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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『小さき者へ』

小さき者へ・生れ出ずる悩み (岩波文庫)小さき者へ・生れ出ずる悩み (岩波文庫)
(2004/08/19)
有島 武郎

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私の子育て事情

 プロフィールにもある通り、私は二児の父親だ。今年の春に二歳になる娘がひとりと、昨年秋に生まれ、間もなく三ヶ月になる息子だ。

 この本をはじめて読んだとき、それがいつだったかはっきりと憶えている訳ではないが、まだ独身だった二十代なのは確かだ。そして今回、また読んだ。つまり、結婚前の、私が私の両親の息子でしかなかったときと、ふたりの子供の父親となってからの、ふたつの真逆の立場から、この作品に触れたことになる。

 文庫本で二十ページにも満たない、とても短い作品だ。その短文のなかに、父親の息子たちへの想いが、簡潔に、しかし決して簡素に過ぎることなく、その愛情を伝えるに充分な情感を込めて、凝縮されている。初出は大正6年とあるから、ほぼ一世紀前になるのだが、そうした意味では、100年が過ぎてもなお出版され、読まれるに相応しい名文だといえる。

 ただそこに、眼をみはるような特別な何か、物珍しい何かがある訳では決してない。妻、即ち息子たちにとっての母親を、病気で失ってしまったという不幸な事情はあるが、そこにある父親としての子供への愛情は、ごくありふれた、当たり前のものであり、何か衆に優れたものでも、特別に深いものでもない。

 しかしそれ故にこの作品は、読む価値があるのだろう。それは、当たり前で、ありふれたものであるが故に、あらわしにくく、見えにくいものだからだ。こうしたごく普通のものを、日常のなかからすくいあげ、ひとつの注目に値する形にまとめあげることこそが、実は文学的表現の真骨頂というべきなのかもしれない。

 主題が特異なものであったならば、たとえ表現が拙くとも、人眼を惹き、読まれる価値も生まれるのかもしれないが、それはいうまでもなく文学的価値とは別のものだ。珍奇さは文学を生まない。当たり前のもの、ありふれたものに(肯定的にであれ否定的にであれ)注目を集めさせる手段、それが本来の文学なのだと私は思う。

 で、この名文を、私は前述の通り、まず「息子」の立場で読んだ。まあ、息子といっても成人した後であったから、まるっきりの子供ともいえなかったかもしれないが、しかしやはり、感じるところはあった。

 大概の父親というものはそうだと思うが、なかなか、子供、特に息子に、率直な愛情表現などしないものだ。そしてさらに、母親の愛情およびその表現が、肉体的、直接的、具体的なのにくらべて、父親のそれははるかに間接的、抽象的だといえる。

 母と子の関係が、誕生前、文字通りの一心同体の状態から始まる、いわば「先天的」なのに対し、父と子との関係というものは、子の誕生後に、経験知から、後天的に始まる。それだけでも既に間接的なのだが、食べ物をたべさせてくれ、服を着せてくれ、寝かしつけてくれるのが母親だとするなら、食べ物や着るもの、そして住む場所を購うためのものを手に入れてくれるのが父親であり、そうした意味ではなおさらに間接的、抽象的だ。

 子供だとか、若者だとかは、直情的で刹那的で実利的なものだ。だから、間接的、抽象的な父親の愛情というものは、なかなか理解されないのだと思う。「お父さんはつらい」のだ。「息子」の立場でこの本に触れた私は、そんなことを思った。

 そして、今回だ。私は、今度は「つらいお父さん」の立場にあって、これを読んだ訳だ。予想通り、全く違う感想をもった。限りない共感、といったところか。単純なものだと自嘲。読み方、が全然違うのだろう。私は読んでいて気になった部分には遠慮なくラインを引き、書き込みをし、ページの端を折り曲げるのだが、前回とはまるで違う場所に、線をひっぱることとなった。

 この短文のなかで、最も共感した、というよりは身につまされた部分を、少し長いが引用してしまおう。

 「・・・私の心はややもすると突き上げてくる不安にいらいらさせられた。ある時は結婚を悔いた。ある時はお前たちの誕生を憎んだ。何故自分の生活の旗色をもっと鮮明にしない中に結婚なぞをしたのか。(中略)何故二人の肉欲の結果を天からの賜物のように思わねばならぬのか。・・・」

 こんな言葉を聞いて、無責任な親だと作者を責める者は、よほど生活に余裕があるか、親になった経験がないか、どちらかだろう。普通のお父さんたちならば、一度ならずこうした思いを抱いたことがあるだろう。そして、こうした思いを抱いた自身の心を責め、そんな思いは心の奥底へと押し隠してしまっただろう。

 当たり前のものに照明をあて、表現する、ということとはまさにこういうことなのだ。勇気をもって筆をとり、文章に著してみせたひとりの男の独白に触れ、眼をそむけてきた自分の弱さや卑劣さに、読者は対面させられる。私もそうした読者のひとりという訳だ。

 我が家の家計は現在、火の車である。これは誇張された表現ではない。実際ここ数ヶ月ほどの収入が、半減してしまったのだ。昨年の夏以降、私の勤める小さな会社の業績が、信じがたいほどに悪化した結果だ。今でもその危機は続き、倒産か否かの瀬戸際にあり続けている。

 これは全くの非常事態といえる。もし会社が倒産したなら、この就職難のなか、職安通いをしなくてはならない。しかし私ももういい歳だ。失業保険の続く間に次の仕事をみつけられる可能性はきわめて低い。ただ働けばいいというわけではなく、家族を養い得る収入を得られる仕事が必要なのだから。

 下の子は、そんな状況のなかに生まれてきたのだ。正直にいおう。私は息子の誕生を、手放しで喜ぶことができなかった。そして、そんな環境下に生まれてこなければならなかった息子に対し、申し訳なく思う気持ちに苦しんだ。自分のふがいなさに腹が立った。

 まさに、「何故自分の生活の旗色を云々」である。いうまでもなく、読書によってこうした状況が好転する訳では全くない。だが、よい機会にこの本を読んだな、と思える。なぜなら、子をもつことの負の側面ばかりに眼がいってしまう状況のなかで、別の面にも視線を誘ってくれたからだ。

 曰く。
 「お前たちを愛する事を教えてくれたお前たちに私の要求するものは、ただ私の感謝を受け取ってもらいたいという事だけだ。」

 そう、やはり子をもつということは喜びなのだ。ふたりの幼い子供を眼の前にし、その無邪気さにこころ和ませ、その可愛らしさに頬をゆるめ、その無謬性に驚嘆する。そんな当たり前のことを、当たり前のこととして呼び覚ましてくれた、それもまた同じこの本なのだ。

 そしてさらに、私は思いをはせる。私の父もまた、こんな葛藤だの、不安だの、喜びだの、希望だのを抱きながら、自分を育ててくれたのだと。この本はつまり、そんな当たり前な、普通のことが、大正6年にも、昭和40年代にも、そして平成20年代にも、ずっと続いているのだと、そんなことを教えてくれているような気がする。

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