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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブで史跡めぐり 60


 山中城、再訪 その2


 武田の築城には顕著な特徴がみられる。例えば、「丸馬出し」と「三日月堀」の組み合わせである。それは一般に「武田流築城術」などと呼ばれる。諏訪原城などに、それは確認することが出来る。





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 これが、その諏訪原城の見取り図。半円形の馬出しと、それの前面に掘られた三日月形の堀がよくわかる。




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 これは田中城。これはもう、武田の築城以外には考えられないような形である。とにかく、武田の城は「丸い」のが特徴のようだ。

 今回訪れた山中城は、北条の築城の特徴がよくわかる城跡であるという。




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 例えば、この「畝堀」である。前回は、この「一の堀」などがある「岱崎出丸」をみてまわった。今回は、




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 この「右半分」、城の中核部をみてみよう。こちらにも、どうやら北条の築城の特徴がみられるようだ。




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 「岱崎出丸」から、駐車場のところで道路を渡ると、この「三の丸堀」のところから、城跡内に入れる。写真右手に「三の丸」があるのだが、そこへはここからは入れないので、後ほど。




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 「三の丸堀」に沿ってしばらく行くと、この「田尻の池」がある。城内の水を確保するための、重要な施設。この貯水池の水は、馬に与えていたと推定されているらしい。降雨等で増水した際には、「三の丸堀」に流して排水していたという。どちらかというと雨が多く、水不足よりはむしろ水浸しになることの方を警戒すべき箱根という土地柄故、なかなか合理的な造りである。この辺りで、北に向かっていた城の外周に沿った道が、ぐっとまがって西へ向きをかえる。




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 その道なりに進んで、とりあえずは城の西端まで行ってみる。




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 その途中に、「元西櫓下の堀」。




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 ここが、城の西端の「帯曲輪」。富士山が背後にみえますね。上掲図の、一番上のあたりである。




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 良い眺め。前回も書いたが、眺望の良さは山城の生命線である。




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 城の西端、「西木戸」。城の構造としては、こちら側から敵が攻めてくることを想定しているようだ。では、ここから東へ、城の中枢部へ向かう形でみていこう。




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 西端の帯曲輪は、この堀によって「西櫓」と隔離されている。ここも、深い堀の底に畝を並べた「畝堀」が、綺麗に復元されている。




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 ここが「西櫓」。




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 ここでは、堀立柱建物の柱穴と考えられる穴が二十カ所、発掘されている。




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 そしてこちらが「西の丸」。




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 その「西の丸」から、先ほどの「西櫓」をのぞむ。ここまで曲輪が三つ、西から東へと直線的に並んでいる訳だが、それぞれの曲輪は、深い堀で区切られ、囲まれている形だ。その堀の様子を、まとめてどうぞ。





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 この四角く区切られた堀は、「障子堀」と呼ばれ、これまた北条氏の城に特徴的なもののようだ。この辺りの堀は全て見事に復元され、その形を保つために芝が張られているが、本来は無論、土壌が露出していた訳だ。その土壌とは粘土質の所謂「関東ローム」であり、この深い堀にはまり込んだ敵兵は、ずるずると滑る足場に四苦八苦したはずである。




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 堀の形のみならず、曲輪の形にもまた「北条の城らしさ」がみられるという。それを示したのがこの図である。武田の「丸馬出し」に対し、こちらは「角馬出し」と呼ばれる。

 以上が、東西に長いこの城跡の、大体西半分である。残りの半分、すなわち東側の城の中枢部については、次回に。



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カブで史跡めぐり 59


 山中城、再訪 その1





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 四月中旬。久々の史跡めぐり、やってきたのはここ、山中城址である。




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 場所はここ。三島市から国道1号線を東へ、箱根峠を目指して登っていくワインディングロードの半ばあたりである。

 山中城址には以前にも立ち寄ったことがある。旧東海道を辿りつつ箱根峠を目指した途上において、である。しかしこれは最近行った諏訪原城や蒲原城と同じく、当時はまだ街道にばかり気が向いていて、城跡にはあまり興味を惹かれていなかったため、ちょろっと寄っただけ、みたいな扱いをしかしなかった。

 しかもその際、私はカメラのバッテリーを家に忘れてくるという致命的なミスを犯したことは、そのときの記事に書いた通りである(こちら。「カブのこと 17・箱根」)。おかげでその記事は一読して私の「やる気のなさ」がまるわかりな内容となっており、壊れかけのiphomeで撮った写真共々、自分で読み返しても「これはちょっと」という酷い記事になっている。なので、ぜひとももう一度来たいと思っていたのである。

 


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 早速、現地の見取り図を。とても広い城跡である。くねくねとのした広い道は国道1号線で、左が麓、すなわち三島方面であり、右が箱根峠方面である。中央の赤丸が現在地である駐車場になる。




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 駐車場のすぐ横を、旧東海道が通っている。つまり、この城は峠越えの街道を取り込む形で築かれている訳だ。ではまずは、上掲図の左半分、「岱崎出丸」の方から観てみよう。




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 その「左半分」。広大ではあるが、これ全体が「出丸(出城)」になる。「岱崎出丸」の名前は、この辺りの地名から名付けられたようである。




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 入り口付近。この城跡は、全体に史跡公園としてほぼ完璧に整備されている。なので、よくある「山城跡」を観に行くつもりで訪れると、少々驚かされることになる。が、整備された綺麗な道だとはいえ、全体を廻ろうとすると結構な距離を歩くことになるので、やはり山城見学に相応しいような靴を履いていったほうがよさそうである。




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 この辺りが「出丸御馬場跡」。この曲輪は、堀によって南北の二段構造になっている。かなりの広さがある。




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 その、曲輪を二つにわける「出丸御馬場堀」。堀の底を分断するような盛り上がりがみえる。この「畝」のある堀を、「畝堀」といい、これはこの山中城の特徴のひとつを形作るものである。




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 この「一の堀」においては、その「畝堀」を綺麗に復元されている。「岱崎出丸」の西側、すなわち街道側全体に伸びており、迫力がある。空堀というものは、敵がその底を移動する通路に利用することもできてしまうので、それを防ぐために、この「畝」が設けられる。堀自体にかなりの深さがあるので、この仕切りの間にはまりこんだ敵兵は、城兵にとっては絶好の獲物となったことだろう。




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 ここが、「岱崎出丸」の最南端にある「すり鉢曲輪」。ごらんのとおり、真ん中のへこんだすり鉢状になっていることから、この名で呼ばれる。




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 その東側に隣接するのが、この「武者だまり」。ここは城の南の最前線にあたるので、やはり防御はきっちりと固められているようだ。




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「すり鉢曲輪」の西側にある、「すり鉢曲輪見張台」。




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 その見張台からの景色。雪をいただいた美しい山は勿論、




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 富士山である。前回はiphoneのカメラしかなかったので、「一眼レフならもっと綺麗に撮れたのに」なんて泣き言を書いた。よって今回は一眼レフで、もうちょっと大きく撮ってみる。




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 どうでしょう。私の技術ではこれが精一杯です(笑)。

 しかしこの眺望は、小田原を攻めんとする西からの敵を食い止める、という重責を担うこの山中城にとって、きわめて重要なものであったことだろう。

 山中城は、関東の雄、後北条氏が、永禄年間(1558から1570年)に築いたとされる。「桶狭間の戦い」が永禄三年(1560年)、武田・今川・北条の三国同盟が破綻して、信玄の最初の駿河侵攻により今川氏真が駿府を追われたのが永禄十一年(1568年)末であるから、北条氏としては、駿河から小田原へ抜けるには足柄峠経由よりも距離を大幅に短縮できるこの箱根峠に、堅固な山城のひとつも築いておきたくなるような時代背景であった、とはいえるだろう。

 標高580mにあって箱根峠を固め、北条の本拠たる小田原を守るこの山城が重要視されていたことは勿論であるが、実際の危機に直面し、その重要度が最高潮に達したのは、やはり天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による「小田原攻め」の際であった。以下、またしても小和田哲男氏の『戦国静岡の城と武将と合戦と』を参考にして、この辺りの経過を簡単に辿ってみる。

 徳川家康の秀吉への臣従が天正十四年(1586年)、その翌年には秀吉は九州を平定している。天下統一事業の完成を目指す秀吉は、いよいよ、関東の北条に眼を向けることとなる。

 北条氏政・氏直親子が、最終的な落としどころをどこに見定めていたのかはわからない。ただ少なくとも、簡単に豊臣に屈することはしなかった。家康までが交渉役として引っ張りだされた後に、ようやく氏政の弟である北条氏規の上洛までは実現したが、それでも結局、北条が豊臣に臣従を誓うことはなかった。一方の秀吉にしても、直ちに北条を攻める大義名分がある訳でもなく、両者の関係は緊張したまま膠着状態に入った。

 北条は秀吉との戦を想定し、それに対する備えを整えはじめる。有名な小田原の所謂「惣構え」の構築も、どうやらこの頃のようである。そして、駿河および伊豆との国境の守りを固めるために、足柄城、山中城、そして韮山城の改修、補強をしたのだが、なかでも、その防御線の中心に位置し、なおかつ、東海道をまっすぐに東進してくるであろう秀吉軍を正面から迎え撃ち、箱根峠を守ることとなる山中城については、とくに力を入れて増強した。

 「岱崎出丸」は、その全体がこのときに造られたようである。史上稀にみるような大軍勢をもって、秀吉が攻めてくるであろうことは当然予想できたから、それに対抗するための備えも、並大抵のことでは不十分であった、ということだろう。この出丸だけでも、一般的な山城ひとつ分ぐらいの規模は十分にあり、なおかつ、大軍の攻勢に対抗できるよう、大勢の守備隊を収容できるような造りになっていることは素人目にも明らかである。

 しかしその造成は、結果的には間に合わなかった、ということのようである。




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 このあたり、発掘調査によると、どうやら曲輪が造りかけのままになっていたという。こうした場所は、他にもみられたようだ。

 決戦のときは、いよいよ間近に迫りつつあった。それでは次回、城の中核を見学しつつ、その後のことを追ってみましょう。


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カブで史跡めぐり 58


 旧瀬名村にみられる瀬名氏の足跡 その2





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 「瀬名館」跡から、西へ少し行くとすぐに梶原山という小さな山にぶつかる。その麓にあるのが、この「清涼山光鏡院」というお寺。




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 このお寺は瀬名氏の初代一秀が、長享二年(1488年)に建てたもの。文亀三年(1503年)に七十二歳で亡くなったという一秀自身も、ここに葬むられた。永禄十一年(1568年)の武田信玄の駿河侵攻の際、このお寺は焼かれてしまい、再建が成ったのは元和八年(1622年)のことである。




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 こちらは平成九年、一秀の五百回忌に建てられた供養塔。ちなみに、この寺のある梶原山とは、以前観に行った、かの梶原景時最期の地、である(こちらの記事をどうぞ。「カブのこと 4・鎌倉街道(徒歩0分) その1、梶原一族最期」)。




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 「光鏡院」の北隣にあるのが、この「大渕山龍泉院」。元亀二年(1571年)、瀬名氏三代目の氏俊の妻、すなわち「その1」にでてきた今川義元の妹で築山御前(瀬名姫)の母親にあたるひとが亡くなったため、氏俊はこの「龍泉院」を建て、その菩提寺とした。




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 その「龍泉院」の入り口にいた猫。

 もうひとつ、今回は行かなかったが、「光鏡院」の南側には「鶴池山松寿院」というお寺もあり、そこは瀬名氏二代目氏貞が建て、その菩提寺となっている。この氏貞は、神社もひとつ建立した。そちらは、「光鏡院」から西へ、瀬名の街を横切るように進み、長尾川という川を越えたところにある。その距離は、まあだいたい1kmぐらいだろうか。




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 こちらがその「利倉(とくら)神社」。建てられたのは大永八年(1528年)、主神は木花開耶姫である。小学生のころの私には、十月のお祭りはひとつの楽しみであった。この神社の名前「とくら」であるが、なんと、梶原一族と共に梶原山で死んだ名馬「摺墨」の鞍をここに祀ったことから、「登鞍(とくら)」の名付けられたのがはじまりだ、という説もあるようである。「摺墨静岡生誕・死亡説」を支持する当ブログとしては、これは見逃せない情報である(笑)。(「摺墨」についてはこちらの記事をどうぞ。「カブで史跡めぐり 24・奥藁科 その1 栃沢、摺墨のこと 」)

 瀬名氏のその後は、というと、やはり、桶狭間における義元の討ち死にを機に、時代に翻弄されることとなったようである。

 永禄十一年(1568年)、すなわち瀬名氏でいうところの三代目氏俊の時代の、武田信玄の駿河侵攻については、以前に蒲原城址に行ったときの記事に触れたが(こちら。「カブで史跡めぐり 43・蒲原城、再訪」)、その際、信玄は事前に今川の家臣の多くに対して寝返り工作をしていた。そのために、薩埵峠で信玄の進軍を食い止めて、北条の後詰めを待ち、信玄を挟み撃ちにするつもりであった今川氏真の軍勢はまともな合戦をすることもなく瓦解、駿府はあっという間に落ちてしまった。

 このときに瀬名氏がどういう行動を取ったのか、私がざっと調べた範囲でははっきりしなかったが、その後はというと、瀬名氏は今川を見限って武田についたようである。なので、あるいは薩埵峠での会戦の時点ですでに、武田方に寝返った多くの今川家臣たちと行動を共にした可能性はあるが、前述のとおり、瀬名氏ゆかりの光鏡院が武田に焼かれていることをみると、武田に従ったのはもっと後のことだとも考えられる。ちゃんと調べればわかるのだろうけれど。

 いずれにせよ武田配下にはいった瀬名氏俊は、瀬名の地を後にし、甲斐に移ることとなった。そして武田氏滅亡後には、これまた駿河あたりの多くの国人領主たちと同じく、徳川に従うこととなったようである。瀬名氏は江戸時代にも旗本として存続した上、未だその血統は続いており、現在の御当主は二十六代目にあたるという。

 ということで、今回の「ご近所史跡めぐり」はここまで。私の歴史への興味の発端は、というと、もともとは郷土史、というものから始まったのだった。そうした意味では今回は「原点回帰」的な意味はあったかもしれない。でも、やはりあまりにローカルなネタに過ぎることも確かだろう。今年は暖かくなるのがなんだか遅いようだが、日の出時刻は確実に早くなりつつある。そろそろ、どこか遠くの街道なり城跡なりに出掛けてみようと思っている。それでは。



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カブで史跡めぐり 57


 旧瀬名村にみられる瀬名氏の足跡 その1


 三月に入ってから、年度末の多忙に、なにやら軽微なれども長く続く体調不良も重なって、最近、更新が滞っておりました。よって、私の育った街、そして今現在私が生活している街、という、えらくローカルな話題が今回の記事の対象となりましたが、どうか、ご寛恕ください。

 先日、静岡市の市街地を東西に走る、北街道、という中世の東海道の後身というべき街道をカブで走ったとき、瀬名川という街を通った(詳しくはこちら「カブで史跡めぐり 48・北街道 その3、旧瀬名川宿にみる東海道の歴史」)。その瀬名川の北側には、瀬名、という街がある。




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 地図で確認すると、こんな感じ。

 このあたりは、江戸時代から明治二十二年までは「瀬名村」と呼ばれていた。「瀬名(せな)」という地名自体はそれよりも遥かに古い。藤原定家の息子であり歌人の藤原為家が、建長五年(1253年)の東下りの際に詠んだ歌、


 せな川や早瀬をたえず行水(ゆくみず)に
 いも恋わたる泪なるらん



 の、「せな川」とは、現在でいうところの、瀬名の西側を流れる長尾川のことである。そしてさらに古い話では、この辺りから出土した平安時代の木簡からも、「西奈(せな)」の文字が確認されているようである。

 ただ日本の歴史において、「瀬名」の二文字からまず思い出されるのは、やはり、かの「瀬名姫」であろう。すなわち、徳川家康の正室、築山御前である。静岡市の片隅のちいさな街の名前が、いきなり全国区の歴史上の人物とつながってしまったが、このあたりのことを、今回は扱ってみたいと思う。

 何故、瀬名姫はこの小さな村の名前をもって呼ばれていたのか。簡単にいってしまうとこの瀬名が姫の出自と関係していたから、ということで、ここで話が終わってしまっても充分な気もするが、そこは一応歴史を扱う記事だということで、わざわざ時代をさらに遡って、簡単な話もややこしくしてみるのである。

 駿河今川氏の発祥については、ちょっと前に記事にしたが(こちら「『駿河今川氏十代』」)、その初代である範国は、駿河の守護となる前に、実は遠江の守護にまず任じられている。これは所謂「建武の新政」下における補任であったが、その後時代が南北朝時代に移った後にも、その任は続いたようである。そして建武五年(1338年)の「青野原の戦い」の武勲によって、駿河守護に任じられた。すなわちこれが駿河今川氏の初め、ということになるが、実はその後の観応三年(1352年)、範国は駿河守護の解任され、また遠江守護に戻っているのである。これは、どうやら足利直義の死去によって幕府体制が大きく変化したことに関係しているようだ。

 ただこの遠江守護の任については、範国の息子の範氏が就いたり、すぐまた範国が就いたり、さらにまた範氏が駿河の守護になったりと、いろいろややこしい動きがあって、なんだかわかりにくい。しかし今回は、この駿河今川氏が対象ではなく、追いたいのは瀬名氏のことなので、この辺りは端折ってしまう。とにかく、今川氏には駿河のみならず遠江にも、足がかり的なものがあったのだ、ということさえ確認できたらよし、ということにしてしまいましょう(笑)。

 最終的には駿河の守護として、駿河に暮らすこととなった、範国の嫡子であり駿河今川氏の第二代当主である範氏には、弟があった。それが今川貞世、良く知られた名でいうならば了俊である。遠江の半国守護に任じられたことから遠江の堀越(静岡県袋井市)に居を構え、所謂「遠江今川氏」の祖となった。彼の生涯も実に面白いのだが、これまた今回のテーマからは外れるので割愛。話は時代を下って遠江今川氏の第五代貞延の子、一秀にまでとぶ。

 この頃にはすでに、遠江今川氏は「堀越氏」と名乗っていたらしい。駿河今川氏第五代範忠が、永享十年(1438年)の「永享の乱」における武勲を将軍足利義教に認められ、範忠の系統のみが今川姓を名乗ることが出来る、という所謂「天下一名字」を許されたことから、遠江今川氏が今川を名乗ることができなくなって改姓した、というのが一般的にいわれていることだが、どうもこの「天下一名字」、史料的な確証はないようである、が、これまた余談なので今回はスルー(笑)。とにかく、時期的には一秀は「今川一秀」ではなく「堀越一秀」であった、というのが正しい、ということになるようだ。

 一秀の同時代、駿河今川氏の当主は第六代の義忠であった。しかしこの義忠、このブログでも過去に何度か取り上げている通り(こちら。「カブで史跡めぐり 37・塩の道 相良から掛川、その2 塩買坂」)、文明八年(1476年)の「塩買坂の戦い」において討ち死にしてしまう。これによって今川氏の内部で家督争いが生じ、そこで活躍するのが北条早雲であったのだが、一秀もまた、後の今川氏親となるべき、「塩買坂の戦い」当時にはまだ六歳であった龍王丸の後見人として、その力を発揮した。

 一秀は、幼い龍王丸の助力となるべく、駿府の今川館の近所に移り住んだ。それが、この瀬名であった。それを機に一秀は「堀越」から「瀬名」に改姓、ここに「瀬名氏」が誕生した、という次第である。そして瀬名氏はこの後、今川の家臣となった。

 そしてこの瀬名氏の三代目氏俊の弟が氏広であり、この氏広は同じ今川一族の関口氏の養子となって関口親永などと呼ばれたひとである。先日行った持舟城(用宗城)の城主をつとめたりなどし、その妻は今川義元の妹である。そしてこのふたりのあいだに生まれたのが、瀬名姫であった、という訳だ。

 ようやく瀬名姫に辿り着いたが、こうしてみると、瀬名姫がどうして、当時人質として駿河にいた家康の正室となったのか、ちょっとみえてくる気もする。さらにいうなら、瀬名姫の母親である、義元の妹、というひとが、遠江の井伊氏からの養子であるともいわれる。そうだとすると、瀬名姫は今年のNHK大河ドラマの主人公井伊直虎と血縁にあることになるけれども、これまた余談ですね(笑)。

 で、その瀬名氏が住んだという「瀬名館」があったとされる場所は、実は、今私が住んでいる安アパートから歩いて10分ぐらいのところにある。




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 地図でいうとこの辺り。




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 現地の様子。この交差点の左角辺り。




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 つまり、先ほどの交差点を左折した、この辺りに、瀬名氏の館はあったようであるが、ご覧のとおり、その面影は全くない。普通の住宅街である。

 ただ、この近辺には瀬名氏ゆかりの寺社等が現存しているようである。そのうちの幾つかを、次回、観にいきましょう。




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カブで史跡めぐり 56・小島陣屋


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カブで史跡めぐり 56


 小島陣屋


 前回の「横山城址」から、国道52号線を北上すること1km足らず。「小島南」の信号を左折すると、




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 「酒瓶神社」がある。その先に、




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 こんな小さな案内表示があるので、それに従って細い路地へ。




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 すると、この「小島陣屋跡」の「大手門跡」に辿り着く。早咲きの河津桜が美しい。地図で確認。




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 現地の解説文に、こうある。


  駿河中東部唯一の大名として庵原・有度・安倍・三郡にわたる三十カ村を統治した小島藩壱万石の藩主瀧脇松平氏が、宝永元年(一七〇四年)ここに陣屋を構築、以来百六十余年間、藩政の中心地であった。


 「陣屋」とは、二万石以下の、城を持つことを許されない所謂「無城主格」の大名の居館、藩政の本拠のことを主にいう。そして「大名」とは、江戸時代においては一万石以上を拝領する藩主のことをいう、というから、瀧脇松平氏は大名としては最も小さい部類、ということになる。

 ということで、この陣屋跡というものは、武家屋敷のちょっと立派なもの、ぐらいに考えていたのだが、実際に観て、驚いた。




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 現地の見取り図。何はともあれ、見に行こう。




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 大手門あたりの石垣。さすがに近世の石垣は綺麗である。




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 ここから内部へ。




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 建物の類いは残されておらず、あるのは石垣だけななのであるが、その石垣が、すごかった。




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 もう語るまでもない、すばらしい遺構である。その規模も迫力があって圧倒される。全体で約5000坪あるという。天下太平の江戸時代のものであるから、戦国期の山城等と違って、その歴史には合戦など語るべきドラマチックなエピソードはあまりないのだけれど、観に行く価値は十分にある史跡である。




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 井戸も。




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 ここなどは、角にきっちりとラインを彫ってあるのがわかる。この石垣が積まれた当時はどれほど美しかっただろうかと、嫌でも想像がふくらんでしまう。




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 これは、北側、つまり搦手側の道沿いの河津桜と菜の花、そしてミツバチ。この日、風は未だつめたいものの、陽光には春の気配が感じられる暖かさがあった。




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 陣屋跡内にも、河津桜がみられた。私は春霞のなかのソメイヨシノが好きだけれど、この色の濃い河津桜の花と、冬の澄んだ青空とのコントラストもまた綺麗なものである。

 全体に、なんだかしっかりと草刈りがしてあるなあ、と思っていたら、地元の「文化財を守る会」の方々が、皆で草刈りをされている最中だった。ありがたいことである。そのなかのお一人が声を掛けてくださって、いろいろ教えてくださった。荒れてしまった横山城址へ行ったすぐ後のことだったから、なおのこと、ああいうボランティアの方々の有り難さが身に染みた。

 さて、一通り回り終えたので、再びカブに乗り、国道52号線に戻り、山梨方面に数百m。すると国道沿いに、




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 「小島陣屋御殿書院」。




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 小島藩一万石は幕末まで存続したが、明治元年に瀧脇松平氏は上総に転封となった。その後の陣屋の建物は小学校の校舎などとして利用されてきたようであるが、その小学校も昭和三年に移転となり、取り壊されてしまった。しかしこの書院の建物だけはその際に地元に払い下げられ、移築、こうして現存しているという訳だ。残念ながらこの日は中の見学は出来なかった。

 さて、そろそろ帰路に、といいつつ、もう一カ所寄り道。52号線を静岡方面に南下することまたしても数百m。すると右手にあるのが、




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 この龍津寺。臨済宗妙心寺派のお寺。




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 ここもまた、河津桜が彩る。




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 こちらは、小島藩三代藩主、松平昌信公のお墓。

 さあ、そろそろ帰らねば。今私は仕事をしていることになっているのである。女というものはカンのいい生き物なので、なんだか、あんまりゆっくりしていると妻に感づかれそうな気がしてならない。そろそろあったかくなってくるだろうし、だんだん日の出の時間も早くなる。「早朝お散歩ツーリング」には良い季節になってくるという訳だ。やはり、こんなセコい方法よりも、早朝に行くことにしよう(笑) それでは。




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