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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『エミール』

エミール〈上〉 (岩波文庫)エミール〈上〉 (岩波文庫)
(1962/05/16)
ルソー

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悩ましき教育問題

 この本を読んだのはいつだったか、例によってちっとも覚えていない。覚えているのは、確か全部は読み通していなかったんじゃないか、ということぐらいだ。今回も、読んだ訳ではない。上、中、下巻の三冊、遅読の私が、そんなに簡単に読み通せるような代物ではないのだ。

 ただ、私も恥ずかしながら二児の父親であり、特に上の娘は現在2歳と5ヶ月、ということで、柄にもなく「教育」などというものが気がかりになってきた。勿論今のところ、まさかバイオリンや英会話の英才教育などは考えておらず、食べ物を投げちゃだめだとか、弟を噛んじゃだめだとか、スッポンポンで走り回っちゃだめだとかいった、「しつけ」のレベルではあるのだが、近い将来にはやはり、本格的な「教育」についても、考えなくてはならない時期がきてしまうのだ。

 そこで、なんとなく手が伸びたのが、この古典的教育論の書であった、という訳だ。私は気になったところには、線をひっぱったり、ページを折り返したりと、本を汚す方なので、どこまで読んだのか、ざっとページを繰ってみれば大体わかる。すると、なんだか上巻にも、中巻にも、鉛筆の線だの折り返しだのが最後までついている。おや、と思いつつ下巻をみれば、これまた、かなり後ろの方にまで、折り返しがある。

 まさか、私はこれを通読していたのか。どうやらそうらしいのだが、全く、内容を覚えていない。ひどいものだ。まあしかし、せっかくだから、読んだ当時の私が、この本のどこに興味をもったのか、印のついた箇所を拾い読みしてみることにしよう。そうこうしている内に、内容も思い出すかもしれないし、私の子供等の教育に役立つことも、何かみつかるかもしれない。

 「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。」(第一編)

 冒頭を飾るのは、この有名な言葉だ。これをユダヤ=キリスト教圏に特有の原罪思想の流れのなかに捉えるのは簡単だが、ルネサンスにおける人間性の再発見とその称揚から、啓蒙主義の時代に至る近代史の流れのなかに観るとき、ルソーの独自性、というか、後世のロマン主義につらなる先見性が、よくあらわれた言葉だ、ということにもなろうか。

 そして教育論の基本的な態度として、さてルソーのように人間的なものを「悪しきもの」として捉えるのか、それとも逆に、人間性というものを「善きもの」として信じるのか、確かにここに、方法論的な分岐点があるとはいえるだろう。

 そして大概、我々は我が子を「うちのこにかぎって」的に信じるところから始め、結果として痛い眼をみる、ということを考えるならば、やはりちょっとルソーのいうことに耳を傾けてみるのも悪くはないかもしれない。彼のお喋りが「ちょっと」という分量ではないのもまた、確かなのだが。

 「自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。(中略)わたしの生徒を、将来、軍人にしようと、僧侶にしようと、法律家にしようと、それはわたしにはどうでもいいことだ。両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間としての生活をするように自然は命じている。生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。わたしの手を離れるとき、かれは、たしかに役人でも軍人でも僧侶でもないだろう。かれはなによりもまず人間だろう。」(第一編)

 ちょっと引用が長くなってしまったが、ここを読むと、どうやらルソーの人間観、というものがわかってくるだろう。彼は人間という存在の全てを悪だといっている訳ではなさそうだ。あくまでも、人間の「反自然」な部分を否定しているのだろう。そして本来的な人間性、というものを育てよう、というところか。彼の教育論の基本姿勢が、しだいに掴めてきた。次にいく。

 「ほんとうの乳母は母親であるが、同じように、ほんとうの教師は父親である。」(第一編)

 どきっ。

 「かれ(父親)は人類には人間をあたえなくてはならない。社会には社会的人間をあたえなければならない。国家には市民をあたえなければならない。(中略)父としての義務をはたすことのできない人には父になる権利はない。貧困も仕事も世間への気兼ねも自分の子どもを自分で養い育てることをまぬがれさせる理由にはならない。」(第一編)

 なんだか耳の痛いことが書いてあった。

 我が家の子育ては、現在、前述のように「しつけ」の段階にある。だが、どうやら、大きな意味での「しつけ」こそが、ルソーの謂うところの教育というものだ、ということらしい。そしてそれは、父親の仕事だという。算数や理科や英語やを教えることよりも、確かに、「ちゃんとした」人間、社会人、市民として、我が子を育てるということのほうが大切だし、それは学校の教師ではなく、親の仕事だろう。

 「人間の教育は誕生とともにはじまる。話をするまえに、人の言うことを聞きわけるまえに、人間はすでに学び始めている。」(第一編)

 そしてその仕事は、子の誕生とともに、即ち父親になったとたんに、始まるのだ。待ったなしの、何という重責。人間を育てる。何という難問。そして私は、あるジレンマを覚える。

 さて、私は、いかなる目標をもって、つまりいかなる人間を育て上げるつもりで、我が子を教育していこうというのだろうか。

 私は、少なくとも自分が父親になる前までは、人が人を教育する、ということ自体に疑問を抱いていた。特に、お勉強ではなく、人間性というものの「正しい」在り方を、大人が子どもに教える、などということが、可能だとは思われなかった。

 そして今、実際に「教育すべき」相手たる我が子たちを眼の前にして、その困難を痛感する。知恵のないこと、裸であることを恥じない彼らとは、すなわち楽園にいる彼らだ。その彼らに、我々楽園を追われた人間である大人たちは、一体何を教えるのか。

 確かに、彼らもまたやがて、楽園を失うことだろう。では我々は、楽園の外で生きる術を彼らに教える、ということだろうか。まさか、楽園に還ることを教える訳にもいくまい。失われた楽園はどうあっても戻らない。人間であるということは、すでにして楽園の外で生きるという宿命を負っている、ということだからだ。

 人間が人間を教育する、ということに私がある根本的な矛盾を感じるのはこの部分だ。結局できることといえば、子どもたちに、楽園の外で生きることを受け入れさせ、そして「手にしたものを全て悪くする」人間として生きることを受け入れさせ、その上で、具体的にその生き方を学ばせる、ということだけだ。いわば、現在は楽園の住人である彼らに、反自然的な生き方、つまり上手な「失楽園」の方法を教えるのだ。

 話が抽象的すぎるだろうか。ようするに、我々大人社会の下劣さ、卑劣さ、汚らしさを知りながら、そこで生き残る術を、子どもに教え込む、ということだ。社会人として、最低限身につけておくべきそれらを、倫理だとか、道徳だとかいえばまだ聞こえはいいが、つまりは「処世術」だといえばそれまでだろう。

 弟を噛んじゃダメ、だとか、お友達のオモチャを横取りしちゃダメ、とか、そんなことをいっている内は、まだ私も何も考えず、何も疑わずに、子どもと接することができるだろう。だが、その延長線上には、さらに複雑化した「倫理的問題」が確かにある。他者を攻撃することは、いついかなる場合にも「悪いこと」なのか。誰かのものを奪うことは、いついかなる場合にも「悪いこと」なのか。その答えを、私自身、知っているなどといえるだろうか。

 勿論、今私は、意識的に教育というものをネガティブに捉えているし、一方において、「なんとかなるだろう」という楽観的な自分も確実にあるのはいうまでもない。私は、人間というものには善意志、ようするに「良心」というものがあると信じる。だからこそ「なんとかなる」とも思えるのだが、その「良心」ですらが、ときには悪い結果を生むという事実、それもまた無視はできないものだ。

 なんだか、全体を拾い読みするつもりが、最初の幾つかを読んだだけで、もう考え込んでしまった。そして、ルソーが謂う「自然が命じる人間としての生活」とは、一体どんなものなのか、俄然興味がわいてきた。やはり、拾い読みなどで済ますべき書物ではないようだ。うむ、もう一度、この本を読んでみようという気になってきた。

 ということで、今回は「読後感」ではなく、「読前感」になってしまった、というお話でした。もしかしたら、近いうちにまた、この本を取りあげることになるかもしれません。そしてとりあえずは、子どもたちと共に、試行錯誤していくことにします。その試行錯誤が、結局最後まで続いてしまうという恐れを抱きながら。


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『社会契約論』

社会契約論 (岩波文庫)社会契約論 (岩波文庫)
(1954/12/25)
J.J. ルソー

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義務としての自由

 この本を知らない人はいないだろう。何せ中学校の歴史の教科書に出てくるほどの本なのだから。この書物が『人間不平等起源論』と並んで、フランス革命の呼び水となり、思想的骨格となった、というふうな感じで教科書には書かれていたような憶えがあるが、実際はどうなのだろう。

 私もごく若い頃には、それを信じていた。教科書のいうことを鵜呑みにして、というばかりではなく、ひとりの天才的人物の著作が、人間を文字通り革命的に進歩させる、という文化英雄的な力をもち得るのだということを、読書好きな少年らしく無邪気に信じていたのだ。

 実際、この書物があの革命に全く影響を与えなかったということはなかっただろう。しかし、この書物がなければ革命も起きなかった、などということもなかったはずだ。王制という前時代的な国家形態は、市民階級の台頭によってすでに限界にきており、市民革命への機運というものは、もうフランスに盛り上がりつつあったのだろう。

 この書物は、そうした時代変化の流れのなかから生まれ、そしてその流れに、形と論理的方向性を与えることで、実際の革命が起こるための大きな助力になったと、こんな形ではなかったかと今では考えている。

 大体、教科書の記述には、なんだか無理があった、というか不自然さがあった。フランス革命を、絶対君主の支配という軛に対する、民衆と民主主義の理想との勝利だと位置づけるためには、なるほど『社会契約論』はまさしくその論理的裏付けたるに相応しい書物だが、しかしその民主主義革命の後に、なぜか突発的に、ナポレオンが登場するのだ。

 バスティーユ襲撃に始まる革命が、なぜナポレオンの帝政につながるのか、中学校の教科書は、ほとんどなにも語っていない。恐怖政治だのクーデターだののスッタモンダは、フランス革命を神聖視する民主主義教育には相応しくないと、まあ、そんなところだろう。しかしこれでは、もうひとつの歴史的大事件であるナポレオンの登場に、なんの説明も与えられない。これではほとんど歴史の改竄に近い。嘘は語らずとも、語るべきを語らないのであれば、この場合悪質な情報操作といわれてもしかたがないのではないか。

 そして、こんな形で革命のバイブルにされてしまった『社会契約論』こそいい迷惑だ。フランス革命に興味を抱いた中学生が、自分で詳しくこれを調べ、あのほとんど内乱といっていいほどの大混乱を知ったならば、その革命をリードしたと教科書が語る『社会契約論』までもが、なんだか胡散臭くみえてしまいかねない。

 しかしまあ、中学校の教科書で、歴史と書物との関係を学ぼう、というほうが無茶な話なのだろう。そして、その書物の何たるかを知るに、歴史的背景を知ることもさることながら、やはり実際に読んでみること以上の方法はあり得ないだろう。

 と、いうことで実際に読んでみた、のは、もう遥か昔のことだ。もう、いつ読んだのか、どころか、最後までちゃんと読んだのかすら忘れてしまっていた。そこで、今回もう一度読み返してみた、というところだ。

 もしも我々が、民主主義というものの正当性を、単に他の政体との比較や、あるいはただ、それが正しいに決まっている、というようなミもフタもない決めつけによるのではなく、論理的に証明し得るものだとし、そしてその論拠の全てなり一部なりをこの書物に求めようとするならば、今現在の我が国の民主主義というものは、どうも、かなり不完全、というか、ほとんど似非民主主義じゃないかといわれても仕方ないような、そんな有様だとも思えてくる。

 それぐらいに、ルソーの所謂社会契約に基づく民主主義国家というものは、その構成員に、様々な点で高くを、そして多くを求める。例えば、次の一文。

「専制君主は彼の臣民に社会の安寧を確保する、というひともいるであろう。いかにも。しかし、彼の野心が臣民たちに招きよせる戦争や、彼のあくことなき貪婪や、彼の大臣どもの無理難題が、臣民たちの不和がつくり出す以上の苦しみを与えるとしたならば、臣民たちは何のうるところがあろう? もし、この安寧そのものが臣民たちの悲惨の一つであるならば、彼らは何のうるところがあるだろう? 人は牢獄のなかでも安らかに暮らせる。だからといって、牢獄が快適だといえるか?」(第一編 第四章)

 ルソーのいう「社会契約」とは、人民の自由を前提とし、そして人民の自由を保障するものとされている。だからこそ、この書物は民主主義の論拠ともいい得るのだが、しかし、大切なのは、その人民が自由を欲しているか否か、というところだろう。

 人は自由を求めるか。この問いには、我々が普通思うほどには、あるいはルソーがいうほどには、簡単に答えは出せないのではないだろうか。なぜなら自由とは、心細く、不安定なものだからだ。ある専制君主がもし、主権の譲渡と引き換えに、生活の安寧の絶対的保証を約束してくれたとき、人々は彼の提案を必ず拒絶するといえるだろうか。

 その君主が良き君主であったなら、その国の人民の生活をより善く守ってくれるのは、全ての人民の意見が一致することは決してあり得ない民主主義政治よりも、間違いなく、明確で統一された意思をもった専制政治の方だろう。つまりは賢人統治だ。

 勿論専制政治は、独裁者による最悪の恐怖政治に陥る可能性を常に孕む。しかし一方において、常に不安定で、衆愚政治に陥る危険を孕むのが民主主義だ。そして実際、民主主義国家だからといて、その全ての国が、よく治められ、全国民の幸福を実現している訳ではないことは、現在の世界情勢をざっと眺めてみただけでも明らかだろう。

 さらにいうならば、社会情勢が不安定になると、人々は手厚い社会保障や雇用の安定、そして政治家の強いリーダーシップなどを強く求めるようになるものだ。例えば、先に少し触れた革命の混乱からのナポレオンの台頭などは、まさに、人民というもののこんな心理、つまりは政治的自由よりも平和で安定した生活を求める傾向を、証明していないだろうか。

 政治的に自由である、ということは即ち、様々な社会的問題を、自分たちの力で、自分たちの責任において解決する、ということだ。そのために人々は、単にその国の人民であるというだけで、何の金銭的報酬を与えられる訳でもなく、大きな責務を負うことになるし、その責務を果たすために、多くを学ぶ必要も生まれる訳だ。

 ならば「その道に長けた人物」に、政治のことなど任せてしまって、自分の日々の生活の方に力をそそぎたいと人々が考えたとしても、無理もないことだし、自然なことだともいえるのではないだろうか。

 しかしそれでもなお自由を求める人々だけが、少なくともルソーのいうところの民主主義国家の人民たるに相応しいのだ。換言するならば、人民が政治的に自由である権利は、その人民が、いかなる生活の安寧を保証された形での隷属よりも、自由を欲するものである限りにおいて、正当な権利といえる、ということだ。

 私はここに、ヨーロッパ的精神にとっての、自由というものの尊さ、というものを感じる。ルソーは他にも、民主的国家の存立の条件として、私有財産の大きさについてのだとか、立法者のほとんど神懸かり的な能力だとか、もう民主主義国家なんてただの空想上の理想国家にすぎないのでは、と思われるほどに厳しいものを幾つも挙げているが、その大前提、というべきものが、この自由を尊ぶ精神、なのだろうと私には思われる。

 勿論、ヨーロッパ的なものが、なんでもかんでも我々よりも優っている、という訳では全くない。しかし、我々日本人は、自由のために蜂起し、自ら血を流して民主主義国家をうち立てたわけではない。この点については、やはり素直に市民革命の歴史を持つ国々を尊重すべきではないだろうか(アジアのフィリピンもそうだが)。自由の尊さは、きっと彼らの方が重く感じているはずだろうから。

 どんな政体でもそうであるように、民主主義国家にも弱点があり、限界がある。しかしそれらは、政治的に自由な人民に主権がある民主国家である以上、本来その構成員全員の責任において、全員の努力によって、克服されるべきものなのだと、この有名な書物は、そんなことを我々に訴えていると私には思える。そうでなくては、「自由な人民」である資格はないのだ、と。そして自由とは、権利であるよりはむしろ義務であると。

 それは理想論だろうか。確かにそうだ。だが、理想とは目的であり、目的があってこそ、方向も定まるというものだ。生活上の雑事に振り回され、一体何がどこへ向かっているやらわからなくなる日々を送るなかにあって、たまにはこの『社会契約論』でも読んで、理想国家といものの姿に想いを馳せてみるのも、決して無駄ではないと思うが、どうだろうか。

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