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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『阿片常用者の告白

阿片常用者の告白 (岩波文庫)阿片常用者の告白 (岩波文庫)
(2007/02/16)
ド・クインシー

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芸能人は清廉潔白であるべきか

 この書物のことを知ったのは、ボードレールの『人工楽園』を読んでのことだったから、もう十五年以上前の話になる、はずだ。よく憶えていないが、私の持っている『人工楽園』は、角川文庫の「偉大なる不良たち」とかいう企画で限定復刊されたもので、発行が平成五年とあるから、まずこの頃に読んだことに間違いはないだろう。

 そのときに、読んでみたいなと漠然と思ったこの本なのだが、ずっと忘れていた。しかし先日、本屋でみかけて思い出し、買って来たという訳だ。

 読んでみて、あてが外れた、というのが正直なところだ。何というか、ボードレール的なもの、つまり一種の芸術論というか、美学的ものを期待してしまっていた。なので、まず「なんだ、つまらない」と思いつつ読むことになってしまった。

 しかし、読み続けた。読み物として、非常に面白く感じ始めたからだ。つまり私の先入観が見当はずれだっただけで、とてもよい本だった訳だ。その、ギリシアやラテンの文学、あるいはミルトンやワーズワスからの引用に彩られた、よくも悪くも19世紀的といえる衒学的な文体で綴られるのは、数奇な、というべき(多分に自業自得な部分もあるが)著者の半生だ。

 このなんだかくどくどしい、というか言い訳がましいような文体そのものが、まるで筆者のひととなりをそのまま語っているようで、数ある自伝のなかでも、かなりよくできた、面白い作品ではないかと私は思う。

 著者は、「この物語の真の主人公は、阿片服用者ではなく、阿片そのものである」といっているけれども、それでも「阿片」ではなく、「阿片服用者」即ち著者自身を主人公として読んだほうが、この本を楽しめると私は思う。「阿片」というものへの興味から、この本を読み出したのが私であり、それは失敗だった。ド・クインシーという一人の男の半生記として読むように切り替えたとき、この物語はその魅力をようやくみせてくれた。

 そして著者としても、きっと上述の言葉をまともに取ってほしくはなかったのだ、と信じる。彼が語りたかったのは、「阿片が主人公のような人生」だったとしても、やはり阿片そのものではなく、彼の人生だったのではないだろうか。そうでなければ、阿片服用に至る前の、年少期から青春期までの記述に、あれほどのページを割くことはしなかっただろう(この本の訳者はそうは考えないようだが)。

 さて、話はかわる。こうして阿片中毒者の本など読んでいたときに、またしても、芸能人の違法薬物使用がらみのニュースがあった。例の、小向美奈子氏が、指名手配された件だ。あまりにもタイムリーで驚いてしまったので、これについて思うところなどを書いてみようと思う。

 この事件がどう決着されるか、まだ不透明だが、小向氏は執行猶予中ということで、今回逮捕され、有罪判決が下されれば即実刑、というところが、なんとも切羽詰まった感じだ。彼女が涙ながらに謝罪記者会見をしている姿をテレビで見たのは、つい最近だったような気がするが、全く、この麻薬だの覚醒剤だのというものは恐ろしいものだ。

 ところで、こういった有名人の違法薬物使用事件というものは、忘れた頃にちょくちょく起きるものだ。あの酒井法子氏や、押尾学氏、田代まさし氏の事件などは記憶に新しい。この覚醒剤使用だとか、大麻吸引だとかは違法行為であり、許されるものではないのは勿論だ。しかし、私は、この「有名人の犯罪」というものに対する世の論調に、なにやら違和感を感じる。

 一般的には「よくある犯罪」に過ぎず、例えば私などが犯したとしても、地方新聞にさえもとりあげられないであろうような、そんな犯罪であっても(違法薬物使用などまさにそれだ)、全国区のニュースで大々的に報道されること。これは仕方のないところだろう。

 有名人、とは、そうでない人よりもまさに「有名」であること、即ち人々の話題にのぼることで身を立てている人のことなのであり、その有名であることの恩恵に浴しているからには、その負の側面をも、受け入れなければならないのは当然だろう。

 ただ、なぜ彼らが有名人たり得ているか、といえば、彼らが所謂芸能人だからだ、とうことになる。つまり彼らは、演技が上手であるとか、容姿端麗であるとか、何かしら秀でたところがあり、それを認められている訳だが、そのことについてまで、犯した罪によって否定されることに、私は疑問を感じるのだ。

 「シャブなんかやる奴をテレビに出すな」だとか、「芸能界への復帰など許すな」だとかいった、インターネット上に飛び交う、常識的社会人の代弁者を自称しているとおぼしき人たちの、ヒステリックな怒号について私はいっているのだが、そうした人たちは、芸能人という人たちに対し、何を期待しているのだろうか。

 彼らは有名であり、多分、我々一般人よりもたくさんのお金を稼いでいる。しかし彼らは政治家や役人ではない。ただの芸能人だ。女優であったり、歌手であったりという人たちだ。一体どうして、彼らが前科者であっていけないというのだろうか。彼らだとて「社会人」としてはきっちり法によって裁かれる。そのことは我々一般人と何のかわりもない。だとしたら、それ以上の何を、彼らに求めるというのだろうか。

 彼らの演技だとか歌だとか、容姿だとか語りだとかが、観衆の耳目を集める力を持つものであり、そして観衆がそれへの評価のあらわれとして幾許かのお金を支払うことを良しとするのであるならば、それだけで、彼らは芸能人として何ひとつ欠けたところはないはずだろう。

 いや、犯罪者の演技など観たくもない、というのならば、よろしい、観なければいい。それだけの話だ。人気商売なのだから、それは仕方がないことだ。彼らの犯罪者としてのイメージがマイナスとなって、パトロンなりスポンサーなりが遠のく、これも仕方がない。そこに利害が関わる以上、スポンサーには選択の権利があるのだから。彼らの前科は確実に彼らにとって足枷となるだろうが、それは彼ら自身の責任なのだから、甘受する他はない。

 しかしそのことと、芸能人である資格の有無そのものを問うこととは全く違う。「芸能界は、前科者に対して甘すぎる」などという意見もよくみかけるが、甘いとか辛いとかいう問題ではなく、要するに才能があるのかないのか、という問題、それだけなのだ。前科者、というハンディキャップを負いながらも、なお人気芸能人であり続けられるのならば、やはりその人には、その世界で生きていく才能があるのだ。

 倫理的な問題は、と問われる向きもあろう。有名人の犯罪、ということで、社会的影響が大きく、とくに違法薬物に関わる犯罪を犯した者が、平気な顔をしてテレビに出ていたりなどすれば、青少年に悪影響があるのではないのか、という意見、これもよく眼にする。

 そういう方々には、ひとこと、「どちらの東京都知事さんですか」と問い返したい。そんなことで影響を受けるような薬物中毒予備軍は、テレビなど全くみなくても、遅かれ早かれどこからかクスリを手に入れてくるでしょう、としか私にはいいようがない。普通の青少年は、テレビや漫画や書物やに影響されて犯罪者になるほど、馬鹿ではないのだ。

 社会的悪影響への懸念、という点では、前科のある芸能人のメディアへの露出などよりは、それこそこの『阿片常用者の告白』のほうがよほど危ないだろう。ならば、エロマンガなどの「有害図書」とともに発禁処分にしろ、といわれるか。そういう管理社会指向のご仁には、この本の訳者とともに、ボードレールのこの言葉をもって、この高い「文学的価値」をもつ書物の弁護をしたい。

 「阿片吸引者が人類に対して実際の奉仕を何等しなかったからといってそれが果たして何であろう? もし彼の書物が美であるならば、我々は彼に感謝すべきである。」
(『人工楽園 「阿片吸引者」』 渡辺一夫訳)

 正真正銘、良俗紊乱の疑いでパリの軽罪裁判所に出頭を命じられ、有罪判決を受けた『悪の華』の詩人の言葉では、弁護にならないだろうか。勿論、日本の芸能人たちを、ボードレールやド・クインシーと同列に並べるつもりは毛頭ない。しかしそれは「程度の差」であって、本質的な違いではないはずだ。

 と、いったところで、興味は一周してボードレールに還ってきた。そろそろ近いうちに、このブログでもあの「最も危険な詩人」を、とりあげることになるかもしれません。


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