。この理性万能主義が、一体我々の生を「生きやすいもの」にしてくれただろうか。むしろそれは、ニヒリズムという過程を経て、結果的にはショウペンハウアにも劣らぬ程の徹底したペシミズムへの道を開いたばかりだとはいえないだろうか。

 ニーチェを知ることの今日的意味は、きっと、彼の生きた19世紀末とはまた違った形で、あるに違いない。少なくともそれは、世界というものを「市場価値」ではない価値観ではかることを教えてくれるはずだ。そのための第一歩として、本書は絶好の入門書だと私は信じる。岩波文庫に入れるならば、青帯よりはむしろ赤帯が相応しいかのようなニーチェの著作群ではあるが、しかしそれでもなお、彼の著作を「文学」という幻想ではなく、実人生を生きるための「哲学」の書として読むために必要な心構えとでもいったものを、この『悲劇の誕生』が教えてくれている気がするからだ。

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ニーチェ『悦ばしき知識』 不都合な哲学


 追記。このところ、更新が滞っておりました。それにもかかわらず、足繁くご訪問頂いた皆さん、申し訳ございませんでした。現在、見事に失業者となってしまった私ですが、そのためにブログも書けないほどヘコんでしまっているのかというと、そういうことではありません(確かに、少々メゲており、不眠症気味ではありますが)。ちょっと、いろいろなことに中途半端に手を出して、収拾がつかなくなっているだけです。本は読んでおりますし、記事を書いてもおります。ただ、なかなか捗りません。そしてこんな状況は、もうしばらく続きそうです。ですので、「あ、そういえば静磨のヤツ、まだ生きてんのかな、そろそろヤバいかな」などと思ってくださった頃に、ちょろと様子を見に、という感じでお越し下さいませ。
それでは、また。

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『悦ばしき知識」

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)
(1993/07)
フリードリッヒ ニーチェ

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不都合な哲学

 巷では、『超訳ニーチェの言葉』なる本が、売り上げを伸ばしているらしい。ニーチェ関連の書籍に「売れてます」の札がつく、というのはどうも違和感があるので、ネット上のレビューなどを少しみてまわった。

 するとそこには、「生きる勇気をもらった」だとか、「人生観が変わった」だとか、よくある自己啓発本の感想みたいな言葉が並んでおり、私はまた違和感を覚えた。なんだかおかしい。

 多分、こういう本を買う人は、ニーチェに初めて触れる人だろう。そういう人たちが彼の言葉を知って、「元気づけられました」とかそんな類いの感想を、はたして本当に覚えることができるものなのか、私には大いに疑問だった。

 私の「初めてのニーチェ体験」は、全然違うものだった。きっかけは、まだドイツ文学に興味を抱きはじめて間もない頃に、ヘッセの『車輪の下』のはじめのほうで、

 「ここでは、ツァラツストラのことばを知らなくても、教育のある人間として暮らしていけた。」

 という一文を読み、ああ、ツァラツストラっていうのを読まないと教育ある人間とはいえないのか、と合点し、早速本屋で岩波文庫版のツァラツストラを買ってきた、というところだ。で、読んでみての感想はというと、私の当時の日記によれば、「哲学者というのは口うるさい」というものだった。

 ようするに、よくわからなかったのだろう。いきなりツァラツストラはやめたほうがよさそうだ、と現在の私ならば、当時の私にアドバイスもできるのだが。まあ、全くわからなかった訳でもなく、幾らかは理解できた部分もあったのだが、それも、当時の私には気に入らなかった。ひどい逆説家だと思った。わざわざひとの気に障ることをいって喜んでいるようにしか思われなかった。

 当時の、つまり十代の私は、絶対善、というものの根拠が、きっとどこかにあるはずだと信じていたのだ。唯一の神様、というよりは、新プラトン主義の「一にして善なるもの」らしき考え方が、一番私にはしっくりくる世界観ではなかっただろうか。勿論、プロティノスやプロクロスなどは、名前すら知らなかったが。だから、ニーチェなどはお気に召すはずはなかったのだ。

 で、その後、カントを少しかじり、ショウペンハウアの『意思と表象としての世界』を読むに至って大いに驚嘆し感動し、それまでの、その疑似新プラトン主義を全否定するまでは(今では全否定まではしていませんが)、ニーチェを読もうという気にはなれなかった。そのせいで、私は二十歳を過ぎるまで、ほとんどニーチェを読まなかったのだ。

 自分のニーチェとの出会いがこんな具合だったので、この『ニーチェの言葉』なる本の受け入れられ方に、私は首を傾げてしまったのだ。皆さんホントに、彼の言葉に素直に頷くことができるんですか、と、もう少しあれこれ調べてみると、どうやらこの本、ニーチェの入門書的なものではないらしことがわかってきた。

 私はこの本を読んでいないので何ともいえないが、つまりは、ニーチェの言葉から、現代の自己啓発本みたいなものを選びとって、それを集めて一冊にしたと、そういうことなのだろう。だからその反応も、自己啓発本の感想みたいなものになる訳だ。しかし、こういうやり方は、どうなのだろう。

 もしもニーチェの思想を、この現代日本においてそのまま実践したとしたら、多分、その人は少なくとも普通の社会人とは看做されない人物になってしまうはずだ。そう考えると、とても、こんな「一般受け」する本など作れないはずではないだろうか。

 だとすれば、これはニーチェの思想の「都合の良い」ものだけを、自分勝手に解釈した本だ、ということになる。勿論、単に翻訳するだけでも、そこに翻訳者の恣意が入り込むものだ。しかしだからといって、「売れる本」に仕立て直してよいということにはならない。少し乱暴な言い方をすれば、これでは、目的は違うがやり方はナチスと同じではないか。

 あるいは、私の考え方、ニーチェ観が、的外れなのだろうか。その可能性もある。不安になった私は、書棚から一冊、ニーチェを抜き取る。盲滅法に選んだその一冊が、『悦ばしき知識』だった。私は、彼の思想の「不都合な」部分、即ち現代社会を生きる者にはどうにも賛同しかねるような、そんな言葉をこの本から拾ってみることにした。

 勿論、ことさらにニーチェを「不都合な」哲学者に仕立て上げることもまた、その反対と同じく本来避けるべきことだ。それを承知のうえで、自分のニーチェ観を今一度確認するために、また、『ニーチェの言葉』を読んで彼の哲学に興味をもった人が、本格的に彼の著作を読んでびっくりしないよう、「彼にはこんな面もありますよ」という紹介にでもなれば、ぐらいの感じで、ざっくりやってみよう。


 「神様がどこででも御覧になっていらっしゃるって、本当なの?」と幼い少女が母親にたずねた。・・・「でもわたし、そんなのひどいと思うわ」、・・・哲学者のとっての警告だ!

 愛は恋人に欲情さえもゆるす。

 弱者の強み。・・・すべて女たちは、自分の弱さを誇張することにかけては巧妙なものである。

 男の本性は意志で、女の本性は応諾である。

 「この子をどうしたらいいでしょう?」と彼は尋ねた、「これは見すぼらしくて、不具で、死ぬほどのいのちすらないといったざまです」。「殺すのだ」、と聖者は怖ろしい声で叫んだ、(中略)「子供を生かしておく方が、もっと残忍なことではないか?」

 笑いというのは、良心の呵責もなしに他人の不幸を喜ぶことだ。

 認識に遅鈍な者たちは、遅鈍も認識の一部だと考える。

 「善といい悪というも、神の先入見である」、・・・と蛇は言った。

 かつてはこれとは事情が逆であった。労働には、良心の疚しさがつきものであった。(中略)「高貴と栄誉は、ただ閑暇と戦闘のもとにのみある」・・・これこそ古代の先入見の宣言であった!

 それがどうした? 一体おれの書いたものを誰が読む?



 いや、何度もいいますが、ニーチェにはこういう面もありますよ、という見本であって、これが彼の正体だ、などといっている訳ではありません。しかしこうして抜き出してしまうと、実にひどい哲学者だ、という感じがしてくる。これは、つまりが「恣意的な抜粋」というものが、読者の印象を操作してしまうことのひとつの例証になるのではないだろうか。 

 ニーチェの哲学というものは、はっきりと体系化されていない分、いかようにも解釈し得る余地を残しており、それが全体の理解を困難にし、そして都合の良いように理解されてしまう危険を孕んでいるのだと、私は思う。だから、彼の哲学とは、学校や「ダイジェスト版」で学ぶべきものではなないし、それのみならず、彼の著作をただ読んで知るべきものですらないと私は考える。

 うまくいえないが、多分彼の哲学は、「経験」すべき哲学なのではないだろうか。我々の実人生から生み出されたものが、彼の哲学と向き合うとき、それが肯定的なものであるか否定的なものであるかにかかわらず、初めて、我々は彼の「生の哲学」のはかり知れない価値を見出せるのだと、そしてそれは「解釈」ではなく「経験」なのだと、今の私は思っている。

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