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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『ジョニーは戦場へ行った』 その2

ジョニーは戦場へ行った (角川文庫)ジョニーは戦場へ行った (角川文庫)
(1971/08)
ドルトン・トランボ

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 故郷で家族や友人、恋人とともに、決して全てが順調という訳ではなかったとしても、法を破って警察に面倒をかけたりすることもなく、ごく一般的な「普通の若者」として静かに暮らしていた主人公が、突然、招集令状を受け取り、兵隊として戦場へと連れて行かれる。そこで敵の砲弾を受け、あの信じがたいような運命に直面する。

 その間、彼の意思が社会的に尊重されるということは全くない。全ては否応なく事がはこばれ、結論に至る。戦争という、この国家間をまたいだ歴史的イベント下にあっては、個人の事情など完全に無視される、ということなのだろう。

 大義のために、大局のために、全体の利益のために、軽視される人間性。こうした意味では、戦争は確かに、その最たる形態だとはいえるだろう。しかし事は戦争だけに限った事ではないのだ。我々はさらなる不条理、さらなる理不尽をみせられることになる。

 彼はその絶望的な状況にあって、奇跡的に完全に発狂することを免れ、さらには、他者へと自分のメッセージを伝える手段をすら見出す。そして絶望的で半狂乱の試みの末、そのメッセージが、またしても奇跡的に他者へと伝えられたとき、メッセージの受け手は、驚くべきことに彼をただ厄介者扱いしただけだった。

 我々がまず思ったように、彼が収容された病院の医師、看護婦も、彼の精神がまともでいられるとは思わなかったのだろう。しかし彼は狂わなかった。それどころか、彼はその意思を伝達してきた。生者とも死者ともいえないような、彼という特異な存在にしか発することのできないような、力ある否定し難いメッセージを。

 しかしそれは、彼の周囲にいた者たちにとっては、ただ、「やっかいな問題」でしかなかった。彼のような存在は、ただ黙っているべきだった。両手両足、目、鼻、口、耳を全て失った負傷兵などは、ただおとなしく死を待っているべきであり、政府の方針だとか、世論の動向などに対し、意見などするべきではなかった。

 なぜならば、彼はもともとただの「若者」の内のひとりでしかなく、その彼に相応しい「兵隊」という地位しか与えられなかった男なのだから。「兵隊」は黙って戦えばよいのだ。怪我をしたり、運が悪ければ死ぬこともあるだろうが、それもしかたがない。なにせ、戦争なのだから。

 結果、我々の主人公の切実な命がけの訴えへの返答として、麻酔注射が与えられた。はっきりと描かれてはいないが、たぶん、軍や政府に関係する者たちの方針によって。

 またしても、彼の人間性は軽視された。そして我々はまたしても嫌悪感を覚える。誰であれ、自分が他人に軽んじられるのは不愉快なことだ。ならば、我々が少なからず同情し、感情移入する主人公が、軽視されているのを目撃させられた場合も同じことだろう。

 そう、我々がここで感じた嫌悪感とは、主人公が受けたあまりにも不条理で理不尽な扱い、に対するものではなかっただろうか。あまりにも軽視された人間性、そこにこそ、我々は嫌悪を感じるのではないだろうか。

 だからこそ、この小説には読む価値があるのだと、私は信じる。いわゆる「文学的完成度」が、それほど高い作品だとは私は思わない。物語は、主人公の「現在」と「過去」とを行き来するかたちで進められるのだが、特にその「過去」の描写において、私は物足りなさを感じる。何が物足りないのか。詩情、とだけいっておくことにしよう。

 しかしそれでもなお、この小説には読む価値がある。人間性というものが、どんどん薄められつつある現代においては、発表された1939年当時よりもさらに、読む価値は増しているとさえ思う。

 主人公のような、極端で特殊な例をみせつけられた場合には、我々は容易く同情する。しかしそれは例が極端で特殊だからであり、それに向けられる同情もいわば極端で特殊な感情、ということができる。だからそこで終わってしまうならば、戦争もなく、身近に手足を失ったうえに顔面に穴のあいた人間などいない我々の人生において、こんな小説を読む意味など少しもない、ということになってしまう。

 だが、この前世紀前半にかかれた小説を読むことの、現代的意義が、この人間性の軽視に対する告発、ということにあるとするならば、確かに、その意義なるものは小さくはないと思う。我が国は、第二次世界大戦の敗戦以後、幸運にも直接他国と戦争をせずにすんでいる。しかしだからといって、人間性というものを軽視しない世の中で暮らしているのかといえば、全くそんなことはないのだから。

 公共の利益。これは大切なものだ。誰もその重要性を否定できないだろう。少なくとも、社会というものの内側で、その様々な恩恵に浴して生活している我々なのだから。しかしその公共の利益のために、我々はあまりにも、その構成員であるひとりひとりのことを軽視してはいないだろうか。

 ある企業の存続のために、1000人が整理解雇される。それによって、数千人の雇用が守られるのならば、いたしかたないといえるのかもしれない。しかしクビになる1000人の1000の生活、1000の人生についても考えるべきだと、ジョニーはいっているのではないだろうか。

 そう、人間というものは、1000人の束で考えるのではなく、ひとり、という最小単位でみるべきだと、ジョニーはいうのだ。ちょうど、ただの名もなき一兵卒、大量の戦死者、大量の戦傷者の内のひとりにすぎなかったはずのジョー・ボナムに、我々が注目し、同情し、その人生を思い、彼を軽視した者たちに怒りを感じた、それと同じように。

 先日、また餓死した老人のニュースがあった。内戦続きで無政府状態のソマリアや、震災からの復興が進まないハイチの話ではない。平和で豊かな経済大国、我が国日本での話である。自分の食い扶持も何とかできなかった本人の責任だろうか。自由競争を大原則とする資本主義を取り入れ、発展し、豊かになった社会で、その恩恵に浴しながら生きるのが我々だ。その競争社会が、必然的、構造的に、敗者、弱者を生み出すものである以上、貧困の責任を全て、その当事者個人に負わせる権利をもつ者などは、ひとりもいない。

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『ジョニーは戦場へ行った』 その1

  この本を初めて読んだのは、1993年のことだから、なんと、もう18年も前のことになろうとしている。この年の夏、8月初頭から末までの約ひと月の間、私はオートバイで北海道を旅した。初めての北海道、初めてのロングツーリングだった。

 愛車は、スズキのGSX1100S。富士山の見える街から、東名高速、首都高速、東北自動車道をえっちらおっちら走っていき、ようやく青森港に着いたものの、何でもねぶた祭の影響とかで函館行きのカーフェリーは大混雑、朝一番に窓口に並んだのに、ようやく取れた乗船券は、夜の7時過ぎに出港するその日の最終便のものだった。

 青森に足止めされた私は、仕方なく竜飛岬までひと走りし、また青森市街に帰ってきたのだが、それでも半日しか時間つぶしができなかった。そこで本でも読んでいようと、小さな本屋に入り、ふと眼についたのがこの本だった、という訳だ。で、旅をしながら読み進めていった。たしか、2回読んだ。そしてどうした訳かこの本以降に、多分私の人生の中で最もたくさんの本を読むことになる数年間がはじまった。

 ということで、18年も前のことなのに、買った状況や、読んでいたときのことなどを、とてもよく覚えている本なのだ。今回久々に読書の習慣を再開しようと決め、ブログなども始めてみようというこの機会に、まずこの本を選んだのは、これがとても思い出深い本だから、という部分も少なからずある訳だ。内容よりも、読んでいた頃の思い出が先に頭に浮かぶ本は、私にとっては多分この本だけだろう。


ジョニーは戦場へ行った (角川文庫)ジョニーは戦場へ行った (角川文庫)
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 戦場で四肢を失う、あるいは視力を、あるいは聴力を、鼻を、口を失う、ということ。それは多分、悲しいことに特に珍しいことではないのだろう。しかしその全てを、一度に失ってしまったとしたら、どうだろう。考えただけでもおそろしい事態だ。
 
 主体、というものは、客体なくしては本来存立し得ないものであり、それはつまり、自意識、というものは、自身と客体との接点にしか存立し得ないということ、なのだと思う。それなのに、我々の主人公は、その客体を知覚し受動する器官のほとんど全て、さらには、客体へと働きかける手段のほとんど全てを、一気に失ってしまったのだ。

 あるのはただ、絶望的に閉じ込められた自意識、そればかりだ。彼がおかれた絶望的な状況とは、我々の自我というものが本来あるべき形で「健康に」存立するためには、絶対になくてはならないものが決定的に欠けている状態なのであり、我々が彼の物語を読んで感じる恐怖とは、即ち、発狂することへの恐怖に他ならないのだろう。

 そう、もし自分がそんなことになったら、と、読者は考える。もし自分が、彼と同じ悲劇に襲われたなら、きっとまともではいられないだろう。すぐに発狂してしまうだろう。まともでいられるはずがない、と、普通の想像力の持ち主ならば思うだろう。人間の精神は、とてもそんな牢獄には耐えられないだろうと。

 発狂への恐怖。それはもしかしたら、死への恐怖にまさるのかもしれない。少なくとも彼の場合はそういえる。なぜならば、彼の悲劇をことさらに残酷なものにしているもっとも大きな要因は、自殺することができない、ということだからだ。

 この悲劇を、自らの意思で終わらせる自由すら、彼からは奪われてしまった。そう、彼にとっては自殺もまたひとつの自由だ。歩くことや、視ることと同じく、彼の手からは失われた多くの自由の内のひとつだ。発狂という最悪の事態とは即ち、彼に残された最後のもの、精神というもの、自意識というもの、つまり身体はただの肉の塊になってしまっていてもなお、彼をひとりの人間だと証明しうる最後のもの、そして、彼が自由にあやつることができる最後のものが、ついに奪われてしまうということなのだ。

 この小説は、反戦小説の古典、ということになっている。歴史的にも、どうやら、戦時の発禁など、反戦小説にふさわしい扱いを実際に受けてきたらしいし、また、本文中にも反戦のメッセージが直接的に語られている訳だから、その見方に間違いはないのだろう。

 しかしこの小説を読んでいて感じるのは、発狂への恐怖という、実に感覚的な嫌悪感だ。読者はこの恐怖から逃れようと、主人公と共にもがき苦しみながら、ページを繰っていく。絶望的な努力を強いられる。途中、多分我々は一度ならず、主人公とともに正気を失いかける。

 終盤、我々はささやかな希望を見出し、そして、決定的に裏切られる。全ては失われる。読後に残されるもの、それもまた嫌悪感なのだ。その嫌悪感を、本文中の反戦のメッセージに導かれるままに戦争へ向けることは容易だろう。

 だが、そうやって感覚的、感情的に「戦争反対」を叫ぶばかりだとしたら、この小説もなにやらグロテスクなテレビドラマ以上の何かではなくなってしまう。なぜなら、感覚的、感情的な戦争反対論ほど、正当ではあるが、しかし戦争回避の役に立たないものはないからだ。

 それは歴史が証明する。戦争は古くから忌み嫌われてきたはずなのだが、しかし戦争は、人類の歴史と同じくらい古く、そして人類の歴史と同じくらい長く続いているのだから。

 だが我々が、この小説はそこに留まらないある普遍性をもつと信じるならば、我々はこの嫌悪感を、もう少し正確に捉えてみるべきなのだろう。

 調子に乗って、長々と書いてしまった。ここらで、「次回に続く」にします。お付き合いくださってありがとうございます。




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