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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『わが闘争』その4

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
(1973/10)
アドルフ・ヒトラー

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マトモでないヒトラー

 一般論を展開し、読者に自分の持論を受け入れる用意をさせたヒトラーは、次第に、その危険な本性をあらわしてきた。『わが闘争』の上巻をまもなく読み終えようというところで、私は、そんな印象を抱いた。つまり、ヒトラーの犯罪的屁理屈、あるいは我々がナチズムと呼ぶところのものが、いよいよ正体をあらわしてきた、ということだ。

 何よりもその「民族と人種」と題された、分量の多い章において展開される、ヒトラー一流の反ユダヤ主義は、単に歴史的惨劇の理論的背景となったというに留まらず、これから起こり得る同様の狂気、さらには今現在起こっている馬鹿げた出来事を考える上で、非常に重要なものを含んでいると思われる点で、重要視し過ぎることはないと私は考える。

 (さらにいってしまうならば、今、3月11日の震災によって、あまりにも多くの失われるべきでない命を失いつつも、救える命を救おうと多くの人々が懸命に努めている真最中にあって、かつて組織的論理的に多くの人間の命を奪うことを、国家的事業として大々的に行われたことを思い、そしてその双方ともが、同じ人類によって為されているのだということを考えることは、決して意味のないことではないと私は思う。)

 そのめちゃくちゃな理屈は、その前の「崩壊の原因」の章にも、すでにあらわれる。ひとつ、例を挙げてみる。ヒトラーは、民族を弱体化する病気であるところの「梅毒」を、撲滅すべき病気であるとして、その方法についての自身の考えを展開する。

 簡単にそれをなぞってみよう。まず、梅毒の温床であるところの売春を、撲滅すべきだとヒトラーはいう。そのために、早婚が奨励される。若者が性のはけ口を娼婦に求めないためにだ。社会制度も、早婚を可能にする形に整えらえるべきだし、また、青年の健康的な発育も必要で、そのためにと、運動も奨励される。また、青少年の精神に害を与える書物や映画などは禁止されるべき、とされる。

 ヒトラーはさらにいう。民族の発展こそが究極の目的であり、その前にあっては、性欲の自由な発露などは決して許されるべきものではなく、結婚ですら、それ自体が目的であってはならず、あくまでも民族全体のためのものでなくてはならない。よって、不治の病に罹った者は、子孫を残すべきではない。それは民族の弱体化につながるから。

 何やら社会正義的な論調から、彼の理屈が一体どこに行き着いたか、我々は注意すべきだろう。ようするにヒトラーは、「反社会的」だと判断される芸術は禁止されるべきで、病弱な者、身体に障害をもつ者は、子孫を残す権利などない、といっているのだ。後日、ナチはこの考え方に則り、言論弾圧や、身体障害者虐待あるいは虐殺を実際にやってのけた。

 こんな調子で彼は、いよいよ「民族と人種」」の章に進んでいくのだが、そこでさらに我々は、ヒトラーの悪魔的詭弁をみせつけられることになる。その表題から想像できる通り、ここで彼は、アーリア人種の優秀さと、ユダヤ人種の劣等性を論じ、そこから帰結される自身の人種差別主義を正当化し、証明しようと試みている訳だが、その主張の根拠とされる、彼の所謂「自然の摂理」というものからして、もうすでにあやしい。

 それはようするにダーウィニスムの誤用、というよりは最低の悪用、というべきものだ。ヒトラーがそれを意識的にしているのかそうでないのかはわからないが、どちらにせよ、自分の理屈の都合に合わせて勝手に解釈していることは、一読して明かだ。

 ヒトラーは、自然界においては「強く優秀なものが生き残り、繁栄する」のだ、としているが、これがもう間違っている。ダーウィンが唱えたのは「適者生存」であり、「強者生存」ではないのだ。

 もし「強者生存」だとしたならば、サバンナで生き残るのはライオンだけ、ということになる理屈だが、実際は決してそんなことにはなり得ず、反対にむしろ、捕食者たちが全て滅んで、力の弱い草食動物たちが生き残る、ということの方があり得るといえる、というのが本当のところだ。

 ようは、生態系の法則としての「弱肉強食」と、進化論における「適者生存」をごたまぜにしてしまうと、こういう拙劣な誤解が生じるのだろう。そしてその誤解をヒトラーが論拠としてしまっている以上、彼の人種論はもう信用ならないことが証明されてしまった訳だが、もう少し、彼の話を聞いてみよう。

 誤解か悪用かはおくとして、ともかく「科学的」に始められた彼の人種論だが、何やら唐突に、「アーリア人」が登場する。ヒトラーは、この「アーリア人」というものをを「科学的」に定義しないまま、論を進めていく。だが実際には、この「アーリア人」という名前のもとに分類される民族というものを、ヒトラーのいうところの「ドイツ人」と関係づけるためには(そんなことが可能だとして)、大いに議論する必要があるだろう。

 そしてその「アーリア人」が、「唯一の文化創造者」であると、ヒトラーは主張するが、その具体的な例をひとつとして挙げることはない。そしてその対極として位置づけられる「ユダヤ人」についても、彼のいうことはどうも見当はずれだ。

 彼は「ユダヤ人」とは「ユダヤ民族」だと主張する。つまり、それはある「宗教共同体」に属する人々の総称ではなく、あるひとつの民族のことだというのだ。勿論、そうでなくては彼の人種論がそもそも「人種論」として成り立たなくなってしまうのだが、実際は、彼にとっては残念なことに、「ユダヤ人」という言葉はほとんど「ユダヤ教徒」と同義であり、「ユダヤ民族」などという人種はそもそも存在しない(これは日本でもよく誤解されている点ではあるが)。

 だから、ここでももう前提からしてすでに、彼の「人種論」は破綻してしまっている。しかし、前提が違っているからその理論の全てを否定する、という立場では、ルソーの主張する、社会契約による民主主義というものの正当性も、彼が前提とする「自然状態の人間」というものの姿が、現代の人類進化学だの類人猿学だのに、ことごとく否定されるであろうという事実をもって否定されてしまうことになる。

 それを承知のうえでなお、『人間不平等起源論』を価値あるものと認めるのならば、やはり、この『わが闘争』も、それなりに扱ってやらなければ不公平、というものだ。よって私はその後の彼の主張をもひと通り読んだのだが、それについて詳しく批判的に論ずることは、ここで敢えてしようと思わない。

 とにかく、自分にとって都合の悪いもの、自分の主張に合わないものは、それが民主主義だろうと、資本主義だろうと、マルクス主義だろうと、全て、彼の所謂「ユダヤ的」なものであり、「ユダヤ民族」の世界征服のための陰謀の産物だと、何の証拠も挙げることなく断定し、「ユダヤ人はエゴイストで寄生虫だ」と悪態をつくような彼のいい分は、もうマトモに扱うことなどできないようなシロモノだからだ。

 勿論ここでも、私はこの書物がもたらした惨劇、という歴史的結果によって、この書物を否定しようとは思わない。しかし、このメチャクチャな独断論に充ちた書物の影響が、あのような全世界的惨劇、すなわちあの未曾有の世界大戦や、信じ難いような大量虐殺の、発端のひとつとなり得たのだということ、このことは、大いに注視したい。

 こうして無理矢理「敵」をつくりだし、そしてその「敵」を貶め、蔑むことによって、苦境にある自国の民衆の自尊心を刺激し、甘言をもって籠絡する、という手段をもって、ひとつの共和国から独裁者が誕生したという事実。あれほどに高度に洗練された文化の担い手であったはずの人々が、時と場合によってはこんな馬鹿話にいいくるめられてしまう、ということの恐ろしさ。これらのことを、私は特に重要視したい。

 我々は3月11日の震災によって、全く予想もできなかった形で、国家的なダメージを負ってしまった。この先の復興事業は、もしかしたら想像以上に困難なものとなる可能性がある。そんなとき、全国民が同じ方向を向く、ということもあるいは必要なのかもしれない。

 しかしその「意志の統一」が、排他的な国粋主義や、それに伴う謂われのない外国人蔑視、あるいは偏狭で画一的な愛国主義の社会的強要や、それに異を唱えることをすら許さない頑迷な正義観の蔓延などによって、協力的であるよりは暗黙のうちの強制によって為されるのだとしたならば、例え一時的には復興やそれ以上のことを成し遂げられたとしても、その先に待つものは、決して明るいものではないだろう。

 ヒトラーは、決して単なる狂人ではない。このブログでも何度かとりあげているが、その社会だの政治だの民衆だのに対する観察眼、そしてその分析能力は、実際なるほどと思わされるものがある。そういうときの彼は、あるいはよい政治家になる素質をもった、社会的に有能な人物だといえたのかもしれない。

 しかしその彼が自説に固執するとき、論理的だったはずの彼が、がらりと様子を変え、非論理的で感情的な、どうしようもない独断論者になる。そのマトモでないヒトラーの姿こそは、実は歴史に残る最悪の独裁者の姿だということを、我々は忘れるべきではないだろう。感情的、無批判的になるとき、ひとは容易に狂気へと近づいていってしまうということ、このことを、我々は彼の姿から、知ることができるのではないだろうか。

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『わが闘争』その3

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
(1973/10)
アドルフ・ヒトラー

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ヒトラー式」宣伝術について

 第一巻の第六章は「戦時宣伝」と題され、プロパガンダというものの実際について、語られる。ヒトラーの悪魔的天才が語られるとき、彼のこの分野での才能について、触れられないということはない。この章は、他の章と比べて分量的にはとても小さいのだが、その内容は簡潔、明確であり、さすが、と思わされる。しかもそれが実践され絶大なる効果を証明した、となれば、嫌でも注目せざるを得ない。本当は第一巻を全て読み終えてから、何か書こうと思っていたのだけれど、この章についてだけで、少し書いてみることにした。

 第一次世界大戦におけるドイツの戦時宣伝に、ヒトラーは苦言を呈する。それは、ようするに全然だめだったのだといい、敵国、特にイギリスの戦時宣伝を絶賛する(天才的、という言葉さえ使って)。もうほとんど、この宣伝の差によって、ドイツは敗北したのだといいたげな論調が、ずっと続いていく。

 ドイツの何がだめだったのかというと、もう根本的になってなかった、ということらしい。即ち、宣伝というものは手段か目的か、といえば勿論手段なのであり、だとすれば当然それは目的にかなう形でなくてはならないのだが、ドイツではそのことすら理解されていなかった、と、彼は嘆いてみせる。では、どうすればよかったのか。順を追って、彼の「戦時宣伝論」をみてみよう。

 まずはその、「目的」とは何か、といえば、「ドイツ民族は、人間的存在のための闘争を戦った」のだから、「その闘争を援助することが、戦時宣伝の目的であったはず」だという。そしてその宣伝は、誰に対して行われるべきか、というと、彼は、「学識あるインテリゲンツィア」に対してではなく、

 「宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである!」

 と、改行し、ビックリマークまでつけて断言する(多分原文もそうなっているんじゃないかと見当をつけて書いています)。知識階級の人、あるいはそれを自称する人々には「学術的教化」というものがあり、宣伝は不用だという。第三章において、政治には大衆の支持が不可欠であることを力説していた彼としては、これは当然すぎることだろう。

 それが大衆に向けられるべきものである以上、その知的水準は、大衆のなかの最低級のものが理解できる程度に合わせるようにし、ことに戦争貫徹を目的とする宣伝の場合には、高い知性を前提とするものは可能な限り避け、知性よりはむしろ大衆の感情に強く訴えることが考慮されるべきで、この点において宣伝というものは評価されるのであり、「二、三の学者や美学青年を満足させたかどうかではない」のだ、そうだ。

 で、技術的には、大衆というものは「受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」ものなので、要点をうんと絞ったスローガンのようなものを、継続的に宣伝する必要がある、という。

 そしてその内容は、全ての問題に対し、「原則的に主観的一方的な態度」が必要だとする。これはつまり、戦争の責任は自国だけにあるのではない、というのではなく、全ての戦争責任は敵国にあるのだ、というべきだ、ということだ。ヒトラーはいう。

 「ある新しい石けんを吹聴しようとしているポスターについて、そのさいまた他の石けんも「良質」であると書いたなら、人々はなんというだろう?」

 そして民衆というものは、「冷静な熟慮よりもむしろ感情的な感じで考え方や行動を決めるという女性的性質を持ち、女性的な態度をとる」ものとし、よって「最も簡単な概念を何千回もくりかえすことだけが、けっきょくおぼえさせることができる」のだ、という結論を、ヒトラーはひきだす。

 ヒトラーの、この大衆というものへの理解と、それに基づいた方法論が、全く正しかったということは、歴史が証明する。確かに、彼は天才的な政治家、あるいは民衆煽動者だった、ということだろう。だがこのヒトラーの手法は、我々にとって実はとてもなじみ深いものだとはいえないだろうか。

 「女性の時代」とかなんとか耳障りのいいことをいって、まさしく女性をターゲットにして、シンプルで理解しやすい表現の、しかし具体性よりは感覚的イメージの向上を狙ったキャッチコピーで、宣伝というよりは喧伝といったほうがいいような、そんな商品コマーシャルは、それこそ世にあふれており、そして我々はそれを当り前のものとして何の疑いもなく受け入れている。

 だがそれは、我々が「ヒトラー式」の宣伝の効果に、あっさりと左右されている、ということを意味する。勿論、それが商業広告の範疇に収まっているぶんには、大した害はないだろう。あったとしてもせいぜい、ニセモノや粗悪品を掴まされるか、最悪でも、詐欺にひっかかるぐらいのものだ。しかしその方法が、たとえば報道に応用されたとしたらどうだろうか。

 実際現代のマスメディアというものは、企業のスポンサードに大きく依存しており、それはテレビやラジオのみならず、新しいメディアであるインターネットも例外でないことはいうまでもない。それは即ち、企業の思惑と、メディアを利用した報道というものが、極めて近しい関係にすでにある、ということを意味する。ならば、企業の「ヒトラー式」が、報道の場に持ち込まれることは充分あり得るし、それを防ぐものは、ただ報道関係者の良心があるばかりだ、ということになる。

 そうした事態になれば、まさに現代の企業が商品を売る、それと同じ方法で、報道によって世論は操作されることになる。我々が、企業のコマーシャルにほとんど疑いらしい疑いを抱かぬままに、商品を選択し購入する、まさにそれと同じように、ある恣意的に形作られた世論の担い手になってしまうのだ。

 だとするならば、ときの政府なり、政権与党なりが、同じく「ヒトラー式」を使用したとしたならば、やはり我々は彼らの思惑通りの国民になってしまう、ということではないか。まるで、ナチス政権下のドイツ国民のように。そしてこの場合も、これを防ぎ得るのはただ、為政者の良心だけだ。

 勿論我々は、独裁政治や偏向報道というものの危険性を、当時のドイツ人よりは、歴史から学ぶ機会を与えられている訳で、少なくとも企業のコマーシャルと同様にそれらから影響を受けてしまう程には、無批判ではない(と信じたい)。特に我々日本人は、悪くいえば盲目的に民主主義というものを信奉しているので、それに反するものを盲目的に拒絶する、という逆説的な防御力をもっている。

 あるいは、ヒトラーがこの章のなかでいう「ドイツ人の客観性気違い」というものが、やはり日本人にも一般にみられる、というもの、この場合よいことなのかもしれない。これは、自国の置かれている状況を、ただ自国の利害の観点だけからではなく、他国との関係の内に「客観的」に観て、悪くいえば他国の顔色をうかがいつつ、自国の方針を考える、といったところのものだ。

 これは勿論、戦時には足枷にしかならない。ヒトラーのいう通り、戦争とは純粋な生存競争でしかないものだからだ。しかしこれは、戦争を誘発する行為の抑制、そして自分勝手な国益のみを(つまり権力者の利益のみを)追求する独裁政治の発生の抑制にも、大きな役割を果たし得る。日本人の自信のなさにも、それなりによい点はあるのだ。

 だから、政治的プロパガンダが、例え「ヒトラー式」に行われたとしても、第二次世界大戦前のドイツのようには、もしかしたらこの日本では簡単にはいかないのかもしれない。しかし前述したように、「ヒトラー式」の企業コマーシャルに、我々が見事に乗せられつつ、日々消費活動を行っている、ということもまた厳然たる事実なのだ。

 ここで問題にされるべきは、やはり我々大衆自身だろう。どんな形であれ、ヒトラーの透徹した大衆観察眼と、その結果生まれた「ヒトラー式」プロパガンダが、いまだに通用する、ということは、他ならぬ、我々大衆が、本質的には百年前と変わっていない、ということだからだ。

 つまり、あれほどの戦渦、あれほどの惨劇、あれほどの愚かしさを知りながら、我々はいまだに、ヒトラーの言を借りるならば、受容能力は限られ、理解力は小さく、忘却力は大きく、感情的に考え方を決め、鈍感で、鈍重な「大衆」であることから、抜け出せていないのだ。このことこそが、いまだに世界中で独裁者諸氏が現役で活躍している現状を、終わらせることができずにいる原因だし、さらには、将来の独裁政権の樹立を否定しきれないことの原因でもあると、私は思う。

 独裁政権を打ち立てるような連中は、実際頭はいいのだろう。だからこそ、我々は多くを学ぶ必要があるといえる。よい読書は、そのための小さからざる一助となり得ると、私は信じる。そしてこんな過疎ブログにも、皆さんに本を紹介させていただくことぐらいに限られるとしても、何らかの役割はあるんじゃないかと、私は思っています。自信はないけれど。

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『わが闘争』その2

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
(1973/10)
アドルフ・ヒトラー

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我々はヒトラーに反論できるのか

 この本、他にも一冊同時進行で読んでいるせいもあるが、なかなか読み進められずにいる。ようやく、第一巻の第三章までを読んだ。ここでどうやら、この本の主人公は、長らくその舞台だったヴィーンを離れ、ミュンヘンに向かってしまうようなので、私も一区切り入れて、ここまでのところで感じ、想ったことなどを書いてみることにしよう。無論、自分の考えをまとめて、今後さらに読み進めるための助力とする、という意味も兼ねて。

 この本を読むにあたり、私は次の点に気をつけるよう努めているつもりだ。即ち、この本の思想と、それに基づいた政策の結果が、いうまでもなく史上最低最悪のものだったという、その事実をもって、この書物に語られることを否定することは「しない」、ということだ。

 それは反則だと、私は思うからだ。ヒトラーの主張に対し、「そんなこといったって、お前のいう通りにしたら、国が滅んじまったじゃないか」と我々がいい得るのは、彼よりも未来に生きているから、というだけのことで、その立場で彼を否定するのは簡単であり、しかも意味のないことだろう。

 この書物における彼の言説だけをみて、それを批判的に判断することこそ、我々にとって有意義なことだし、彼に対しても公平だと、私は信じる。そしてそうあってこそ、この読書が、独裁政治、恐怖政治に対抗する何かを得る手段たり得るとも、私は信じる。

 1889年にブラウナウで生まれたヒトラーが、1908年に単身ヴィーンに移り住み、1912年にそこを去るまで、つまりその少年時代から二十歳を何年か過ぎるまでに、経験し、学び、考えたことを、彼はこの最初の三章に綴っている。

 読み始めてみて、最初に抱いた印象としては、意外にマトモなことが書いてあるな、ということだった。もっとめちゃくちゃな屁理屈だとか、他国や他民族に対する雑言がずらずらと並べられているような、そんな書物だと思っていたのだが。正直にいえば、なるほど、と思わされるような箇所も少なくはなかった。

 例えば当時のヴィーンにおける、非正規労働者の問題についての彼の見解は、現代の日本でいわれるところの、同じく非正規労働者の問題についてにもそのまま当て嵌めることができるような、正論といってしまってもよいものだと私には思われた。勿論それは反論することも可能なものではあるけれど、しかし反論不可能な理論などあり得ない。

 ただ、その「正論」とは、つまりが20世紀初頭のオーストリアの社会情勢についてほとんど何も知らない私などが、「なるほど」と思えてしまい、そして現代の日本にもそのまま応用できてしまえるような、そんな「一般論」にすぎないのだ、ということもできる訳だ。

 そして、そうした一般論、即ち一般に理解されやすく、受け入れられやすい理論をまず展開するところに、この書物の巧妙さがあるのではないだろうか。一般論で人の心を惹きつけておいて、そこで自説を展開する、そうした手段で、彼は自分の思想に読者を取り込んでいくのだ。まるで、世間話で親密になってから、おもむろに生命保険の売り込みを始める、そんな具合にだ。読者は、その前提たる一般論の正しさに同意している以上、彼の理論にも同意しやすい心理状態になっていると、そういう訳だ。

 だから我々としては、明らかな差別主義的暴言だとか、感情的なまでの自己弁護などよりも、彼がもっともらしいことをいっている時にこそ、気をつけるべきなのかもしれない。もうひとつ例を挙げると、彼が議会制民主主義について語っている箇所などは、どうだろうか。

 この当時のオーストリアの政治制度への、彼の否定的見解は、またしてもそのまま、現在の日本の議会制民主主義にも見事に当て嵌まる。我々は彼の批判に、どう対するべきだろうか。

 具体的にいうと、彼は、議会制民主主義の弱点として、だいたい次のようなことを挙げている。(原文そのままではありません。要約してあります。)

・ 議会の決議が、「非常にとんでもないもの」であっても、誰も責任を問われない。なぜなら、責任というものは個々の人物の義務感の中にだけあるもので、多数者即ち「議会主義的おしゃべり同盟」のなかにはないから。(第三章「責任の欠如」他)

・ 最後の決定権は政府にではなく、議会の多数者にあるため、政府も責任は問われない。そして政府は統治者の地位から、その時々の多数者に対する「乞食」にまで転落する。(第三章「多数決の原理」)

・ 才知があるとはいえない全ての選挙人の投票用紙からは、本当の政治家が同時に百人も生じるなどど希望的にも考えるべきではない。大衆が天才に対する嫌悪というものは本能的なものだから。(第三章「多数決の原理」)

・ 解決されるべき諸問題は多様で、その領域は広範に渡るのに、その全てに精通しているような天才的政治家などは稀である。よってその内のごく少数の人間だけが知識や経験をもっているにすぎない大集会に、最後の決定権をあたえる、ということにならざるを得ない。(第三章「多数決の原理」)

 他にもいろいろといってはいるが、とりあえずこんなところにしておこう。彼は見事に議会制民主主義の欠点を射抜き、しかも簡潔にそれを論証している。今現在、日本の国政に携わる者で、もし知的誠実というものを失っていない者があったとするならば、彼の指摘の正しさを、他ならぬ自分自身が証明してしまっていることを否定できないだろう。

 しかしヒトラーは、議会制民主主義の弱点を指摘し、それを克服するために、何を主張しているだろうか。彼はいう。この世の進歩はひとりの(天才的)人物の頭脳に基づくのであり、多数の頭脳に基づくのでないと。百人のバカものからはひとりの賢人も生まれず、百人の卑怯者からはひとつの豪胆な決断も生まれないと。つまり彼は、議会制民主主義は、衆愚政治に陥りやすいが故に誤った制度であり、時折にしか現れない天才的な政治家による、賢人統治のほうがよい、といっているのだ。この主張の持つ恐ろしい意味については、最早いうまでもないことだろう。

 我々がもし、ヒトラーによる独裁政治よりも、我々の議会制民主主義の方が、少なくとも制度的には優れているのだと信じるのならば、当然、彼に反論できなければならない。だが、それは我々の制度の強味や利点などを並べ立てる、という方法では不可能だろう。なぜなら、その強味だの利点だのが、上述の通り、単なる机上の空論であることを、我々の政治が証明してしまっているからだ。

 ならばどうすればよいのか。方法はただひとつ、我々の議会を、ヒトラーの指摘が正しくないものであることを証明し得るような、そんな議会にするということ、これだけである。上で、私は彼の主張をよっつ、箇条書きにして挙げた。とりあえずそれの正当性を否定するためには、どうしたらよいだろうか。

 彼はつまり、議会というものを、愚かな大衆が選んだ、才能のない代議士の、無責任な集会だといっているのだから、そうでない議会にすればよい訳だ。私はなによりも、「無責任」という言葉を重視したい。

 そう、民主主義国家である以上、国政について責任を少しも負わない有権者などは、本来日本にはひとりもいないのだということ、その事実を我々は、あまりにも等閑にしてしまっていないだろうか。

 もし、国会において悪しき法案が可決してしまい、結果社会に不都合が生み出されてしまったとしたならば、その責任は誰にあるだろうか。まずは勿論、政権与党だろう。法案を提出し、議席の多さによって可決させたのは彼らなのだから。では、野党はどうか。彼らにも責任はある。なぜなら、国会における全ての決定は、与党の決定ではなく、国会の決定だからだ。つまり、国会の全ての決定について、全ての国会議員が責任を負うのだ。このことを、どうも昨今の政治家諸氏は勘違いをしていないだろうか。

 では我々一般国民はどうだろう。我々にも勿論責任はある。我が国の主権は国民全体にあり、議会や政府にあるのではないからだ。国会議員の失態の責任は、彼らを選出した国民全体にある。誰を支持し、誰に投票したのかにかかわらず、全員にだ。なぜなら、選挙の結果とは、当選者の支持者の意思ではなく、有権者全体の意思だからだ。よって、その結果については、有権者全員が責任を負うのが当然だろう。我々国民もまた、このことについて勘違いをしていないだろうか。

 そうだ、我々は本当に、自分の利害のためではなく、よい政治のために議員を選出しているだろうか。そしてよい政治とは何なのか、それを学ぶことを怠ってはいないだろうか。もし、その我々の怠慢が我々の議会を、ヒトラーのいう通り「衆愚政治」の場にしてしまっているのだとしたら、それは、ヒトラーの自説弁護のための屁理屈を正当化してしまう、という意味において、民主主義への裏切り行為だといえるのではないか。

 民主主義とは本来、国民に政治への積極的な参加を求める、という意味で、国民に大きな責任を負わせるものなのだ。我々がその責任を回避するのならば、我々には、自国の政治に文句をいう資格は勿論、ヒトラーの恐怖政治に異議をとなえる資格すら失うのだ。

 と、なんだかひどく抽象的で理想主義的な政治論になってきてしまったが、少なくとも、この読書によって、私は今一度、民主主義ってなんだろう、という根本的な問いかけを、自身に向けて投げることができた訳だ。うん、やはり「『わが闘争』を読む今日的意義」なるものはあるようだ。さらに、読み進めてみよう。

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『わが闘争』その1

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(1973/10)
アドルフ・ヒトラー

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歴史に学ぶということ

 数年前、この本を最初に書店の棚にみつけたとき、今この現代の日本において、この本を読む意義というものが果たしてあるものなのか、率直にいってそんな疑問を抱いた。有名で優れた書物が、政治的なプロパガンダに利用される、ということはよくあることだ。しかし、そもそも始めからプロパガンダのために書かれ、しかもそれが歴史というものにこれほどに影響を与えた、という例は、そうは見出されない。

 しかしそれは、反対にいうならば極めて限定的な目的のために特化された書物だ、ということをも意味する。そう、どんなに優れたものでも専門書というものが門外漢には全く役立たないものであるように、ヴェルサイユ体制から第二次世界大戦の時代のドイツ語圏に暮らしている訳ではない我々にとって、この本は何かの役に立つのだろうか、というのがつまり、私の疑問だった。

 だが、読んでみる価値があるのかないのか、それをはっきりさせるには、無論読んでみるという以外に方法はない。そしてあの輝かしい、多分近代以降に限っていうならば、間違いなく世界一優れた精神史をもつ人々の国が、どうしてよりによって最悪の独裁者に国政をまかせるに至ったのか、そのことについては前々から興味があった。この本がその鍵のひとつを握るのは、多分確かなのだろう。私は厚めの文庫本二分冊のこの本を、レジに持っていった。

 例えば、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺。一体どうしてこんなことが可能だったのか、それを知るためには、ドイツ人が、とか、ユダヤ人が、とか、そういう文脈のなかで考えるべきではないと私は思っている。これは原爆投下だとか、南京虐殺だとかも同じことだが、少なくとも「歴史に学ぶ」という姿勢に自らを置こうというならば、「人間が人間に対して」行った行為、としてみるべきではないだろうか。

 あるひとつの歴史的事件を、ある特定の時代背景の影響化における、ある特定の国民によるものとして、一回的で限定的な出来事と捉えることも、勿論大切なことだ。それは歴史というものの流れを、でき得る限りありのままに正確に掴もうというときには、決して忘れてはならない姿勢だといえる。

 全ての出来事とは、その時、その場所でしか起こり得ないものとして起こったのであり、そしてその出来事の連なりこそが歴史というものだからだ。あらかじめ用意された抽象概念に、出来事を当て嵌め、分類してしまうことは、歴史を取り扱う正しい態度だとは私は思わない。同じ市民革命でもフランス革命はフィリピン革命とは違うし、同じ戦争でも、ポエニ戦争はベトナム戦争とは全く違う原因や性質をもっているのだから。

 しかしその一方においては、我々がフォークランド紛争の当事者でないからといって、あらゆる戦争や、戦争の可能性と無関係だ、ということにはならない。歴史から教訓を学ぼうという者は、今度は逆に個別の出来事をできる限り普遍化する必要がある。「人間が人間を」というのはそういうことなのだが、ナチのホロコーストのような歴史的犯罪については、特にそうだといえるだろう。それはドイツ史ではなく、人類史に刻まれた傷なのであり、我々はその傷を負った歴史の積み重ねの上に生きている。ドイツ人も、日本人も、アメリカ人も、イスラエル人も、誰でもが、だ。

 そう考えなければ、つまりそれを他人事だとして何も学ぼうとしないならば、我々はまたいつか大量虐殺をどこかで目撃することになるだろうし、核兵器の使用は正当化され続けるだろうし、自国の利益のために他国を侵略するだろう。あるいは、民主国家がひとりの独裁者の手に堕ちることもあるだろう。やはり、『わが闘争』は、今日的意味をもつものとして、我々の誰もが知っておくべき本だといえるのではないか。

 現在、国際的にみて残念ながら低調にあるといわざるを得ない我が国だが、最近の中東各国の情勢をみると、産油国の政変が、近い将来に、資源のない日本の産業や経済にとどめをさすことになる可能性は充分あるだろう。あるいはまた他の原因によるのかもしれないが、日本の国力がこの先さらに低下してしまう、ということが実際に起こったとき、さて、我々はどうするだろうか。

 一度は経済大国の名を世界に轟かせた我が国である、きっと、そうした凋落に、我々の自尊心は大いに傷つけられることだろう。多くの企業は海外資本に買収されるだろうし、インフレや高い失業率が庶民の生活を否応なく締め付ける。税収が激減して火の車の国家財政のもと、福祉、教育の水準は下がり、治安は悪化、世界は日本を破綻国家として評価する。

 我々にとって、これほどの屈辱があろうか。こんな事態に、我々は耐えられるだろうか。
いや、耐えられないだろう。雪辱に燃える国民感情が沸きあがるだろう。日本人は、こんな地位に甘んじていられるような「劣等民族」ではないと、誰もがそう思うだろう。「Japan as No.1」、そんな言葉さえ、かつては海の向こうから聞こえてきたことがあったのだ。

 そんなときに、ひとりの男が登場する。庶民階級の出身だという彼は、我々とともに歩み、我々とともに苦しんできた同志だ。彼は叫ぶ。「さあ、今こそ日本人としての誇りを取り戻そう。我々はかつて世界の頂点に立ったのであり、そして今なお、世界の頂点にあることが相応しい民族なのだ。」。国の危機に際しては、必ず、こういう人物があらわれるだろう。なぜなら、皆が潜在的に、そういう人物の登場を待ち望むようになるからだ。

 ならば、彼の声に耳を傾けない者があるだろうか。そして実際に彼が、その強力なリーダーシップをもって人々を導き、傾き泥にまみれたこの国を立ち上がらせ、かつての栄光ある「先進国」の座を目差して再び歩き出させることに成功したならば、我々は、喜んで彼の言葉に従おうとしないだろうか。そしてもし仮に、彼の対外的な部分での方法が、どうも倫理的にみて問題がありそうだな、と思ったとしても、勢いづいた経済成長や国力増強に水を差すことになるよりはと、少々のことなら眼をつぶろうとはしないだろうか。

 こうしたことは実際に起こり得ると、私は思う。いや、確かに実際に起こったのだ、あの屈辱的なヴェルサイユ体制の軛に、もがき苦しんでいたドイツで。ならば、これからの日本で同じことは起こらないと、一体誰がいえるだろうか。あの当時のドイツ人と、今日の日本人。総体として一体どちらが、世界情勢や自国の社会情勢を批判的客観的に、評価、判断する力をもっているのか、そんなことは誰にもわからないのだから。

 ということで、私はこの『わが闘争』を読み始めた。何回かに分けて、記事にしていきたいと思っている。

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