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『サルからヒトへの物語』

サルからヒトへの物語サルからヒトへの物語
(1992/11)
河合 雅雄

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弱いサルの失楽園物語
 
 河合雅雄氏は日本のサル研究の草分け的存在で、この本は、その河合氏の代表作である『人間の由来』というかなり大部な著作の、エッセンスをまとめたような本である。

 自然科学の本というもの、特に、生き物の生態だとか形態だとかを対象とする類いのものは、当然ながら、観察の詳細と、そこから導き出せる推論なり結論なりを、丁寧に追っていくような記述が続く形になる訳で、私のような門外漢の素人が興味本位で読む読み物としては、少々退屈なものになってしまわざるを得ない。

 その最たるものが、かの有名な『種の起源』だろう。これはいうまでもなく、進化論にとどまらず、現代思想の方向性に多大な影響を与えた重要な著作なのだが、実際に読んでみるともう、読み続けることは苦痛でしかなかった。とにかく、観察日記みたいなものがずうっと続くのだ。

 河合氏の『人間の由来』は、ダーウィンほどひどくはなく、興味を持続しつつ読み終えることに困難は感じなかったが、しかしやはり、大著を読み通す耐久力が試されるだけの量は充分にある。なので、河合氏の注目に値する研究や考え方を、とりあえずどういうものか知ることができるこの本は、とても便利で有意義だ。

 私は二十代のはじめに、何だか変に進化論に凝ってしまったことがあり、ダーウィンも『人間の由来』もこの本も、みなそのころ読んだものだ。進化論というものは、様々な立場の人が様々なことをいっているのだが、どんなに科学的にアプローチしても、そのどれもが仮説でしかあり得ず、実証不可能な推論でしかないという点が、非常に面白い。

 なにせ、その「進化の過程」というものはとうに過ぎ去ってしまっており、できることといえば、現存する種の生態なり、化石の発掘なりから論を組み上げる以外に、どうにも方法がないのだ。つまり、絶対に正解は得られないのである。できることといえば、どれだけ論理的にみて合理性があり、さらには、現在観察し得るものとの整合性をも失わない「仮説」を打ち立て得るか、ということしかないのだ。

 で、この本の意図するところは、「人間は一体どうやって発生したか」という問いを発し、それに答えていこうというところにある。つまり数ある進化論の「仮説」のひとつということなのだが、対象が人間という生物だ、という面白さがある。

 方法としては、人間に近いサルたちをよく観察することで、人類の祖先、いわば「前人間的サル」が、いかなるものであったかを類推し、そこから人類の発生の秘密に迫ろう、という形だ。

 結果、チンパンジーだの、オランウータンだの、ゴリラだのといた連中が、どんな生活をし、それはどこまで人間に近く、どこからが人間に及ばないか、という話が中心になるのだが、これが非常に興味深い。この類人猿という連中は、どうして人間と同等のところまで進化できなかったのかと、訝しく思うほどに知的な生物なのだ。

 実際類人猿のクラスになると、遺伝学的には九割がた、人間とかわらないのだと、どこかで読んだ覚えがある。本当に、どうして人間だけが、ここまで進化し、文化をもち、生息域を世界に広げるような真似ができたのだろうか。

 その問いに対するひとつの興味深い「仮説」が、この本のなかで述べられる。最初は森に住んでいたサルの内のある一種が、サバンナに出て、やがてヒトとなった、という説があり、これはかなり有力な説、ということになっている。

 しかしそうだとすると、なぜ森にいたサルが、サバンナに出てきたのか、という問題が残る。森、という場所は、人間の破壊行為が及ばない限りは、サルたちにとって楽園といってよい場所であるらしい。基本的には木の葉や果実を主に食べて暮らすのが類人猿なのだが、森はその食べ物が密集してどっさりある場所であり、しかも、天敵となり得る動物がほとんどいないのだ。

 ならば、わざわざ食べ物となる植物が少なく、恐ろしい捕食者であるネコ科やイヌ科の肉食獣が跋扈する草原になど、出て行く必要などまるでないことになる。実際、チンパンジーもゴリラも、森を出ることなく今日まで、独自の進化をとげつつ生きてきたのだから。

 そこで、ヒトの祖先は、森を出た、というよりも、出ていかざるを得なかったサルなのではないか、という仮説が成り立つ。つまり、自分の住処を、ほかのサルに譲らなければならなかった、弱いサルだったのではないか、ということだ。これは、実に合理的な説明だと思う。だれだって、居心地のよい場所からは、追い出されないかぎり出ていこうとはしないものだ。

 しかしそうだとすると、結果は実に皮肉な形になった、といわざるを得ないだろう。弱く、森を追い出されたサルが、サバンナで大変な苦労をするはめになった。少ない食料をあさりつつ、外敵から身を守る生活。その苦しい生活は、そのサルに様々な変化を求めた。集団で行動して身を守るための、高度なコミュニケーション能力の必要は言葉を生み、ただっ広いサバンナで得た食料を運搬するためには両手を空ける必要があり、そのためには二本足で長距離を移動する必要があった。そして弱いサルはやがて人間になった。人間は世界を支配した。

 一方、森を勝ち取ったサルたちは、楽園での生活を満喫した。いらぬ苦労などする必要はないから、とくに大きな変化をする必要もなかった。強いサルたちは、やがてチンパンジーなり、ボノボなり、ゴリラなりにそれぞれ分化しつつ、気楽な楽園生活を送っていた。しかし現在、かつて追い出されたはずの弱いサルが、なんだかおかしな格好で舞い戻り、彼らを絶滅の危機に追いやっている。

 ところで、森という「楽園」を出たことで、人間は「知恵」において他を圧倒する地上の支配者となり得た、というこの物語、どこかで聞いたことがないだろうか。そう、『旧約聖書』の失楽園の物語そのままではないか。勿論あれは、単なる神話であり、物語にすぎないと私も思ってはいるのだけれど、なんだかこうしてみると、あながち全てがデタラメともいえないんじゃないか、という気がしてくる。

 「知恵」を得たために楽園を失ったのか、「楽園」を失ったがために「知恵」を得る必要にせまられたのか、という違いはあるものの、「楽園」を捨てて「知恵」あるものとして生きる道を選んだのが人間である、という点には何の違いもないのだから。

 そして、進化論の「仮説」が正しいにせよ間違っているにせよ、聖書の記述が真実であるにせよデタラメであるにせよ、我々は、最早なにをどうしても「楽園」には戻れず、この肥大化した大脳新皮質を頭頂部にのっけて、ふらふらと二本足で歩いていく他はないのだということ、これに間違いはないだろう。

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