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『仕事と日』

ヘーシオドス 仕事と日 (岩波文庫)ヘーシオドス 仕事と日 (岩波文庫)
(1986/05/16)
ヘーシオドス

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働くということ

 ヘシオドスは、紀元前8世紀ごろの詩人、だという。ホメロスもそうだが、こんなに昔の詩が、その作者の個人名とともに現代まで伝えられているというのは、本当にすごいことだ。勿論、『神統記』や『イリアス』が、本当にヘシオドスなりホメロスなりの手に成るものなのか、あるいは、そもそもヘシオドスやホメロスという詩人が実在したのか、等々、確実なところはわからないのだけれども。

 しかし、こうして2700年も前の詩が伝えられ、しかもただ残っているというだけでなく、聖書と並んでその後の西洋文化というものに多くの影響を与え続たというところに、あちらの文化というものの奥深さを感じさせられる。あるいは、その頑固なまでの権威主義も。

 で、この『仕事と日』を読むにあたり、『オデュッセイア』だとか、『変身物語』だとかと同じようなものを読む気で読み始めてしまうと、拍子抜けさせられることになる。これは壮大な戦争絵巻だとか、神話物語だとかを謳ったものではなく、日々の生活の心構えだとか、処世術だとかを詩に謳った、よくいえばとても実用的で、悪くいうならばひどく下世話なものだからだ。

 それを承知で、というか、それを楽しむつもりで読むならば、これはとても面白い詩になる。まず私が興味深く思ったのは、あらゆる物事の神格化だ。古代ギリシアの宗教といえば、我が国の古代と同じく多神教であり、自然界の事象、たとえば、太陽だとか海だとか、風だとか雨だとかを、それぞれ神格化して畏れ敬う、という点では両者は共通している。

 しかしこのヘシオドスの詩では、例えば「妬み心(ゼーロス)」、「平和(エイレーネー)」、「飢え(リーモス)」等々、抽象概念までもが神格化されている。これは、我が国の神話にはあまりみられないものではないだろうか。

 他にも、「恥じらい(アイドース)」、「自信(タルソス)」、「奪う(パルクス)」など、挙げ始めたらきりがないが、それらが単に、何もかもを神様に見立てているというだけではなく、例えば「夜(ニュクス)」の子が「争い(エリス)」であったりなどして、神々の親子関係や婚姻関係などが、人々の価値観や世界観を見事にあらわす形になっているのだ。

 そういった意味では、所謂神話世界のオリンポス的秩序、というものが、即ちひとつの哲学体系といってしまうことも可能なのではないだろうか。いや、少しばかり言い過ぎな感じは私も我が事ながらしているが、ほとんど純粋なアニミズムであるといえる、我が国の「八百万の神」の世界に比べるならば、ギリシアの神話世界は、さすがに思弁的、哲学的だと私はいいたい訳だ。

 そうした世界観、道徳観のなかで、この教訓詩は展開される。そこでは、とにかくまじめにきちんと働くことが推奨され、そして働くうえでの実際的な方法についても語られるのだが、私は、ここでいわれる「働く」ということと、現代社会においての「働く」ということとの、ある違いに気づかされた。

 ここでの仕事とは、自分の土地を耕して収穫することであり、そして得た収穫物をどう扱うか、ということだ。決して、どこかの地主だの、商売人だののもとへ「働きにいく」ことではないのだ。私は、あのアニメ化されて有名になった、ヨハンナ・スピリの『ハイジ』のなかの一場面を思い出した。

 物語の終盤、おじいさんは、老い先短い自身を思い、他に身寄りのないハイジの将来を心配して、フランクフルトから来たゼーゼマンにいう。
 「(略)・・・この子がこのさき、他人のパンを、もらいにゆかなくてもすむようにしてやってくださいませんか・・・(略)」
 娘のクララのことで恩義を感じているゼーゼマンは答える。
 「ちかって申しましょう。お約束します。あの子には一生のあいだ、他人のあいだで、パンをかせぐようなことはさせません。・・・(略)」 (竹山道雄訳 岩波少年文庫)

 他人のところへ、生活の資を得るために働きにいくことについて、古代ギリシアのみならず、近代のヨーロッパにおいてさえも、どうやら現代とはまるで違う価値観をもっているようだ。彼らにとっての仕事とは、自分の、あるいは自分の家の仕事なのであり、他人の家に稼ぎに出ることを、卑しいことだと考えているのだろう。

 現代社会においては、農業も工業も商業も、皆大規模化してしまい、自営業の形でやっていくことは非常に困難であるし、また皆が皆自営業を営む、などということはほぼ不可能な状態ではあるので、この働くということについての古典的な考え方を是とするにしたところで、それをそのまま真似ることなどできない。

 だからこそそれは「古典的」、つまりは時代遅れな価値観とされるのだろう。しかし、我々がどんな形であれ、働く、ということについて少し冷静に考えてみよう、というときには、とても参考になるものだと私には思われる。

 なぜ働くのか。生活のために働く。生活が目的で、働くことは手段だ。だとするならば、自分の家で、自分の生活のために働く時、手段と目的とは同じものとなる。農作業だとか、店番だとかは、掃除洗濯などの家事一般と、わかちがたく結びつく。全ては、ひとつの時間軸のうえに割り当てられる。家族皆がそのひとつの時間軸のうえで、それぞれの役割をはたす。全てがそこで完結される。その生活は単純そのものだ。

 しかし我々のようにどこかの企業に働きにいく者は、家での生活のために、他所で少なからぬ時間を過ごすことになる。目的と手段とは分けられる。よってふたつの活動圏を行き来することになる。勤め先での自分と、自宅での自分、そのふたつを生きなければならない。そうなると、どちらに重点を置いたものか、時折わからなくなる。問われれば、生活のために働いているのだと答えはする。
 
 しかし、ならば家族のためとあらば職場の都合など全て後回しにできるのかというと、そんなことはない。職を失えば、生活も行き詰まるからだ。場合によっては、会社の都合のために、家族を犠牲にしなければならない。時間軸だけではなく、価値基準までもが二重化し、事態は複雑化していく。そして目的と手段は混同される。何のために働くのか、そして何のために生きるのか、そんな疑問がもちあがる。

 複雑で見極めがたいということ。単にそれだけの理由で、我々の人生の重荷となっているもののどんなに多いことか。そして現代生活というものの「生きにくさ」とは、多くこの複雑さに由来してはいないだろうか。

 そんなときに、「古典的生活」の単純さを考えてみることは有意義なことだといえないだろうか。食う、着る、寝るから始まる我々の生活というものは、実は本質的には変わってはおらず、よって「古典的生活」と我々の「現代生活」とは、全く違うものなどではなく、後者は前者の変形したものだ、と考えることは可能だろう。

 ならば、複雑化してしまった我々の生活を、思い切ってざっくりと単純化し、全体像を見極めるために、こうした古典文学を読むことの意義が見出せるはずだ。勿論、複雑なものは複雑なものとして、ありのままにみるのが本来のやり方であり、乱暴に単純化することは、ことさらに複雑化することと同じく、物事の本質を見失う危険がある。

 しかしその「ありのまま」がみえづらいのが現代だ。そこでひとつの手段として、古代ギリシア、即ち人類の青春時代を生きた詩人ヘシオドスの眼、という、我々とは全く別の視点から、我々自身を眺めてみたならば、また別の自画像がみえてくるだろう。私が古典文学によって単純化する、というのはそういうことなのだ。これならば、何とかいう評論家諸氏の何とか論とはまた違う、意外な答えも期待できそうではないか。

 古典文学を読むことの意味、というもののひとつがみえてきたところで、最後に、ヘシオドスの語る人生訓をひとつ。

 「陽に向かい、立ったままで放尿してはならぬ。」

 どうです、現代社会を生き抜く参考になりそうでしょう。

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