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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『罪と罰』

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)罪と罰〈上〉 (新潮文庫)
(1987/06)
ドストエフスキー

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彼はどこで間違ったのか

 ドストエフスキーの作品群のなかでも、『地下室の手記』とともに、私が最も好きな作品である。『カラマーゾフ』も勿論素晴らしいが、どうも、私は『罪と罰』のほうが好きだ。読んだのは、今回で4回目ぐらいだと思う。

 頭脳明晰だが、貧しさのために大学に通うことを諦めなければならなくなった主人公ラスコーリニコフが、自身の「理論」に従って殺人を犯す、というのがこの作品のあらすじだ。そしてその事件の周囲を取り巻く様々な人びとの、様々な人間模様が、物語を多角的、多面的に織り上げていく。このあたり、実にドストエフスキーらしい作品だといえるだろう。

 よって、この作品には様々な楽しみ方がある。例えばこの本の訳者も巻末の解説で書いているが、推理小説的な要素がある。予審判事ポルフィーリィが、ラスコーリニコフを犯人だと疑いつつも、物証がないために、言葉による心理的な駆け引きという、読んでいて非常に面白い方法で、主人公を追いつめていく。このふたりの対決を追いかけるだけでも、この作品は充分に楽しむことができるだろう。

 しかしそれは、この作品の重要な部分ではあっても、本質ではないだろう。同じく主人公の「良心の苦しみ」を描いた部分ではあったとしても、やはり私は、主人公とソーニャとの関係と、その周辺の出来事のほうに、本質的なものを感じるし、また、興味も感じる。勿論、他にも様々面白い側面があるのだが(主人公の妹のことや、ルージンのことなど)、全てに触れる訳にもいかないので、今回はこの辺りに限って、考えてみようと思う。

 ラスコーリニコフの犯罪の、「論理的」根拠。もしその最終目的が、社会全体の進歩だとか、福祉だとかいった、公共の利益になるようなものであるのならば、眼の前の避け難い悪事を働くことを、良心は容認するだろう、少なくともその「事業」を成就させるほどの「非凡」な人間においては。・・・というのが、私的解釈による、彼の考え方の要約になる。

 この、一種のマキャヴェリズム(通俗的な解釈ではあるが)に則って、ラスコーリニコフ(長いので、以下ロージャ)は、実際にひとりの強欲な金貸しの老婆を殺害し、さらには、現場に居合わせてしまった老婆の義妹のリザヴェーダまでをも成り行きで殺してしまい、そして眼についた金品を奪う。そしてその「犯行」は、周到に準備をしたつもりがほとんど行き当たりばったりに等しかったにもかかわらず、様々な偶然が重なって、「完全犯罪」に近いものとなった。

 だが結果として、彼は最終的には逮捕され、裁かれ、シベリア行きになる。つまり彼の「犯行」は、当初の目的に達することができなかった、という意味で失敗に終わった、ということだ。そして、その失敗の原因とは何なのか、それを考えることが、つまりこの作品の主題に関わることだと思う。そしてそれは、やはりソーニャの周辺に見出されると思うのだ。

 前述のように、実際の犯罪行為は様々な出来事に導かれて、どこか無我夢中で実行されてしまったという要素が強く、それが偶然によって完全犯罪になったとしても、優秀な予審判事たるポルフィーリィによる「心理的」追跡に対抗できるだけの自信を、ロージャは抱くことができなかった。それによって、自らの犯罪行為が露見してしまうことへの恐怖が、ひとつの強迫観念となって彼を自首へと導いた部分は決して小さくはないだろう。

 しかしもし彼の、その行為を裏打ちしているはずの自らの「理論」への自信が揺るぎないものであったならば、彼は予審判事の追求のプレッシャーぐらいは容易に耐えただろう。それはつまり世の法律や倫理に対抗する形での、自身の「正義」に自信を持つ、という意味で彼を立派な確信犯にしてくれただろうからだ。だから、彼を自首させたのはポルフィーリィではなく、ソーニャだった。ソーニャが、決定的に、彼の「理論」への確信を失わせたのだ。

 ソーニャという、この娼婦であり、聖女である女。初めてロージャが彼女の部屋を訪れ、話をした場面。ここにおいて、ロージャの運命はほとんど定まった、と考えてよいと思う。献身というに留まらない、全的な自己犠牲に徹する彼女を、ロージャは「狂信者」と呼んだ。しかし彼にはわかっていたはずだ、彼もまた、自らの「理論」のために人を殺し、そして少なくとも金貸しの老婆を殺害したことに関しては一切の罪悪感も覚えないでいる「狂信者」であることを。そしてまた、ロージャは彼女の姿に思い知らされた。この哀れな貧しい娼婦、愚かで善良な「狂信者」の姿こそは、「良心」というものの、それも彼自身の「良心」というものの具現であることを。

 そう、彼は自分が、大義のためにならばと敢えて殺人までもをやってのけるような、そんな「特別」な人間ではなかったことを、思い知らされたのだ。彼は、自分の犯した罪が、ただ母や妹を悲しませ、苦しめるであろうことにすら耐えられない「凡夫」だった。彼の「理論」が間違っていたのではない。その方法が間違っていたのでもない。自身の「資質」を見誤ったことこそ、彼の過ちだった。

 ではなぜロージャはその過ちを犯してしまったのか、といえば、無論それは、彼の自尊心のせいだろう。事実彼は、自分の論文を雑誌に掲載させることができるぐらいには優秀だった。その優秀な自分が、貧困のために狭い下宿部屋に押し込められたまま、大学の学費も続かず、志も半ばに貧者たちの醜悪さのなかに落ち込んでいくことに、我慢がならなかったのだ。

 マルメラードフとの出会いは、だから彼にとっては決定的な出来事だったに違いない。この飲んだくれ、家族を極貧の困窮の内に放っておきながら酒に溺れ、官職は首になり、娘のソーニャに身体を売らせるまでに至りながら、なおも飲んだくれる男の姿に、ロージャは、他ならぬ自分の行く末を見たに違いない。貧すれば鈍する、という。今はどうにか、ボロを纏いつつも自尊心を保っている自分も、やがてはマルメラードフのようになってしまうこと、それは彼にとっては何よりも恐ろしいことだったに違いない。

 だから、彼は実行した。「きみが自分でやる決意がないなのなら、正義もへったくれもない」。たまたまある飲み屋で耳にしたこの言葉は、彼を駆り立てるに充分なものだった。だから彼は実行した。後に彼はソーニャにいう。

 「・・・権力というものは、身を屈めてそれをとる勇気のある者のみに与えられる、とね。そのために必要なことはただ一つ、勇敢に実行するということだけだ! (中略)ぼくは敢行しようと思っただけだよ、ソーニャ、これが理由のすべてだよ!」

 彼は、自身の怠惰が、自身をマルメラードフにしてしまうことを恐れ、自身が他に優越することを、他ならぬ彼自身に証明するために、自分はあの飲んだくれとは違うのだということを証明するために、実行した。最早彼の「理論」の正当性など、どうでもよかったのだ。

 しかし彼はそれに耐えられなかった。耐え得るはずもなかった。なぜなら、彼には「大義」などなく、ただ「敢行」するために実行したに過ぎなかったのだから。そう、彼は自身を見誤った。大義も目的も持たない「凡夫」に、「非凡」な人間のための「理論」など、なんの助けにもならなかった。

 彼の自尊心はしかし、なかなかその自身の過ちを全的に認めることができなかった。だから、その苦しみは大きく、長く続いた。自首し、シベリアへ送られてもなお、彼は他の流刑囚の「醜悪さ」に立ち混じることができず、他の囚人たちに嫌われ、孤立した。しかしソーニャに、彼のためにシベリアまでついてきた彼女の献身に、彼が心を開いたとき、初めて、彼は救われた。

 それは、貧者であってもなお美しく気高くあり得ることを、彼が「狂信」と呼んだソーニャの自己犠牲が、どれほど誇り高くあり得るものであるかを、彼が知り、認めたときであった。『罪と罰』という題名から、彼の殺人の是非に、まず眼がいってしまいがちではあるが、貧窮というものに対し、どう立ち向かうべきなのか、そこにこそこの作品の主題があるように、私は思った。

 ところで、ならばロージャが、当初の「理論的目的」に忠実に、老婆から奪った金を生かして生活を立て直し、物的証拠をもたない警察に対しては最後までシラを切り通していたならばどうだったのか、という疑問が残るだろう。つまり、全てが上手くいった場合には、彼はどうなっていたのか、ということだ。

 これについては、スヴィドリガイロフが、その答えを与えてくれているように思う。私はこれまで、この人物について、物語の終盤近くに多くのページが割かれていることに疑問を感じていた。この好色で醜悪で不愉快な人物が、物語において大きな役割を果たすことは確かだ。しかしその最期について、明らかに物語とは無関係といえるほどに、事細かに描写されている。どうしてだろうか。

 私はスヴィドリガイロフとは、他ならぬ、ロージャが厚顔無恥にも大した「大義」ももたずに強盗殺人をやってのけ、その罪にも自分に都合のよい屁理屈をなすりつけて、「しかたがないさ」と肩をすくめるのみ、そしてほとぼりのさめたことろに奪った金を持ち出してきて、何喰わぬ顔で生活を始めた場合の、成れの果ての姿を象徴的にあらわしたものであるのではないか、と思った。

 つまりあんな方法で金を得たとしても、元来活発な活動家に生まれついてはいないロージャは、ただ無為徒食の人間以外の何ものかにはなり得ず、結局ろくでもない最期を迎える他はなかったのだと、作者はそういいたかったのではないか。

 ロージャが、ただ自尊心の強いばかりの若者であり続け、そしてその自尊心の満足ばかりを思っている内は、彼は、マルメラードフか、あるいはスヴィドリガイロフにしかなり得なかった。ならば彼は、彼の運命の内に、ソーニャと出会うことによってしか救われ得なかったのだろうか。

 いや、実は彼のそばにはいつでも、彼の行くべき道を指し示してくれている人物がいたのだ。それは、他ならぬ妹のドゥーニャだ。やはり貧困のうちに気高く生きる妹の存在の大きさに、彼が気付いていたのならば、殺人を犯す必要も、シベリアに流される必要もなかったはずだろう。この点にこそ、彼の悲劇の根本があったのではないだろうか。

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『地下室の手記』

地下室の手記 (新潮文庫)地下室の手記 (新潮文庫)
(1969/12)
ドストエフスキー

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過剰な自意識をごまかす現代的方策

 この本を最初に読んだのがいつで、今回で何度目なのか、もうわからない。ただ、読むたびにいつも、何だか嫌な気持ちにさせられる。つまり、この本はそれだけ優れた現代文学だということなのだと、私は理解している。

 自意識の過剰。私はこれこそが、現代文学というものを特徴づける大きな主題だと思っている。逆にいうならば、この主題に触れようとしないものは、現代文学の名に値しないと思っている、ということだ。なぜか。

 端的にいってしまうならば、つまりは「Cogito, ergo sum」、あの有名な「我思う、故に我あり」なのだ。本当に、すごい言葉だと思う。それは人間が、地上で唯一、自らを「思う」ことによって自らの存在を証明し得る存在であることの宣言であり、神々だとか、自然だとかいう、太古的支配者に対する凱歌である。

 そう、デカルトは確かに、近代以降の人間というものを、この「コギト」によって正確に位置づけた。人間の精神は、太古的、集合的なものから離れ、自我をみつめ、自我から発し、自我へと還る路を見出し、歩き始めた。

 しかしそれはまた、人間が地上で唯一、自らを「思う」ことによってしか、自身の存在を確かめられない、ひどく孤独な生き物になってしまった事をも同時に意味した。近代における「自我の発見の喜び」は、やがて、肥大化し、しかも寄る辺のない自我、という「現代的病理」となった。

 この「現代的病理」との対決こそが、現代文学だと私は考える。そしてこの病理に、あまりにも誠実に、真摯に、馬鹿正直にぶつかっているのが、この『地下室』、という訳だ。私がこの本を読んで、「嫌な気分になる」のは、この本が、我々が何とか触れずに済ませてしまいたい、しかしどうしても逃れられない自分の暗黒面を、この主人公の姿をもって手加減なくさらけ出してしまうからなのだ。
 
 この物語の主人公の言葉、「あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。」。これが全てだ。この自意識の過剰によって、どうにも身動きが取れず、右往左往し、結果、地下室にこもる他はなくなってしまう。これがこの物語の全てあるし、そしてこれこそが、「現代的病理」の姿なのだ。

 ボードレールはその詩のなかで、酒にであろうと、詩にであろうと、徳にであろうと、何にであってもいいから、とにかく常に「酔って」いろ、といった。これもまた同じく、過剰な自意識からの逃避願望だと、私は解する。覚めた自意識は、我々をただ押しつぶすばかりで、生きる、ということをさせてくれなくなる。そう、我々の主人公のように、だ。

 時流に乗って出世しようという友人がいれば、素直に祝福するどころか、素直に羨み嫉妬することすらできず、ただ暴走する自尊心にひきずりまわされ、半狂乱の自己嫌悪に終わるばかり。そして何よりも、愛することができない。ただもう、自分をも相手をも苦しめ、傷つけ、取り返しのつかない事態に自分を追い込み、そして、あとは「地下室」に逃げ込み、恥辱と後悔に我が身を震わせる。

 つまり彼は、「市民的価値観」を信じることも、恋の酩酊に身を任せることも、逆にそれを疑うことも、拒絶することも、とにかく自意識というものに邪魔されてできないのだ。勿論、彼は極端な人間だ。しかし我々が彼をみて醜悪だと思うとしたら、それは他でもない、現代人である我々自身の醜悪な部分が、極端に強調された姿だからだ。

 それが、デカルトの「コギト」と共に、太古的集合的なもの、つまりその象徴である神というものと決別する路を選び、そして「神の死」を宣言するまでに至った我々現代人の宿命というべきだろう。思考の迷宮に入り込み、抜け出せなくなったその姿こそは。

 かつては、神々が人間を導いてくれた。いってみれば人間は神々とその律法に、即ち伝統だとか習慣だとかに、かわりに考えてもらっていたのだ。神々は人間を戒律によって縛りつけるかわりに、人間を迷わないように導いてくれていた。人間はその神々の束縛を厭い、自ら歩むことを選んだ。人間は自由を手に入れた。しかし同時に、自分が荒野の真ん中に、牧人のない羊の群れのように、心細くたたずんでいることをも見出した。

 神々に歯向かい、荒野に出たからには、狼になるか、あるいは自ら神になる以外に路はなかった。近代人は「理性」が、「我思う」ことが神々のかわりになると信じた。しかし結果をみるならば、「理性」は神々にはなれなかったのだ。19世紀の真の知識人達、ボードレールやこのドストエフスキー、そしてニーチェ等は、いち早くそれに気づいていた。そして生まれたのがこの「地下室の住人」なのだ。

 20世紀に入り、二度の世界大戦、アウシュビッツと原子爆弾までを経験し終えてようやく、我々も「理性の無力さ」に気づき始めた。しかし我々は、その寄る辺なき自我、出口なき自意識を、手近なものでごまかしてしまう。大きなところでは東西冷戦を形作ったふたつのイデオロギーだとか、卑近なところでは勤め先での役職など、とにかく、身の支えとなりそうなものならば何にでもしがみつき、自身の自意識に宿命づけられた孤独を紛らわそうとする。

 そう、何にでもだ。市場原理、新興宗教、ファッション雑誌の記事、何とかいうアメリカの経済学者の御説、新築一戸建て、新しいメディアとしてのインターネット、夢の年収一千万円、テレビの情報番組で紹介された何とやら、国粋主義、趣味人になること、今だからこその社会主義、やっぱり家族が一番、自然環境保護、実践的で即戦力になれる知識、何でもいい、とにかく、この迷子の不安に押しつぶされそうな自意識を支えてくれそうなものならば、すぐにとびつき、しがみつき、ほっと胸を撫で下ろす。

 いや、時代の流れを見極め、そこで生きていく方策を見出していくことは決して悪いことでも無駄なことでもない。我々は誰でも、生きていこうと思うならば環境に適応しなければならないし、そのためには、あたかもデカルトの「暫定的道徳」の如く、何かを受け入れ、時には妥協し、小手先の方便であると知りながらもある価値観に従うことは、どうしても必要なことだからだ。そしてボードレールのいう通り、そうしたものに「酔って」いなければ、我々は現代社会のなかで生活することなどできないのかもしれない。

 しかし勿論、それが根本的な解決に、つまり精神の荒野に新しい自意識の居場所を自ら造り上げることになるわけではなく、逆に、まるで沈みゆくタイタニック号から海に投げ出された人たちのように、皆が皆、我先にと浮き袋がわりになりそうなものを奪い合い、しがみつこうとするものだから、混乱はますますひどくなるばかりなのだ。

 そして我々の荒野はますます荒んでいく。我利我利の生存競争だけが続いていく。それでよい、というならば、まあ、このまま進むとしよう。しかし疑うことを忘れない、真に現代的というべき批判的精神が、そこに何か疑問を感じるならば、やはり、この「地下室の住人」から眼をそらすべきではないだろう。そして忘れるべきでないのは、彼の醜悪さは、他でもない、彼の精神が、我々よりも誠実で、優れているがゆえのものだ、ということだ。

 主人公は、我々読者に問いかける。
 「安っぽい幸福と、高められた苦悩と、どちらがいいか?」
 我々はどう答えるべきだろうか。


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