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『鏡の国のアリス』初めての文学的体験

今回は、『鏡の国のアリス』を読んだ。確かにこれは名作といえるのだけれど、よりによって児童文学の古典をひっぱり出さなくても、という向きもおられよう。しかし私としては、やはりこれは読んでおきたかったのだ。理由は、簡単にいってしまうならば、これこそが僕の出発点だから、ということになるのだが、その辺りのことを、今回は書いてみようと思う。

鏡の国のアリス (偕成社文庫 2065)鏡の国のアリス (偕成社文庫 2065)
(1980/11)
ルイス・キャロル

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 いわずと知れた、『不思議の国のアリス』の続編。ただ、ディズニーのアニメ映画にもなった『不思議の国』に比べてしまうならば、この『鏡の国』の日本における知名度は低いのではないかと、私は勝手に思っているが、実際はどうなのだろう。

 私としては、『鏡の国』のほうが好きだ。それはたぶん、『不思議の国』をはじめて読んだのは小学生の頃で、『鏡の国』は中学生になってからだったせいだろう。そう、この中学生になってから、というのが重要だ。小学生の内に、でもなく、高校生になってから、でもない、中学生のときに読んだからこそ、僕はこの本を好きになったのだと思う。いや、好き、というよりは、愛着がある、としたほうが正確かもしれない。

 中学生だった私を惹きつけたもの、それはこの物語の何だったのか。それはまさしく、大きな意味での文学というものに私がその後惹きつけられた、その理由と同じものを、この物語がもっていたからだと、私は思っている。

 作者であるルイス・キャロルが、幼い女の子たちを相手に即興で物語を聴かせていたものを、ひとつにまとめて成ったのが『不思議の国のアリス』であり、主人公のアリスとは、その女の子たちの内のひとりであったことは、あまりにも有名だ。

 その、当時十歳だった少女アリスが、二十歳になったころ、『鏡の国のアリス』は成立する。この間の事情を、訳者である芹生一は、巻末の解説のなかで簡潔に語ってくれているのだが、実はこの「物語の成立の事情」なるものに、まず中学生だった私は惹かれた。正直にいうならば、物語自体の面白さ以上に。

 内気で、他者との関わりかたが上手でない数学教授である作者が、心を開き、打ち解け合うことのできる唯一の相手が、幼い女の子たちだった。『不思議の国』は、彼女らと過ごした楽しい時間から生まれでた、輝く結晶だといえた。

 しかし『鏡の国』のころには、かつての十歳の少女アリスは、すでに大きく成長し、二十歳を迎えようとしていた。これは想像だが、若い女、という生き物は、ルイス・キャロル、否、内気なドジソン教授のような人にとって、最も苦手な相手だったのではないか。

 あの不思議の国の物語が生まれた、美しい夏の日の、幼きアリスの面影はもはや遠く去り往き、手の届かない思い出になってしまった。ミス・リデルはもう、老教授のお相手などしてはくれない。『鏡の国』は、そんなさみしさのなかから生まれた。

 この辺りの「老人の哀愁」について、中学生だった私がどうしてあんなに同情し得たのか、今でもおかしな話だとは思うが、つまりは、便利な言葉を使ってしまうならば、「中二病」だったということだろう。思春期にあり、小学生のころに好意を寄せた女の子が、急に大人びてしまうのをみて(このころの女子は男子よりも圧倒的に成長が早い)、「ああ、あのころの君はもういないんだな」なんて思っていたに違いない。実際は、少女が離れていく訳ではなく、ただ自分が幼いまま取り残されていただけなのだが。

 まあ、このあたりのことは置いておくとしよう。本当に、当時の私をこの物語に夢中にさせた理由は、この「老人の哀愁」それ自体よりも、それをこの物語がどうあらわしているか、という部分だったからだ。

 つまり、こういうことだ。チェスのゲームの形で進行する物語のなかで、アリスは、白の歩(ポーン)としてゲームに参加し、様々な変人たちとの出会いや、紆余曲折を経て、最終的に女王(クイーン)となる。それは、少女が大人になる、イニシエーションの過程であるといえる。この物語は、『不思議の国』の成立から『鏡の国』までの、実在のアリス・リデルの成長をあらわしている、ということだ。

 その物語を、作者は冒頭と巻末に掲げられた、ふたつの詩で挟み込む。冒頭の詩は、大人になってしまった少女アリスを、再び物語の世界に誘おうという内容だ。アリスに、あの夏の日の思い出を呼び覚まさせ、物語の楽しさを思い出させようとする、作者の切実な思いが伝わってくる。

 一方の巻末の詩は、またしてもあの夏の日のことが語られるが、それはもう手の届かない、遠い記憶のなかの輝きなのだ、という、諦観に充ちている。それはもう失われてしまったのだと、作者は今度は自分自身に向かって語りかける。物語は終わり、ついにアリスは本当に去ってしまったのだ。

 その決定的な瞬間、少女が大人に、歩(ポーン)が女王(クイーン)になるそのとき、それは物語のなかでは第八章から九章なのだが、作者は、自分の分身を登場させる。風変わりな「発明狂の騎士」の姿で、少女時代の最後の道程をゆくアリスを見守る。アリスに、自身の面影を忘れずにいてもらおうというような、白の騎士の印象的な描写とともに。

 これがつまり、その「老人の哀愁の表現」というものだった。勿論こんなことは、一読すれば誰にでもみてとれることで、いちいち私がこんなところでくどくどと並べ立てることはないのだけれど、中学生だった私にはまさにこの表現方法が大切だったということで、ご容赦願いたい。

 その表現方法とは、即ち「詩的表現」というものだった。「あなたがいなくなるのはさみしい」と、直接いうのではない、寓意、というものを使う方法だ。私は、勿論それ以前にもこの方法に出会ったことがない訳ではなかった。大概の絵本の類いにそれはみられるのだから。ただ、はっきりとそれを方法論的に意識したうえで、ひとつの文学作品に接したのが、初めてだったのだ。

 この寓意(アレゴリー)なるもの。かのショウペンハウアは、その主著のなかでいう。

 ・・・寓意は、造形美術においては好ましくないものだが、詩文芸において寓意を用いることいっこう差し支えなく、目的にかなってもいるのである。なぜなら造形美術において寓意は、芸術の本来の対象である与えられた直観的なものから、抽象的な観念へと人を連れていくのであるが、詩文芸においてはこの関係が逆になっているからである。
(『意思と表象としての世界』 第三巻第五十章 西尾幹二訳)

 と、長文の引用などしてみたが、この哲学者の言葉は、どうも素直に受け入れると痛い目にあいやすい類いのものだし、第一、これだけではよくわからないので、あまり力添えにならないのだけれども、とにかく、私はこの『鏡の国』の手法こそが、文学的表現というものの最も基本的な形なのだと今でも思っているし、だからこそ、この本に私は今でも愛着を感じるのだ。私に初めての「文学的体験」をもたらしてくれた本、そして物語というものが、そういうものだったのならばと、さらなる読書を私に促してくれた本として、だ。

 もしも、これからひとつ読書というものを趣味にしてみよう、文学というものに接してみよう、と思われている方がおられるならば、年齢に関係なく、この本のような優れた児童文学から始めてみるのがいいと思う。何事も順序は大切だ。もう成人しているから、といっていきなり『ファウスト』の第二部なんか読んでも、なにがなにやら訳がわからなくなるだけだろう。

 しかし優れた児童文学は、読みやすく、わかりやすく、しかも文学のエッセンスは純粋にたっぷりとつまってる。それを始めるのが何歳であっても、スキーを始めるならボーゲンから、文学ならば児童文学から、が正しいやり方だと私は思う。

 少々気恥ずかしい告白。私はいまだに、冒頭と巻末の詩を二編、憶えていて暗唱できる。中学生だった自分のセンチメントの記憶として、忘れずにいたいと思っている。いや、中学生じみた感傷からいまだに脱却できないせいで、忘れようにも忘れられずにいるのかもしれないが。

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