乱読乱文多謝

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブで史跡めぐり 56


 小島陣屋


 前回の「横山城址」から、国道52号線を北上すること1km足らず。「小島南」の信号を左折すると、




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 「酒瓶神社」がある。その先に、




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 こんな小さな案内表示があるので、それに従って細い路地へ。




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 すると、この「小島陣屋跡」の「大手門跡」に辿り着く。早咲きの河津桜が美しい。地図で確認。




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 現地の解説文に、こうある。


  駿河中東部唯一の大名として庵原・有度・安倍・三郡にわたる三十カ村を統治した小島藩壱万石の藩主瀧脇松平氏が、宝永元年(一七〇四年)ここに陣屋を構築、以来百六十余年間、藩政の中心地であった。


 「陣屋」とは、二万石以下の、城を持つことを許されない所謂「無城主格」の大名の居館、藩政の本拠のことを主にいう。そして「大名」とは、江戸時代においては一万石以上を拝領する藩主のことをいう、というから、瀧脇松平氏は大名としては最も小さい部類、ということになる。

 ということで、この陣屋跡というものは、武家屋敷のちょっと立派なもの、ぐらいに考えていたのだが、実際に観て、驚いた。




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 現地の見取り図。何はともあれ、見に行こう。




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 大手門あたりの石垣。さすがに近世の石垣は綺麗である。




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 ここから内部へ。




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 建物の類いは残されておらず、あるのは石垣だけななのであるが、その石垣が、すごかった。




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 もう語るまでもない、すばらしい遺構である。その規模も迫力があって圧倒される。全体で約5000坪あるという。天下太平の江戸時代のものであるから、戦国期の山城等と違って、その歴史には合戦など語るべきドラマチックなエピソードはあまりないのだけれど、観に行く価値は十分にある史跡である。




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 井戸も。




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 ここなどは、角にきっちりとラインを彫ってあるのがわかる。この石垣が積まれた当時はどれほど美しかっただろうかと、嫌でも想像がふくらんでしまう。




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 これは、北側、つまり搦手側の道沿いの河津桜と菜の花、そしてミツバチ。この日、風は未だつめたいものの、陽光には春の気配が感じられる暖かさがあった。




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 陣屋跡内にも、河津桜がみられた。私は春霞のなかのソメイヨシノが好きだけれど、この色の濃い河津桜の花と、冬の澄んだ青空とのコントラストもまた綺麗なものである。

 全体に、なんだかしっかりと草刈りがしてあるなあ、と思っていたら、地元の「文化財を守る会」の方々が、皆で草刈りをされている最中だった。ありがたいことである。そのなかのお一人が声を掛けてくださって、いろいろ教えてくださった。荒れてしまった横山城址へ行ったすぐ後のことだったから、なおのこと、ああいうボランティアの方々の有り難さが身に染みた。

 さて、一通り回り終えたので、再びカブに乗り、国道52号線に戻り、山梨方面に数百m。すると国道沿いに、




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 「小島陣屋御殿書院」。




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 小島藩一万石は幕末まで存続したが、明治元年に瀧脇松平氏は上総に転封となった。その後の陣屋の建物は小学校の校舎などとして利用されてきたようであるが、その小学校も昭和三年に移転となり、取り壊されてしまった。しかしこの書院の建物だけはその際に地元に払い下げられ、移築、こうして現存しているという訳だ。残念ながらこの日は中の見学は出来なかった。

 さて、そろそろ帰路に、といいつつ、もう一カ所寄り道。52号線を静岡方面に南下することまたしても数百m。すると右手にあるのが、




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 この龍津寺。臨済宗妙心寺派のお寺。




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 ここもまた、河津桜が彩る。




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 こちらは、小島藩三代藩主、松平昌信公のお墓。

 さあ、そろそろ帰らねば。今私は仕事をしていることになっているのである。女というものはカンのいい生き物なので、なんだか、あんまりゆっくりしていると妻に感づかれそうな気がしてならない。そろそろあったかくなってくるだろうし、だんだん日の出の時間も早くなる。「早朝お散歩ツーリング」には良い季節になってくるという訳だ。やはり、こんなセコい方法よりも、早朝に行くことにしよう(笑) それでは。




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カブで史跡めぐり 55


 横山城 その2





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 この横山城址、先日紹介した『静岡県の歩ける城70選』によると、


 城跡は農地としてよく保存されているが、現在は放置されて荒廃している。このため城山への登り口以外は見学が困難な状況にある。(85ページ)


 とのこと。その登り口からしてかなり急峻な坂道であり、不安を覚えつつも、まあ行けるところまでいってみよう、というつもりで城跡に踏み込む。




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 いきなり、こんな感じ。まるで、「トトロ」の一場面を思わせるような、薮のなかのトンネル。しかし、道はあるので進んでいく。




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 ここは、「土橋」らしくもみえるが、どうだろう。




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 この辺りの地形も人工的。遺構だとしたら、たぶん上掲図の、階段状の「小曲輪」辺りにあたる、と思う。




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 急に開けたところに。この辺りが「西曲輪」か。相変わらずの深い薮だが、道は続いている。




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 お、行き止まりか、と思いつつ進めば、




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 やっぱり道はある。




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 これも道(笑)。崖をよじ上るような道だが、実際にみると、道は意外にはっきりわかる。




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 また開けた場所に。どうやらこの辺りが一番高い場所になるようだ。つまり、「本曲輪」はここだろう。




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 わかりにくいが、左側の盛り上がりは「土塁」の遺構らしくみえる。




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 ただ、いよいよ薮は深くなり、先へ進む道は失われた。この先にも、曲輪が尾根伝いに続いているはずなのだが。




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 こんなものが。これは、収穫したみかんを乗せて山から降ろすときなどに使うモノレールみたいなトロッコみたいなリフトみたいなもののレール(正しくはなんて名前なんだろ)。みかん山ではよくみられるものなので、「農地」とはみかん畑のことだったようだ。しかし、それも薮に埋もれている。農地としてもまた、放棄されて久しいのだろう。




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 「本曲輪」北側伝いに、道(これでも)をみつけたので進んでみる。




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 しかし道はすぐまた薮のなかにきえてしまった。みつかったのは、これだけ。「二の曲輪」の方へは行けなかった。ということで、そろそろこの探訪は終わりとしましょう。思ったよりは歩きやすかったけれども、荒れていることは確かであった。たぶん、夏場に来たら、草はもっと茂っているだろうし虫やなにかはたくさんいるだろうしで、こんなにすんなりとはいかなかっただろう。あるいは、一番よい季節に来たのかもしれない。史跡としてもう少し整備されたら嬉しいのだが。

 永禄十一年(1568年)十二月十三日、あっという間に今川氏真から駿府を奪ってしまった武田信玄だったが、素早かったのは北条氏政の後詰めも同じことで、その同じ日にはもう薩埵峠は北条軍が押さえてしまった。無論これは信玄も想定していたことだったろうし、それだからこそ、駿府攻略を急いだ部分もあっただろう。信玄はこの横山城を奪取するとすぐさま改修を始め、それを重臣穴山梅雪に守らせる。駿河と甲斐とをつなぐ、武田にとっては唯一の退路である身延街道の、入り口を押さえるこの城は、何としてでも守らなければならなかったのである。




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 この地図でわかる通り、北条陣が取った薩埵峠と、この武田の生命線たる横山城とは、興津川を挟んでまさに眼と鼻の先の距離にある。この城を押さえることに成功した信玄は、辛くも本隊を甲斐に撤退させることできたが、薩埵峠の北条軍と横山城の武田軍とは、何度も小競り合いを繰り返した。その膠着状態は結局、永禄十二年(1569年)の十二月になって再び信玄が駿河に侵攻するまで続いたようである。

 その後の横山城はというと、天正十年(1582年)の武田氏の滅亡とともに廃城となったという。駿河における戦乱の終焉は、「戦う城」である山城の役割の終焉でもある、ということはここでも同じであったということだが、この東海道と身延街道との分岐点の、「交通の要衝」としての重要度には変わりはなかった。あるいはそのことを示すともいえそうな史跡が、この近所にあるので、次回、そちらをみてみましょう。それでは。





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カブで史跡めぐり 54


 横山城 その1


 薩埵峠という、海岸線にまで迫った山塊がそのまま海にこぼれ落ちるような東海道の難所の、西側。古代の律令時代にはすでに駅が置かれ、徳川の五街道整備後には十七番目の宿場の置かれた興津は、この難所の存在ゆえに重要視された、ばかりではなかった。海に面した駿河と、山を越えた北方の内陸にある甲斐とをつなぐ「身延街道」が、この興津から発していたのである。




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 地図でみると、こんな感じ。地図の中央を南北に伸びる国道52号線が、かつての「身延街道」の後身、ということになる。

 この街道が、いつから「身延街道」と呼ばれるようになったのか。その名の由来は、現在の山梨県南巨摩郡にある「身延山久遠寺」への「巡礼の道」として利用されるようになったから、だろう。よって、早くても日蓮宗の宗祖日蓮が久遠寺を開山した弘安四年(1281年)より以前には遡らない、ということになる。しかし街道自体はそれ以前からあったはずだろう。そうでなければ久遠寺が身延に建てられることもなかったはずだから。

 そう、「巡礼の道」としての役割は、この街道のいわば「後付け設定」なのであって、もともとは、上記地図を一見すれば容易に想像できる通り、駿河湾沿岸部と内陸部とをつなぐ「通商の道」、すなわち「塩の道」としての役割こそがその第一義的な役割であったと考えるべきだろう。無論それは、「巡礼の道」としての役割が生まれた後にも変わることはなかったはずで、江尻津(現在の清水港)の発展もまた、その「通商の道」としての重要性を強めていったと思われる。

 だが乱世においては、更なる役割が加えられた。殊に駿河の奪取をねらう武田信玄にとって、この街道は実に重要な意味を持つこととなったといえるだろう。

 駿河と甲斐との国境を形作るのは山々の連なりである。それも並大抵の山ではない。大雑把にいうならば、その山々とは南アルプスと富士山である。この3000m級の山々を、武装した軍勢が越えることはまず不可能である。しかし、海を持たない甲斐の国の信玄、まずは日本海を目指すも、宿敵上杉謙信に阻まれてしまった信玄にとって、その南アルプスと富士山の間を抜けてまっすぐ駿河湾へと続く身延街道は、念願の港を得るための希望の道であった。

 桶狭間における今川義元の討ち死にの後、弱体化する今川氏に対して、敵対的な行動を取り始めた信玄。義元のあとを継いだ氏真は報復として「塩止め」を行う。こうしてそれまでの甲、相、駿の三国同盟が破綻、永禄十一年(1568年)末に、ついに信玄は大軍を率いて身延街道を南下、越境した。

 その後の武田の駿河侵攻については、先日、蒲原城址を観にいったときの記事に少し詳しく書いたので、そちらを読んで頂けると嬉しいが(こちら「カブで史跡めぐり 43・蒲原城、再訪」)、とにかく、電光石火の早業で氏真を駿府から追い出した信玄であったが、今川支援に動いた小田原からの北条の後詰めに背後を突かれる形となった。

 このときの、武田、北条両軍の位置関係を、地図で確認してみる。




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 東から進軍してきた北条軍は薩埵峠までを押さえた。こうなると、もし北条がさらに興津まで進出してきてしまったら、興津の西側の駿河中心部に展開した武田の軍は完全に退路(つまり身延街道)を失ってしまうことになる。いくら氏真を追い出したとはいえ、駿府以西には未だ今川の勢力が生きていたのだから。この駿河侵攻、信玄にとっても大きなギャンブルであった、ということがよくわかる。今川から駿府を奪うことには成功した。しかし、生きて甲斐に帰らなければ、そのギャンブルに勝利した、とはいえないだろう。

 そこで俄然重要度を増したのが、今回訪れた横山城であった。地図を観て頂ければ一目瞭然、東海道と身延街道との交差点から、北へわずか3km、いったところか。つまり、この城を守り通せるか否かによって、駿河にいる武田勢の命運が左右されることとなった訳である。




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 もう少し詳しい地図。国道52号線から、「清水冷飯」という会社を目印に裏路地にはいったところに、城跡はある。この日、2月末の土曜日。月曜の仕事の準備のためにちょっとだけ職場にいかなければならなかったのをいいことに、カメラ等々史跡めぐりグッズをこっそり持ち出し、そのちょっとした作業はさっさと終わらせて、パパは今日も仕事しているんだ大変だねと思っている女房子供はほったらかしたままにここへ来てしまった酷いボンクラ亭主。よって今回は「早朝」じゃありません。11時ぐらい、かな。




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 ここが、入り口になる。駐車場はないので、歩いてくるか、カブで来るのが正解(笑)




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 例によって、現地の全体図を。今回は見やすいでしょ?(笑)




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 上掲図の通り、城跡の前の細道が、旧身延街道、ということになる。




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 古い道標もある。その旧道を少し進んでみると、




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 こんな感じ。この旧街道も、是非カブで走ってみたいが、それはまたいつか。




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 こちらは、図でいうところの、山の麓の「居館跡」。以下、ちょっと長いが、現地の解説文の前半部分を転載する。

 
 この城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(または近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎、「承久記」に興津左衛門の名があり、始めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上方上野郷の地頭も兼ねていたことが「大石寺文書」に見え、今川氏が駿河守護として入部以来はその被官となった。
 延文年間(一三五六〜六一)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き、山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。連歌師の宗長は興津氏と親交があり、しばしばこの城を訪れ。数首の歌が「宗長日記」に残されているが、大永五年(一五二五)の項には「興津横山の城にて、春の雲のよこやましるしなみの上」と記されている。そして永禄十一年(一五六八)十二月、甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで、興津氏代々の居城であった。






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 入り口の石碑。




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 石像も古そう。




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 梅も咲いていた。では、いよいよ城内へ、というところで、次回に続く。




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『静岡県の歩ける城70選』

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 静岡新聞社 『静岡県の歩ける城70選』 加藤理文編著 
 ISBN978-4-7838-1984-4

 
 過去の記事にも幾度か書いているが、私の最近の城跡への興味は、元々は古い街道と、その沿線の史跡への興味から発した、いわば副産物のごときものであった。

 ようするにそれは、なりゆきでいつの間にやら始まってしまったもので、各城址の系統立った探訪どころか、ろくな下調べもせず、「堀切」の何たるかも現地の説明書を読んで初めて知るような有様のまま、あ、城跡がある、行ってみよう、という調子で、行き当たりばったりに行われてきた訳だ。

 こうした素人丸出しの方法にも、それなりの楽しみというものはあり、私もそれを自覚した上で楽しんできた部分もあるのではあったが、こうした方法だと、当然ながら、眼につかない城跡などを見落としてしまう、という欠点がある。

 諏訪原城だとか、高天神城だとかいった、有名どころは嫌でも眼に入るのだが、そうでない小さな城跡、というものはある。そうした城跡のすぐそばを通過しながら、知らないばっかりに立ち寄らずにすませてしまった、なんてことが幾度か続いた。

 そこで、そろそろ、というかもう遅きに失した感もあるが、何か一冊城についての本でも買って、それである程度の情報収集を事前に、などと考えて本屋さんに出向くも、なかなか良い本がみつからない。

 「名城100選」的な、全国区のカタログのようなものには、良さそうなものも幾冊かあったのだが、なにぶん、私の史跡めぐりは、「スーパーカブ110で」という縛りがある、という事情がある。これもまた、そもそもは旧街道めぐりから始まった、というところから生じたものではあるが、ようするに、そうした全国版では、対象が広すぎるのである。

 全国に一体幾つの城跡があるのか知らないが、対象が広すぎると、そのほとんどが県外、つまりスーパーカブで行くのは現実的でない遠方の城跡ばかりで、その上、掲載された数少ない静岡県内の城跡は、既に行ったことのあるような有名どころばかり、ということになってしまう。さらに、そうした本はカラー写真満載で非常に高価なのである。貧乏な私にはこれはなかなか厳しいものがある。

 そこで眼をつけたのは、地元静岡のことについて書かれた本がまとめて置いてあるようなコーナーであった。そして、市内のオシャレなカフェだの、方言を集めたものだのが載っている本の並びのなかにみつけたのが、この『静岡県の歩ける城70選』であった。

 これはもう、題名の通り対象は静岡県内の、すなわちスーパーカブの守備範囲になんとか入る城跡のみが対象であるから、全く無駄がない訳である。さらには、こうした地方限定の本は、ほぼ例外なくお値段が安いのである。この200ページ、オールカラーの本にしても、1800円であった。これは有り難い話である。

 そして、静岡県内の城跡、これまた一体全部でどのくらいあるのか知らないが、70、というのは大した数である。目次に並んだ城跡の名前の内、すでに行ったことのあるものをざっと数えてみると、まだ20カ所ほどであった。これでしばらくは、ブログのネタにも困らない、という訳である。

 ということで、そろそろ季節も良くなってくるので、この本を参考に出掛けてみようかというつもりでいる。最近はなんだか県西部にばかり行っている気がするので、そろそろ、東部、できれば伊豆半島にも行きたいとは思っているのだけれど。日の出が早くなれば、それだけ、我が「早朝お散歩ツーリング」も遠方まで足をのばせる、というものである。乞う、御期待ということで、それではまた。

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カブで史跡めぐり 53


 手越川原古戦場

 
 前回行った「持舟城(用宗城)」は、JR東海道線の用宗駅のそばちかくにあった。その用宗駅から東にひと駅、安倍川駅の近所に、「みずほ公園」という公園がある。地図で確認すると、




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これが、用宗駅と、持舟城址と、安倍川駅の位置関係。




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 そして、「みずほ公園」の位置。城跡のすぐ近所だね。余談だが、このあたり(みずほ、という街)に、私は独身時代、そして結婚後も子供が産まれるまでは暮らしていた。とても暮らしやすい街であった。




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 「みずほ公園」。ひろくてとても綺麗な公園ではあるが、ま、普通のなんてことのない公園である。しかしここに、




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 こんな石碑がある。「手越河原古戦場碑」。

 小さいほうの石碑に彫られた「由緒」書きによると、いまは住宅地であるこのあたりは、全体に安倍川および藁科川が流れる広大な河原だったという。その河原で、大きな合戦があった。

 元弘三年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出、京に戻る。そしてそれまでの武家政治を積極的に否定し、親政をもって国を治める所謂「建武の新政」を始めた。

 しかし北条氏も、完全に滅亡した訳でも、後醍醐天皇の御親政なるものを黙ってみている気でもなかったようだ。建武二年(1335年)七月下旬、最後の得宗北条高時の遺児である、時行が信濃で挙兵、鎌倉を攻略、奪取した。鎌倉にいた足利直義は西へ敗走するが、後醍醐天皇の制止を無視して京を出立した足利尊氏の軍と三河で合流、そのまま東へとって返し、いくつかの合戦を経て、八月中旬には鎌倉を奪い返した。この一連の戦乱が「中先代の乱」である。

 この出来事を機に、今度は後醍醐天皇と、足利尊氏・直義とが敵対することになる。鎌倉に居座り、公職の任命や土地の分配といった、「武士の棟梁」的なことまでも独自に始めた尊氏に対し、後醍醐天皇は堪忍袋の緒を切らし、同年十月、「朝敵」足利尊氏追討を新田義貞に命じる。

 これを迎え撃ったのが直義で、十二月五日、両軍は駿河のこの手越川原において合戦を繰り広げた、という次第だ。この「手越川原の合戦」は、新田義貞すなわち後醍醐天皇方が勝利したのではあったが、この後、時代は尊氏による室町幕府の樹立、そして南北朝時代の混乱へとつながっていく訳である。

 で、その「手越河原の合戦」のときの、新田義貞が本陣を張った場所、というのもこの近所にある。これは以前にも行ったことがあったが、ついでなので今回もまた寄ってみよう。上記地図にある通り、安倍川駅の西側、丸子川のほとり、長田街道の橋が掛かる辺りにある。近所に「キルケゴール」という、やけに哲学的、実存主義的な名前の喫茶店があるので、それが目印になります(笑)。




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 この小さな石碑がそれ。これも以前に書いたが、この周辺は、第一子が生まれて、みずほのアパートが手狭になったために、この近所の寺田という町に引っ越した我が家の、お散歩コースだった。その頃はこの石碑の前の川沿いの道は、まだ舗装されていなかったが。この町も、とても住みやすかったなあ。

 さて、「持舟城址」に行った帰りの寄り道も、このへんで終わりにしましょう。それでは、また。




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