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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

一八五七年、パリ  #3

一八五七年、パリ  #3


 かほどまでに、詩を感受する力を失ってしまった、そのパリの内にあって、詩人としてさらに生きようというのならば、全く別の手段を考えなければならないのではないかと、彼は思った。詩を忘れ去った、どこまでも散文的なパリは、最早散文をしか理解しないとあれば、詩人もまた、「歌う」ことをやめ、「語る」べきなのだろうか。象徴によって顕わされたものを理解できない者達には、最早直接的な表現で語る他はないのであろうか。

 彼は、ある友のことを想った。大洋の彼方、あの「最も詩人が生きにくい国」で、どこまでも詩人として生きた、あの友、言葉をかわすことはおろか、会ったことすらない、しかし、毎日カフェで顔を合わせる連中などよりはよほど自分に近く、親わしく感じられる、あの詩人のことを(*1)。かの詩人は、散文小説で多くを語った。その小説は、散文でありながら詩情に充たされていた。散文が高度に詩的であることの可能性を、それは証明してあまりあるものだった。それは確かに、現代的方法というもののひとつの形だった。
(*1)エドガー・アラン・ポーのこと

 ならばその方法を、彼も択べばよかったのだろうか。だが、それはできなかった。彼も試してはみた。しかし彼はあまりにも詩人でありすぎた。彼の貧しい手文庫には、書きかけのまま反故になった「散文小説」がつまっていた。彼は、小説家であるためにはあまりにも辛抱がなさすぎた。着想から脱稿まで、小説というものはあまりにも手間が掛かるものだった。場面の説明だとか、単に話をつなげるだけのために、小説というものはあまりにも多くの文章を必要とした。それでいて、本当に伝えたいこと、表現し、訴えたいことは、ほんの数行なのだ。研ぎ澄まされ、一切の無駄を切り落とし、たったひとことで多くを語ることのできる詩という手段に慣れた彼には、散文を書き連ねていくという作業は、まるで職人仕事のように感じられた。

 詩においては、着想とはすなわち詩の完成だった。それは同時に得られるものだった。何もかもは最初の瞬間に、素材も主題も、形式も韻律も、全てを備えて頭のなかにたち顕れる、それが詩というものだった。だが散文小説は違った。幾日も幾週間も、ときには数箇月、数年に渡って、ひとつの着想、ひとつの主題にしがみつき、一行一行を積み上げていかなければ、決して完成されることのないのが、小説というものだった。それは、彼には創作であるよりは「生活」であるように感じられた。忍耐と継続、頑なさとひたむきさに充ちた、あの生活者達の毎日のように思われた。それは、つまりは彼には不可能なことだったのだ。それができるのならば、小説を書き上げる程の辛抱強さが彼にあったならば、彼もこんなに生きることに苦しみはしなかっただろう。それができないのが、すなわちピエール・デュファイスという人間なのだった。

 では、どうしたらいいのだろうか。彼にはもう、いかなる表現の手段も残されていないのだろうか。それとも、どれだけパリが彼を断罪し、嘲笑し、黙殺しようとかまわず、彼はただこれまで通り詩作を続けるべきなのだろうか。しかしそもそも詩というものが、意思伝達の手段としての言葉というものの芸術的形態である以上、相手に伝わらなければ、それは詩としてはある決定的な欠点をもった、不完全なものなのではないか。彼はまず何をおいても彼自身のために詩作した。だが単にそれだけのための詩作であったなら、それこそ形式も韻律も必要なく、それどころかフランス語である必要すらないのではないか。誰かに何かを伝えるための詩ではないのだとして、ただ自己満足の殻に閉じこもり、自分勝手な言葉の羅列を楽しむだけだったならば。

 それは、詩の在り方としては見当はずれもいいところだった。特に、第一級の詩人たることを自負する彼にとっては。それは田舎の学生の詩の真似事とは違うのだ。その詩は、人々の間にあって力ある何かでなくてはならず、さらには歴史的に意義のある何かでなくてはならなかった。そうあってこその詩だった。そうあってこそ、彼の人生は理由と意味をもち得た。そのつもりで彼は詩を書いた。しかしその目的は果たされなかった。ならば、やはり何かもっと別の手段を探すべきなのだろう。だが一体どこをどう探せばよいというのだろうか。大体、詩という、太古より連綿と続く、きっと人類の歴史そのものと同じくらいに旧い歴史をもつ芸術形式にかわり得る、どんな方法があるというのだろうか。絶望が彼を捕らえた。詩は彼の翼だった。厳格な詩の形式のなかにあってこそ、彼の想いは真に自由に飛びまわることができた。その詩の翼を捨て、一体どんな翼を新調すればよいというのだろうか。

 酔いは、もう不快という形でしか残ってはいなかった。頭痛が、こめかみに絶え間なく脈打つ。胸元に、蛇を飲んだような吐き気。力を奪われた関節。それらの不快感に、抗う気力すら彼にはなかった。ぐったりと、その両手は投げ出された。左手の指先が何かに触れた。暗闇のなか、眼を閉じていた彼だったが、それが何であるのか、すぐにわかった。

 それは、一冊の風変わりな本だった。その頁をうめる文字の連なりを、一体何と呼ぶべきなのだろうか。そこには律動も韻律もなかった(*2)。だからそれは詩と呼ぶべきではなかった。だがそれらの短文、ほんの数行の、ただ印象や思いつきなどを、何の前置きもなく、何の結論もなく連ねていくだけの短文、絵画的、スケッチ風であると同時に幻想に充ちて流れていくその短文は、散文でありながら見事なまでに「詩的」に響いた。韻文においては、言葉のもつ「音」が響き合うように、ここでは言葉のもつ「意味」が響き合い、ひとつの統一された形をなしていた。
(*2)『パリの憂愁』序文において、アロイジウス・ベルトランの『夜のガスパール』に言い及んで曰く、「律動(リトム)もなく韻律(リーム)もなくて充分に音楽的であり」云々。

 この、誰にも知られぬままに世を去った詩人、きっと、不遇と困窮のなかで、作品の発表の場すらろくろく与えられずに世を去っていった多くの才能ある者達の内のひとりであろう詩人が残した、誰にも知られないささやかな小冊子を、いつ、どこで手に入れたのか、もう彼は憶えていなかったが、どんなに金に困ったときにも、これを古本屋に売る気にはなれなかった。他の、世にひろく認められた傑作といえる本を、一杯の安酒のために何の躊躇もなく売り飛ばしてきた彼がだ。この本に指先が触れたとき、彼の身の内に何かがはしり抜けた。眉間に皺を寄せ、かたく閉じられていた彼の両目が、かっと見開かれた。その視界にひろがるのはただ暗闇ばかりだったが、その眼は力に、輝きに充ちていた。

 「詩的散文」。これだった。この散文的な、あまりに散文的なパリに相応しい文学的表現、絶えず移ろいゆくこの大都会を瞬時に捉え、留めおくという詩的目的を、象徴言語を解さない読者に直接的に訴えかけることで見事に果たすことのできる文学的手段とは、まさにこれに他ならなかった。

 なぜ今まで、これに気づかなかったのか、彼は自分でも不思議に思った。多くを語らず、しかし全てを語り尽くすような択び抜かれた言葉だけを、決定的に、散文で、しかも詩的な響きを失うことなく語るこの方法。つまり、まだ「その時」ではなかった、ということなのだろう。彼には、苦しむ必要があったのだ。自在に韻を操る詩人である彼が、この現代のパリの内に生きるということが、一体どういうことなのか、実際にその詩を世に問うことで、身をもって実感する必要があったのだ。そこで与えられた苦しみを苦しんだ後でなければ、この新しい方法も、単にもの珍しいやり方、という以上のものではあり得なかったはずだ。例えそれを試してみたとしても、生み出されるものは、気まぐれな習作以上の何かではなかっただろう。苦しみは無駄ではなかった。それは「理由」のある苦しみだったのだ。

 最早準備は整っていた。彼はその詩人としてのもてる才能の全てを賭けて、この新しい方法に取り組むだろう。それでこそ、そこに価値のある何かが生まれるはずなのだ。今やこの方法は、真に「彼の方法」だといえた。だからこそ、今、彼はこの方法に思い至り、それを択んだのだった。

 この素晴らしい思いつきに、彼は満足した。身体に熱をもった血が、詩人としての血が、勢いよくめぐるのを感じた。そしてまた、これには「背後の眼」も満足したようだった。ひとしきりの興奮が去った後、「眼」は彼に眠りを許した。詩人にとって、思いつく、ということは、ほとんど完成したことを意味する。彼は久し振りに、心地よく眠りにおちた。

(完  2006年8月5日)


   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 終わりに

 長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。私の文章は、ひと段落がやけに長いので、読みづらかったことと想像します。ご容赦ください。

 ボードレール論、のごときものとして書いたと、最初にお断りさせていただいたが、こんな「小説形式」では、文意が掴みにくかったかも知れない。しかし、どうも私にはいまのところ、他の形ではあらわしようがないように思え、こうして恥は恥のままさらしてしまうことにした。

 そして最後にもうひとつお断りさせていただくことがあるとするならば、一方においてこれはあくまでも「小説」であること、即ち、フィクションである、ということだ。私は、全く根拠のないままにこれを書いた、などとまではいわないが、全てにおいて文献学的根拠に基づいたものだけを書いた、ともいわない。これはあくまでも、私の想像が生んだ物語であり、ボードレールの伝記ではなく、我がピエール・デュファイスの物語である。

 なんだか、逃げ道を作っているみたいに聞こえるかもしれないが、ただ、ここに書かれていることが、「事実」であると皆様に誤解されることがなければと思い、書き添えさせていただいたまでである。ようするに、ここに書かれているのは、あくまでも私の「ボードレール観」であり、「芸術観」である、ということだ。具体的には、なぜボードレールは「散文詩」を書いたのか、その辺りのことに絡めて、彼の所謂「現代性(モデルニテ)」というものを、ちょっと考えてみた、というところだ。

 しかしまあ、とにかく、こんなものでも、もし皆様の暇つぶしのお役に立てたのならば幸せです。最後にもういちど。お付き合いいただき、ありがとうございました(ご感想など、聞かせていただければもっと幸せです)。次回からは、いつも通りのぐだぐだブログに戻る予定です。どうか、よろしくお願いいたします。


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一八五七年、パリ  #2

一八五七年、パリ  #2


 そして彼は試みた。試み続け、そしてようやく形を得た。ひとつの詩集が生まれた。それは、誰のためというよりも、まず彼自身のために生み出されたものだった。自分はある特別な「役割」を担って生まれついたのだということを、自らに証しするために生まれた詩集だった。そのことを確信した上でなければ、どうして生きられただろうか、この苦しむことを宿命づけられた人生を。

 パリは彼を苦しめた。だが自分が自分であるということ、それ以上の苦しみはなかった。その詩集のなかでも、最も美しいといえるひとつの詩において、彼は彼方への憧れを歌った(*1)。はるか旅路のはてにある、「ここではない場所」へのやみ難い憧れを歌った。だがそれは、かのミニヨンの歌(*2)とは、何と違ったものだっただろうか。あの「憧れの象徴」と呼ばれるミニヨンにとっては、彼方こそは故郷であり、彼方こそは、求めるべき自分本来の姿のままに生きられる国だった。しかし彼にとっての彼方とは、単に「ここ」、すなわちパリではない場所であるという以上に、「パリに生きる自分のいない場所」であることを意味した。彼が憧れたのは、彼方の国における、全く違う人生、つまり、彼ではない「他の誰か」としての人生だった。彼を最も苦しめるもの、それは彼がピエール・デュファイスであり、ピエール・デュファイス以外ではあり得ない、という現実だったのだから。
(*1)『悪の華』収録、『旅へのさそひ』のこと
(*2)ゲーテ、『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』第3巻、第一章冒頭の詩のこと


 それでもなお、彼は彼として生きる他はないのならば、その理由が、その意味がほしかった。この苦しみに、本当に何の理由も意味もないとしたなら、それはたまらないことだった。だから彼は、自分が詩人であるということ、ただそれだけに希みをかけた。詩人であること、そのことだけが、理由となり、意味となり得る何かだった。彼は詩をかき続けた。自分が詩人であるということ、ただそれを自身に証明し続けるためだけに。かき続け、そして生まれたのが、あの詩集だった。勿論それは簡単な仕事ではなかった。元来移り気でこらえ性のない彼に、パリはただ騒々しさとめまぐるしい変化とばかりを与え、「詩作の時」に相応しい静けさや落ち着きを与えようとはしなかったのだから。若くしてその詩才を、少なくともごく身近な者達には認められていた彼だったが、処女詩集の出版はこんなにも遅くなってしまった。

 しかしそれだけに、その詩集の出来には満足できた。一語一句まで考え抜かれ、厳格なまでに研ぎ澄まされた詩群が、必然的、有機的なつながりをもって配置されていた。それは、彼が詩人であることを、しかも第一級の詩人であることを、自身に、そして気難しいパリの文壇にさえも、証明するに充分な出来であると確信をもって世に送り出すことのできる詩集だった。彼はここに、証しを手に入れたと直観した。この一冊のささやかな詩集のために、パリは最早、彼を詩人と呼ぶことをためらわないだろう。そして何よりも、この詩集が、彼の人生に理由を、意味を与えてくれることだろう。そうかたく信じて、彼は上梓した。六月下旬、それは売り出された。発行部数千百部、パリは彼の詩を受け取った。

 パリは感謝すべきだった。彼が見出したのは、旧き善き時代のパリでもなければ、やがてそうなる日が来ることが望まれるようなパリの理想像でもなく、まして、夢見がちな頭にあらわれるような空想されたパリでもなく、今、あるがままのパリが、その喧騒と雑踏の内に隠しもつ、生のままの「美」に他ならなかったのだから。パリは感謝すべきだった。古典的でもなく、ロマン的でもない、まさに現代の詩として、そのパリの「現代性」を、形に留めた彼に対して。彼のような「認識者」がいなければ、パリは、単に名前であるにすぎないものとなってしまうのではないか、この、絶え間なく移ろいさまようことを宿命づけられた、美しき娼婦たる街は。ただ「そこにある」というばかりで、次から次へと様変わりを続けるならば、それは最早どうにも捉えどころのない、抽象的な何かでしかなくなってしまうのではないか。移ろいのなかに永遠性を捉え、それに韻律という形を与えることを知る、彼のような詩人がいなかったならば。

 だが、あろうことか、パリは彼を断罪したのだった。彼は裁判所に出頭を命じられた。「その詩集には、良俗を紊乱する内容が含まれる可能性がある」、それがその理由だった。彼が裁かれたのは軽罪裁判所だった。与太者や素性の知れない山師、娼婦やその客引きなど、パリのならず者達を専門に裁くこの裁判所は、彼の詩を、その「レアリスム」ゆえに有罪と判じた。三百フランの罰金、これも確かに、常に金銭的困窮の内にあった彼には厳しいものだった。しかし、かけがえのない数篇の詩の削除命令、これ程我慢のならないことはなかった。彼の詩集を形づくる百篇の詩、そのどれもは、定められた順序で、一文字の狂いもなくそこになくてはならず、気まぐれに削ってしまってよいものなどは、どこを探してもあるはずはなかった。それなのに、無神経このうえない裁判官の不器用な手で、彼の詩集は切り刻まれてしまった。新聞に書評を寄せる下らない連中は、これに賛同し、手をたたいて喜んだ。彼の詩集を受け取ったパリの、これが彼に対する返答だった。

 これがパリだった。これこそが、彼が離れられずにいる、パリという街だった。この俗悪、この愚劣、この不感症こそが。長椅子の上で、彼は身を捩り、短く「うむ」と唸った。思うだに腹立たしいこの出来事の記憶のために、何度、彼はこうしてひとり唸ったことだろうか。幾人かの、彼が敬意と反発の入り混じった奇妙な親しみを覚える詩人や作家達のなかには、彼の詩集の価値を認め、支持してくれる者達もあり、それは彼にとってはささやかな慰めとはなったのだが、それもこの記憶を薄れさせてはくれなかった。しかし「背後の眼」は、こんなときにもはっきりと醒めたままだった。何かの慰み事で気を紛らわせることを許さず、全ての苦しみを苦しみぬくことを彼に強いた。そしてさらに悲劇的なことは、背後の「眼」が、さらなる創作を彼に求め続けたことだ。

 彼は、詩というものに、ある「限界」を感じていた。勿論それは、詩そのもののもつ力の限界、という意味ではなかった。詩は、ホメロスの昔と同じく、現代においてもなお怖しい程に力強く窮めがたいものとしてあった。だが、その詩を「感受」する力が、人々から失われていることは紛うかたなき事実だった。現代の大都会にも、古代のアルカディアと同じく、詩の素材はあった。古代には古代の、現代には現代のポエジーがあるのだから。だが現代人は、あまりにも「散文的」だった。その生活習慣も、ものの視方も考え方も、あまりにも散文的であり、詩というものとはあまりにも縁遠く生きていた。結果、詩というものを感じること、理解することができなくなってしまったのではないかと、以前から彼は思ってはいた。そしてあの裁判によって、彼はそれを確信した。詩は、その力は保ちながらも、その役目を終えて「我々」から去りつつあるのだと。

 彼の詩は、そのレアリスムゆえに断罪された。あまりにも表現が露骨すぎる、と。勿論彼はあるがままの現実を歌ったのだから、そこにレアリスムが見出せるのは当然だった。しかし詩とは、単なる現実の描写ではなかった。全ては「象徴」として歌われるのだ。彼の詩に登場するパリの現実、それはいわば「詩の肉体」だった。形を得ては消えてゆく、移ろいゆくパリのそのままの姿だった。しかしそこに詩情が、永遠、恒常性に属するものがなかったならば、彼もパリなどを素材に択ぶことはなかった。それこそはいわば「詩の精神」とでも呼ぶべきもの、詩の存在意義そのものだったのだから。この散文的なパリの現実から、詩情を掬い出したこと、それこそは、まさに彼の詩集のもつ独創性だった。だがパリはそれを理解できなかったのだ。ただ形だけに生きるパリは、ただ彼の詩の形だけを視て、断罪した。その詩集を、巷に溢れる「際物趣味」の悪書のひとつとして切り捨ててしまった。それが、つまりは現代的感性というものだった。

(次回に続く)


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一八五七年、パリ  #1

 はじめに

 このブログも、いよいよ年明けには一周年を迎えることになる。初めの頃には誰にも見向きもされなかったのだが、最近では、たくさんの方々が足繁くご訪問くださり、拍手だとか、コメントだとかをくださる。飽きっぽい私が、こうして一年間、ゆっくりながらも駄文を綴ってこられたのも、ひとえに、ご訪問くださる方々の励ましのおかげだと、心から感謝をしている。社交辞令などではなく、本当に。

 だが一方において、心残りがない訳でもない。色んな作家の、色んな作品について書かせていただいてきたのに、結局、ボードレールについてはひとつも書かずにここまで来てしまったのだ。

 私はこの詩人を、近代文学のみならず現代文学においても、あるいは、現代美術全体においても、と言い換えてしまってもよいのだが、最も重要な人物だと思っている。身の程も知らずに、様々な文学作品について、あれこれつまらないことを書かせていただいている以上、さて一体、どういう価値観から判断を下しているのか、それを明らかにするのは、いわば私の義務であると思う。だからこそボードレールについては、必ず書かなければ、と思い続けてきたのだが、やはり、重要視しているだけに難しいものがあった。

 そこで、一周年記念企画として、このブログを始めるずっと以前に書いたものなどを、引っ張り出してみることにした。それはなんと、小説形式で書かれているのだが、今のところ、私がボードレールについて書いたものとしては、一番体裁よくまとまっている、とは思う。勿論、それも程度の話ではあるが。
 
 ということで、これから三回にわけて、皆様の御目を汚すことをお許し願いたい。小説、とはいっても、無論本来的な意味での「ドラマ」とは別種のものとしてお読みいただきたい。あくまでも、小説形式のボードレール論、あるいは詩論のごときものとして書かれたものなので。まあ、年末年始に、テレビの特番もつまらないし、なんだかヒマだなあ、というときにでも、読んでいただければ幸いです。(なお、段落毎に空白の一行をはさんでいますが、これは画面上での読みやすさを考慮してのものであり、とくに節分け等の意思によるものではありません。無きものとしてお考えください。)


   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 一八五七年、パリ   #1


  一八五七年、十一月のパリのある晩、ピエール・デュファイス(*1)は、明かりも灯さないまま、長椅子に身を投げ出していた。身動きひとつせず、暗闇のなかにあってさらに視ることを拒むかのように、かたく両眼をつむって。しかし、カフェ・リシュから戻ったままの姿、大げさなネクタイや、たっぷりしたフロックコートもそのままの彼の姿を、じっとみつめる「眼」があった。背後からの、鋭く、容赦のない視線。
(*1)「シャルル・ピエール・ボードレール」のミドルネームと、彼の母親の旧姓「デュファイス」を組み合わせた名前。ボードレール自身も、この筆名を用いたことがある、らしい。

 その「眼」の持ち主が、他ならぬ彼自身だということ。その仮借ない現実こそは、今、彼を苦しめる全てだった。彼は疲れていたし、酔ってもいたから、すぐにでも眠りたかった。しかしその「眼」は決して酔わず、決して眠りもしないことを、彼は知りすぎる程に知っていた。いつからだろうか、彼の背後に「眼」が現れたのは。リヨンの王立中学の学生だった頃だろうか。ことによると、それ以前かも知れない。もう三十代も半ばを過ぎた彼だったから、この「眼」のある限り、自分は本当に酔うことも、ぐっすりと眠ることもできないのだと、充分に知っていた。

 それどころではない。かつて二月革命に、社会主義者としてというよりは、むしろ暴力と気狂い沙汰に惹かれて加わった彼ではあったが、あの銃声と血の狂乱の最中にあってさえ、「背後の眼」は冷たく冴えたままだった。この夏のアグラエとの色恋においてもそうだった。彼は、ついに目的に近づいたと思われたその時に、「眼」に情熱を冷まされ、結局身をひいてしまった。「眼」は彼の支配者だった。「眼」の許しなく彼には何ひとつできなかった。家具つきホテルを渡り歩き、常に金に窮し続ける、この禁治産者としての日々から抜け出し、あのいまいましい法定後見人を追い払う方法を、彼はもう十年も前から知ってはいたのだったが、それすらもできずにいた。「眼」は宿命であり、「眼」は絶対の律法だった。

 否、むしろそれは本物の彼だった。天性の、最も危険な意味での詩人としての本性だった。彼自身が、かつて様々な芸術的天才達の内に見出した、ミューズの息子たるを証しする見紛うかたなき資質、それこそは、この「背後の眼」に他ならなかった。

 そう、彼は詩人であり、しかも第一級の詩人であると自負していた。それはつまり、ユゴーやゴーティエと同じく詩人であるのみならず、ホメロスやヘシオドスと同じく詩人である、ということだ。だから彼は、帝政ローマに生まれたならばウェルギリウスになっただろうし、ルネサンス期のイタリアに生まれたならペトラルカになっただろう。だが彼は、一八二一年のパリに生まれた。だから彼はパリの詩人になった。

 一七八九年の乱痴気騒ぎよりこのかた、王政だの共和政だの帝政だのと、幾つもの政体のあいだを気まぐれに次から次へと渡り歩く娼婦、それがパリだった。だから、同じく詩人であるといっても、ウェルギリウスのように詩人であることはできなかった。パリの詩人は、あくまでもパリの詩人として生きなければならない。

 だが、この「蟻のように群集のうごめく大都会」で、詩人として生きるということは、何とみじめで、腹立たしく、耐え難いものなのだろうか。眼にみえる彼の姿とは、つまりこのあまりにも散文的な小世界と、詩人としての本性との接点に顕れた、不可思議な、ぎこちない、無理のある妥協の姿に他ならなかった。はるか昔、世界に詩情があふれていた頃、もっと正確にいうならば、今よりも人々の内に詩的なものに対する感受性が強く息づいていた頃には、詩人はただ全的に詩人であればよかった。それだけで詩人は生きられた。しかも、人々の称讃さえその身に受けながら。しかし近代都市の内にあってはそれは不可能だ。雑踏のなかに、竪琴を抱いたオルペウスが突っ立っていたならば、この神話的詩人は、人々に讃えられる間もなく病院に放り込まれることだろう。詩人といえども、まず近代人として生き、生活しなければならないということ。近代詩人の悲劇とは、まさにこの点にあった。

 それはつまり、自身の本来的、生来的ありかたとの乖離を意味したからだ。人々の間にある彼、辛辣な皮肉屋であり、市民的な秩序を軽蔑し、偏狭で依怙地なブルジョア的道徳の全てを否定する冷笑家としての彼の姿は、あくまでも彼一流の処世術のかたちであり、ペルソナであるにすぎなかった。その仮面からして病的だと、他者の眼には映ったのかも知れないが、それでも、それは彼がこのパリの内にあって、何とか都市生活者であることを可能にするために、苦労して造りあげたかりそめの姿に他ならなかった。本来あるべき姿の彼、詩人としての彼は、その「背後」に隠された。そうしなければ生きられなかったからだ、このあまりにも反美的、反詩的な世界では。だから、彼の敵対者達が、彼の態度に気取りやわざとらしさを見出したのは正しいことだった。それをもって彼を攻撃するのは誤りだったとしてもだ。彼には確かに気取りやわざとらしさがあった。しかしそのことを、一番よく知り、意識していたのは彼自身だった。彼には、背後からみつめる「眼」があったのだから。

 他者の眼にさらされる彼と、「背後の眼」としての彼。彼の実存なるものが、一体そのどちらにあるのか、彼自身わからなくなっていたが、少なくとも、彼の自意識は、「背後の眼」にその重心をもっていた。本来ならば、ただ世界を、彼を囲繞する客体だけを眺め渡すはずだったその「眼」の視界に、自身の姿を、世界と対峙する主観の一部をも割り込ませ続けなければならないこと、それが近代詩人としての彼の宿命だった。この主体の分裂と、その結果生まれた自意識過剰のわざとらしさこそは。それは彼に、自身の人生に「生きにくさ」を覚えさせた。常に舞台の上にあり、観客を前にして役を演じ続けているような緊張感、あるいは違和感を覚えさせた。

 自然なもの、自発的で自己完結的な何ものも、自身の内に感じられないままに生き続けること、それは苦しいことだった。この心安らぐ場所をどこにももたない永遠の迷子のような不安、決して他者には理解されない自己分裂からくる心的疲労を、ただひとり担い続けなければならないこと、それは苦しいことだった。彼は幾度となく自問した、この苦しみとは、一体耐える価値のある苦しみなのかと。そしてこの苦しみ多き人生、否、ただ苦しみの連続に他ならない人生とは、ただちに終わらせるべきものでしかないのではないのかと。実際、彼は一度自殺をはかった。しかしそれも結局未遂に終わった。結局自殺ですら、わざとらしいポーズ以上の何かではあり得ないものとして終わった。彼には、自分の死ですら全的に自分のものとは思われなかった。その自意識は、自分の死にすら、夢中になるということがなかったのだ。全ては冷笑で終わった。自虐の嘲笑で終わった。彼は彼のままに生き続ける他はなかった。その苦しみを苦しみ続ける他はなかった。

 だがそれは、彼が詩人として生まれついてしまったがために、不可避的に苦しまなければならない苦しみであるばかりではなかった。それは、彼が詩人であり続けるために、どうしても「必要な」苦しみでもあった。だからこそ、それは宿命的といえたのだ。彼は「不運にも」十九世紀のパリに生まれてしまった詩人であるのみならず、まさしく十九世紀のパリの「ために」生まれた詩人であった。この劇的な変化の時代にあって、その根底にある詩情を、すなわちある永遠性を、これまで誰も視たことのない新しい形で見出すこと、それが彼の詩人としての役割だった。「大詩人たること、しかしラマルチーヌでもなく、ユゴーでもなく、ミュッセでもないこと」(*2)とは、つまりそういうことだった。そのために、彼はパリに生き、パリを苦しまなければならなかった。その「背後の眼」をもって、パリを注視し続けなければならなかった。そこにあふれる欺瞞を、軽薄さを、煩雑を、醜さを、その身に感じ続けなければならなかった。彼自身、そのパリの群集の一員として生き続けることによって。パリは、彼の詩に絶対に必要なものだった。彼の詩神はヘリコンの山にはいなかった。パリにいた。薄汚いカフェに、街角に、娼婦宿にいた。だからそこで生きなければならなかった。どんなにそれが彼を責め苛んだとしても、だ。「背後の眼」は、そこにこそ美を、彼の詩を見出そうとしていた。「現代」における詩の可能性という、全く新しい詩の形を。あるいはこういうべきだろうか。詩というものの、「現代性(モデルニテ)」を、と。
(*2)ポール・ヴァレリー、『ボードレールの位置』よりの引用。岩波文庫版『悪の華』巻末に収録されている。

(次回に続く)

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