FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

日々思うこと 3


 静岡県内の東海道を走り終えて思うこと


1. 何はともあれ、簡単に振り返ってみる

 昨年夏のホンダスーパーカブ110購入を機に始まった、私の「スーパーカブ110で行く早朝お散歩史跡めぐりツーリング」。道への興味がそもそもの発端であったところから、基本的には街道、特に旧東海道を辿りながら、その沿線の史跡を観て回る、というスタイルで続けてきた訳だが、開始から約一年、ようやく静岡県内の旧東海道を走破、旧宿場町を全て回ることができた。

 一応その過程を簡単に振り返るなら、まずは第一回目に、富士川西岸から西向きにスタートし、蒲原宿、由比宿、興津宿をまわり、二回目はその続きで江尻宿、府中宿ときて安倍川東岸まで。三回目は丸子宿から岡部宿、藤枝宿、島田宿、そして大井川東岸まで。

 四回目には大井川西岸スタートで金谷宿、日坂宿、掛川宿。五回目は西は飽きたということで、富士川東岸から吉原宿まで。六回目も東向きに原宿、沼津宿、そして三島宿。七回目は、県境を越えて神奈川県の箱根宿まで行った。

 八回目はまた西へということで袋井宿。九回目に見附宿。で、先日の十回目に、浜松宿、舞阪宿、新居宿、そして西のはずれの白須賀宿、という具合であった。県内の旧宿場は二十二ヶ所、それに箱根宿を加えて二十三ヶ所、である。

 東海道五十三次の内の二十三ヶ所。十回も走ってまだその半分も回っていない訳だが、自分でも意外なほどに、達成感、というものを覚えた。半分以下、といっても東西に長い静岡県を端から端までカブ110で走った訳である。過去には大排気量のバイクばっかり乗っていた私には、なかなかの走りごたえであった。

 私の自宅は静岡市で、ちょっと東よりではあるが大体静岡県の真ん中あたりにあるので、条件としては恵まれているといえる。最も遠い白須賀宿でも、大体片道100kmの距離である。この点は幸運であった。


 2.街道巡りから派生したもの

 旧東海道を辿る過程において、まず新たに産まれたのが城跡への興味であった。城の構造、これにも無論興味はあるが、まずなによりもその城がもつ歴史というものに惹かれた。以前にも書いたが、元来軍事拠点である城の歴史とは合戦の歴史であり、そして合戦とは、大きな歴史の流れのなかの、あるひとつの到達点、極まりとして起こるので、結果、城の歴史をみることは必然的に歴史というものの大きな転換点をみることになる、と私には思われた。これにより、東海道めぐりのついで、のみならず、街道からは遠くはずれたところにある城跡へも、わざわざ出掛けていくことになった。

 訪れた城を挙げるならば、東から、山中城、興国寺城、蒲原城、駿府城、田中城、小山城、相良城、諏訪原城、掛川城、高天神城、横須賀城、天方城、二俣城、鳥羽山城、そして浜松城である。

 城の歴史は合戦の歴史。そこからさらに、今川氏滅亡後の武田・徳川両氏による、駿河・遠江の奪い合いの歴史にまで興味はひろがり、その経緯を追ってみたりもした。無論それは戦国時代という全国的な戦乱のうちの、局地的な出来事といえばそうであるが、多分天下人たるに最も近づいた戦国武将の内のひとりである武田信玄と、最終的に天下統一を成し遂げる徳川家康との戦いであるだけに、日本史全体に直接的に影響するような出来事の連続であるともいえ、とても面白いものであった。

 つまりそれは、少し大袈裟にいうならば、あるたった一個の出来事が歴史全体の流れの中でいかに大きな意味をもち得るか、それを知るということであり、また、歴史全体を俯瞰するうえで新たな視点を得る、ということでもあった。

 ただ、戦国武将の勃興だの、城の攻防だのといった出来事は、きわめて「特殊」な出来事だともいえる訳だ。例えば我々の日常生活を思うとき、国家の安全保障の問題が、我々の生活の根幹に関わるものであることを理解しつつも、我々は、卑近な、ともいうべき衣食住に関わる些事にこそより強い関心を寄せつつ毎日を生き、そしてそうした日常的な些事に埋め尽くされているのが我々の生活の姿だというのが実際である。

 で、歴史というものは、その「日常」の気の遠くなるような堆積であると見ることも可能なのであり、その「日常」が営まれる舞台の大枠を形作るものが、歴史年表に記入されるような「大事件」であるのだとしても、やはりその絶対的大部分が、我々名もなき一般庶民による「日常的些事」から組み上げられているのもまた一方において事実なのである。

 こうした観点にたって考えると、戦国時代の合戦跡などよりも、「太平の世」である江戸時代の、街道沿いの史跡のほうが(時代の相違はあるとしても)より「昔の日本」というものの本質的な、あるいは普遍的な姿を我々に教えてくれている、ということができる訳だ。

 いや、さらには街道というものですら、絶対多数の人々にとっては、「日常」からかけ離れた世界であったとさえいえるのではないだろうか。


 3.史跡とは何か

 なぜならば街道とは、そうした「日常」が営まれる生活の場と、川の彼岸や峠の彼方にある「異国」とを繋ぐものであるからだ。人々がそこを歩くときとは、異国へ旅するときである。その目的は巡礼であり、湯治であり、出稼ぎでありと様々であったかもしれないが、いずれにせよそれは「非日常」の時空間である。

 今、旧街道とそこに残された往時の痕跡などをみてまわっていると、街道とその周辺に「日常」を営んでいた人々の面影に出会うことが多い訳だが、こうしたひとたちは実は特殊なひとたちだといえよう。

 「日々旅にして旅を栖と」なすひとたち、すなわち「舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ふる者」、あるいは、「非日常」の時を過ごす旅人たちを相手にする旅籠のひとたち、そうしたひとたちにも無論彼らなりの「日常」はあっただろうけれど、それは決して「当時の庶民」というものの典型例とはいえない。真夜中に幹線路を数百kmも走り、どこかの街のパーキングエリアで車中泊をする私のようなトラック運転手の生活が、ありふれているのだとしても、現代日本人の「普通」の生活だというべきではないように。

 では、絶対多数を占める「普通のひとたち」の日常生活こそが、日本史というものの大部分を組み上げ、積み上げてきたのだとし、それを日本史というものの最も普遍的な姿だ、とするならば、それらを現代に伝える「史跡」とは、どこに見出されるのだろうか。

 この問いは、最近の史跡めぐりの途上において、私の脳裏を去ることがなかった。観光案内に載っているような、城跡だの本陣跡だのをおいかけて走り回りつつも、何だか、元来自分が求めていたものであるところの「郷土史」というものから、どんどん離れてしまっているような気がしてならなかったのだ。大名や郷土の名士などではない、私の祖先がきっとそうであったような、農民や職人やといった庶民たちの面影を今につたえるようなものこそ、本当に自分が見出すべき「史跡」なのではなかろうか、と。

 だがいってしまうならば、そんなものはほとんど残ってはいないのである。数百年の時を経てなお残されているのは、残すに相応しいもの、つまり今川義元や徳川家康など、歴史に名を残すような「特別な」ひとたちに縁のものなのであって、庶民のものなどは数世代ともたずにあっという間に消え去り、新しいものと置き換えられてしまうのである。自分の祖父、祖母の世代のことを思ってみれば、それはすぐに理解できることだ。かつて私の「おばあちゃんの家」だった建物は、二軒とも、もう建て替えられて残ってはいないではないか。

 そう、古いものは失われ、新しいものが今はそこにある。しかし、と私はまたここで思い直すのである。ではその新しいものどもは、「歴史」とは無関係なのかと。無論、否だ。「日常」の気の遠くなるような堆積が「歴史」を形作るというならば、現代においてその堆積の最表面に薄皮のようにへばりつく新しきものもまた堆積の一部であり、即ち歴史の一部としてそれを形作っているのである。

 今、つまらない住宅地でしかないその場所は、三百年前の新田開発が、やっとのことで荒野から生み出した生活空間かもしれないし、コンクリートに護岸された近所のドブ川も、数世代にわたる必死の治水事業から生まれた水路なのかもしれない。都市部にせよ田園地帯にせよ何にせよ、それが人々の住む場所である限り、必ず、それは人々の長きに渡る営みの果てに獲得された人口空間なのでしかあり得ないのである。

 だとするならば、そこにあるものは、実は全て「史跡」と謂い得るのではないだろうか。そして、城跡や古戦場のような特別な出来事の「史跡」もまた、それらの全体性の内に捉えられてこそ、その「特殊性」の本当の価値を見出せるのかも知れない。


 4.今後のテーマ

 ただ、わたくし未だ史跡めぐり歴一年の初心者である。ここでこうして理屈をこねるばかりではなく、実地において、求める対象を見定め、見出し、確かな「史観」からそれを評価するようなことは、なかなかできるものではない、というのが実際のところである。まだしばらくは、観光案内にのっているような有名どころの「史跡」をカブでまわりつつ、面白いものに偶然突き当たることを期待するのがせいいっぱい、というところであろう。

 だが、これまでもこの方法によって、新たなテーマなり、私なりの発見なり、上に連ねてきた屁理屈の出所なりを見出してきたのであり、多分これからも、こうした行き当たりばったりの素人丸出しのやりかたのほうが楽しめるのではないか、と思われる。私の実家の前の幅4mの生活道路が、ほかならぬ古代の東海道であった、あんな「発見」を楽しめるのも、いってみれば素人の「特権」ではなかろうか。

 とはいえ、何の目的もなく走る、という訳にもいかないので、それなりの「テーマ」というものはやはり必要であろう。今のところは一応、これからは静岡県内の脇街道(脇往還)を主に走りつつ、徳川・武田よりも「地元ゆかり」の大名というべき、今川氏に関係した所を観てまわろうか、というつもりでいる。

 よって、よりローカル色の強い記事内容になってしまう可能性は大きいが、まあ、皆さんに地元静岡をご紹介する意味ぐらいはあろうかと思う。今後とも、どうかよろしくお願いします。



にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村

スポンサーサイト



PageTop

親バカ美術館 2

 広告よけがわりに。

 なかなか記事が書けずに、ひと月。そうこうしている内に、我が家の5歳の娘が、再びその画才を発揮してくれました。御覧ください。



IMG_0904_convert_20140531230627.jpg

 『アンパンマン』だそうです。上のちっちゃいのは、ドキンちゃんとバイキンマン。どっちがどっちかは、勿論、一目でわかります、よね? 間違っても、コロ助なんていってはいけません。娘におこられますよ(笑)。
 
 画伯の過去の傑作はこちら。
 親バカ美術館


PageTop

再開のご挨拶、あるいは、お詫びと言い訳



 最後の記事のアップロードからまるまる一年、文字通りこのブログは放置されておりました。なんだかカッコイイいいかたをさせて頂くなら、書けなくなった、からです。

 文章を書く、ということは、主体的、能動的なことであると、あるいは、そうある「べき」ものであると、私は思っている。その主体性、能動性を、この一年、どうやら私は失っていたのではないかと思う。

 それは多分、第一に仕事のせいだろう。いや、今の仕事が悪い、ということではなく(確かにひどく拘束時間の長い仕事ではあるけれど)、新しい仕事と、それに合わせた生活を新たに組み上げ、順応するために、私は、転職以前の「私」の有り様を変化させる必要があった。そのために自分を見失った、ということは、確かにありそうなことだ。

 あるいはまたそれは、このブログの性質そのものにも理由を見出せるのかも知れない。本来「読書ブログ」であった当ブログなのだが、この「本来の形」を維持するために、なんだか「書くために読む」ような読書をするようになってしまった。これはもう、私としては「主体的な」読書とは呼びたくはない。自分のためではなく、ブログになにやら書くために読むなんて、これはもう「作業」でしかない。

 勿論理由はこればかりではないのだろうけれど、一年前の私は、なんだか突然、ブログを書こうという気持ちを全く失ってしまったのである。そして、放置、ということになった。だがこの主体性、能動性の欠如というものは、単にブログが続けられなくなる、というばかりに留まらず、実生活にもまた、悪影響を及ぼした。その具体的なことは、まあ、これから順を追って書いていこうと思っているが。

 と、ざっくり書いてみたが、以上のことは、徹頭徹尾私自身の都合なのだが、こうして「ブログ」というものを遠ざけてしまったことの結果、いつも読みに来て頂いていた方々、そしていつも読ませて頂いていたブロガーの方々に、不義理なことをしてしまうこととなってしまった。それが、なんとも申し訳なく、本当に、お詫び申し上げたいと思っている。

 何にせよ、こうして厚顔無恥にも、ブログ再開、などという気が起こったのは、書きたいことが少なからず身の内に生まれてきたと、それが理由ではある。時間がないことは相変わらずなので、以前の通り忘れた頃の更新、なんて具合になりそうではあるけれど、とにかく、ひとつ、始めてみよう。みなさん、改めて、どうぞよろしくお願いします。

PageTop

日々思うこと 2

「細部(ディテール)」について考える

 二月も半分過ぎた。そろそろだな、ということで、先日、物入れから雛人形を引っ張り出し、飾り付けをした。しかし、我が家は狭いアパート暮らしである。基本的に「空きスペース」というものは、我が家には皆無である。おまけに、ふたりの子どもは、まだ「興味のあるものに、手を触れずにいる」ということが不可能な年齢であり、それどころか、下の息子などは未だ何でもかんでも口に入れてしまうような有様である。つまり、床に悠々優雅に飾る、なんて真似は間違ってもできない。

 そこで、仕方なく棚の上に飾った。床から130センチぐらいの高所に並ぶお雛様。何だかオカシイかと思ったが、意外に綺麗に飾れた。



IMG_0164_convert_20120217223827.jpg

 これを飾るのは三度目になる。豪華七段飾り、みたいなものは、場所も予算もないので買えなかったが、良いお店をみつけることができ、良い人形が買えたと、満足している。同じ店で、端午の節句の飾りも買った。静岡市内にある、左京さん、というお店である。
(ホームページはこちら。「左京」



IMG_0172_convert_20120217223855.jpg

 お内裏さまと、



IMG_0173_convert_20120217223923.jpg

 お雛さま。

 ところで、関東の方々には、「おい、お雛さまとお内裏さまの位置が逆だぞ」といわれそうだが、お店の方の説明によると、江戸と京では、並びが逆、なのだそうだ。で、左京さんは京風、ということで、我が家のお雛さまは、向って左ということになっている。静岡県は、よく東西の文化の境界だ、といわれる。静岡市は、基本的には関東寄りの文化なのだが(浜松は西寄りです)、時々こういう感じで関西も混じり込むこともあり、いろいろとヤヤコシイ。



IMG_0170_convert_20120217224010.jpg

 三人官女のひとり。私は、彼女が一番気に入っている。一番かわいらしい顔をしているのだ。

 静岡市には、お人形の店が多い。どうやら、徳川家康が晩年を過ごした駿府城の建設のために、江戸から職人をたくさん連れてきたことがその発端らしいのだが、その伝統が、なんと今日のプラモデル産業にまで続いている、というから驚きだ。静岡に、バンダイだのタミヤだのというビックネームをはじめとした、多くのプラモデルメーカーがあるのはこのためだ、というのである。

 その詳しい経緯についてはここでは割愛するが、こうしたミニチュアモデル、というものは、細部の精巧さ、というものによってその完成度を高めているのだなあ、と、雛人形を眺めていて、思った。いや、精巧さ、というよりは、丁寧さ、とするべきなのかもしれない。その造作のひとつひとつに、まず職人の気持ちが込められるとき、初めてその結果として、精巧さというものは生まれるのだろうから。

 勿論、全体としての完成が最終的な目的なのであり、細部ばかりが個々で目立ってしまって、それらのあいだに調和が失われてはいけない。しかし全体のために細部を犠牲にしては、やはり全体は完成されない。この辺りの造形美術の妙について、我が家の雛人形は大いに考えさせてくれた。そしてそれは、近所に散歩に出掛けたときにまで、ある視点を私に与えてくれたようだ。

 私はこれまで、どうも細部(ディテール)というものを疎かにしてきたように思う。例えば本を読むときも、細かい描写よりは、作品全体が何をあらわしているのかを重視してきたし、また風景を眺めるにしても、それを形作る木立だとか建物だとかよりも、全体から得る印象を、という具合にだ。

 先日暇つぶしに海辺に遊びにいったときも、私は水平線の方を見渡しなどしていたのだが、しかしもうじき三歳になる娘は、海を眺めるよりも、足元の小石のほうが気にかかるらしい。



IMG_0124_convert_20120217224050.jpg

 私にとっての「海の景色の記憶」。



IMG_0002_convert_20120217224116.jpg
 
 こちらが、娘にとっての「海の思い出」。(デンデン石、と名付けられ、彼女の宝物となった。どうも、でんでん虫と似ている、ということらしい。)

 なるほど、と思う。本来、冬の駿河湾の寒々と波立つ様も「海の風景」ならば、足元の小石もまた風景の一部なのであり、そのどちらが重要か、ということではないはずなのだ。そこで、普段見慣れた近所の散歩コースの景色においても、意識して「細部」をよく観るように気をつけてみた。

 特に目新しいものがある訳でもなく、ごくごく当り前の物が、幾つも幾つも組み合わさって形作るもの、それが街の風景というものだ。だが、そうした当り前の「細部」を眺めていると、なんとなく、それがそこに「ある」、ということの意味について、何やら不思議な感じがしてきた。

 建物そのものだとか、駐車場の車だとかいうものは、勿論、誰かが意図して、そこに建てたりだとか、停めたりだとかされている訳だが、しかし考えてもみれば、私の家の近所のような郊外の住宅街にあるものは、ほとんど全てが、誰かの、何らかの意図なり意思なりによって、そこに「ある」のだ。「止まれ」の道路標識も、玄関先の鉢植も、軒下の吊るし柿も。

 そればかりではない。何のためにかフェンスに結んであるヒモの切れ端だとか、家と家の間の狭い狭い隙間に横たわったまま何年も経った竹竿だとか、コンクリートブロックの穴に押し込められた空き缶だとかいった、最早誰も気にもとめないような、何の意味もなくそこにあると思われるようなものも、やはり誰かの何らかの意図によってそこにあり、そしてあり続けているのであり、さらにいってしまうならば、風に吹かれて飛んできた駐車場の隅の破れ傘なども、偶然そこにあるともいえるが、しかし誰かが意図的に「見て見ないふり」をしているからこそ、いつまでもそこに「ある」、ともいえるのだ。

 こんなことを考えながら、街の「細部」を眺めていると、そこに重なり合った、数限りない人びとの意図というもの、意思というものの存在が、何やら途方もなく大きな「何か」を形作ろうとしているかのように思えた。「何か」とは何だろう。「歴史」か?

 そしてこんな具合に、一見何でもないようなものでも、そこに「ある」ということには意味があるのだ、ということを意識してから、さて、もっと明確な人間の意図というもの、「意匠」というべきほどに強く指向性をもった意思というものによって生み出され、さらには、明らかにその「保全」を意図されてそこにあり続けているようなものを、改めて観るとき、そうしたものが「ある」ということのもつ強い「意味」に、気付かされることになる。例えば、普段から子どもの遊び場としている、小さな神社の造形物などだ。


 
IMG_0179_convert_20120217224152.jpg

IMG_0178_convert_20120217224324.jpg

 社殿の屋根瓦にみえる紋。なにごとかを象徴するこうした紋章を、他ならぬ「ここ」に据え置くことが生む「意味」が、この神社というものの聖性の、幾分かを担う。そしてまた、私はヘルマン・ヘッセの『デミアン』の、ある場面を思い出す。主人公の家の門のうえにあった、しかしそれまでは特に気にもとめられなかった古い紋章について、デミアンは、「ああいうものは非常に興味があることがおおい」のだといい、やがてそれは、アプラクサスという古い神のイメージへとつながっていく。

 そう、何なのかよくわからないが、しかしいかにも何らかの意味のありそうなものが、実際、この神社にもそこかしこにあった。普段、それがそこに「ある」ことは知っていても、とくに意識して見てはいなかったものを、よく見てみると、なるほど、面白い。



IMG_0183_convert_20120217224400.jpg

 石に穿たれた穴。荒削りではあるが、決して簡単な、気まぐれな仕事では、こうしたものは作れない。石に穴を掘るにはそれなりの労力が必要であり、そうした労力は、明確な目的がなければ得られない。さて、この石は何のためにこうした形を与えられ、ここにあるのだろうか。残念ながら、私にはわからない。



IMG_0185_convert_20120217224430.jpg

 右の石には「御大典紀念」、左の石には、「昭和参年拾壱(?)月拾日」らしき文字(判読が難しい)。何かを記念した石碑、ということらしい。

 こちらは、もっと古い。



IMG_0187_convert_20120217224454.jpg

 先の石碑のものよりもさらに読みづらいが、「明治」の年号は確かに読める。

 こうしたものが何であり、なぜここにこうして立てられているのか、もし知り得たならば面白いだろうなと思う。



IMG_0181_convert_20120217224524.jpg

 ご神木の根元に。中は空である。いつから、何のためにここにあるのか。確かなのは、これらのものは、厳重に保護されている訳ではないが、しかし誰も手を触れたり汚したりなどしようとはしないという形で、つまり「無関心な尊重」とでもいうべき方法で、大切にされている、ということである。ただ、放っておかれる。だがそれらは、我々の内の誰よりも長く、ここにあり続ける。

 なるほど、細部か、などとひとり頷きながら帰宅すると、妻と子どもたちが、こんなものを作って待っていた。



IMG_0105_convert_20120217224608.jpg

 これは・・・。ディテールというものが蔑ろにされながら、いや、かえって細部を極端に単純化したために、こんなものがしっかりと「ひな飾り」として存立し得ているのか。右端のものの顔は娘が描いたらしいが・・・ちゃんと顔に見えるから不思議だ。

 うぅむ、「細部」とは、なんと奥深いものなのだろうかと、またしても考え込む私であった。

PageTop

ごあいさつ

500拍手記念かきこ。


ブログを始めて一年。なんと、皆様からいただいた拍手が500個になりました。

この拍手、飽きっぽい私の、ブログを続けていく上での大きなモチベーションとなっております。

本当に、皆様、ありがとうございました。

そして、来年もまた、お付き合いくださいませ。

それでは。



PageTop