乱読乱文多謝

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブで史跡めぐり 50


 朝日山城 その1


 2月中旬。日の出時刻は6時40分頃、ということで、5時半起床、6時出発の今回の「早朝お散歩史跡めぐりツーリング」。しかし国道1号線の交通情報の電光掲示に、「東名高速、沼津ICから大井松田IC間、積雪のため通行止」の表示。

 この区間が雪のために通行止めになる、ということは、静岡県内はもう、嫌になるほどに気温が下がっているということを意味する。そんな日の、明け方という、最も寒い時間帯にスーパーカブを走らせる、なんてことは正気の沙汰ではないのである。東の空はそろそろ朝日の最初の輝きが顔を出しつつあるも、「バラ色の指をもつ」とホメロスの叙事詩にうたわれる暁の女神エーオースの、ご自慢の指先もかじかむかと思われるような冷気のなか、静岡市の自宅から国1を西へとひた走る私の指先も、冷たいを通り越して痛くなるほどであった。

 そんな思いをしながらも向かったのはお隣の藤枝市であった。カブの燃料計をみればほぼE線辺り、ガス欠になったりしたらシャレにもならないので、藤枝市内に入ったところで24時間営業のセルフスタンドに立ち寄る。カブのガソリンタンクのキャップを開け、背負っていたバッグをひらいたところで硬直した。なんと、財布を忘れたのである。

 ズボンのポッケに手を突っ込む。ぽろぽろと出てきたのは合計538円分の小銭。これだけあれば、なんとか、カブのタンクは満タンに出来そうだ。小銭を財布に入れずにポケットにバラで入れる私の昔からの習慣に感謝したが、残念なことに、大概のセルフスタンドの自動精算機は、小銭での支払いができないのである。

 時間をみれば、いまだ6時半を過ぎたころ。こんな時間に営業している、セルフじゃないスタンドなんかあるかなあと、情報強者(笑)の私はさっとスマホを取り出して、近辺のガソリンスタンド情報を調べる。スマホを扱う指先を寒風に悲しくふるわせつつ、なんとか、7時開店の店をみつけた。 

 7時まではまだ少々間があり、先に目的地に行ってしまって、給油は後にする、という選択肢もあったが、折角の史跡めぐり、後顧の憂いもガス欠の恐れも払拭したのちにゆったり行いたいものである。ということで近所のコンビニで時間つぶし、あったかい飲み物など買ってしまいたい欲求をおさえつつ店内をあやしくぶらついた後、ようやく、開店直後のスタンドにて、「五百円しかないよ」と恥をしのんで宣言した後に給油してもらった。ガソリン代457円。残金81円をポケットのなかにチャラチャラと寂しく鳴らしつつ、いざ、目的地へ。

 東名高速道路焼津インターの取り付け道路である県道81号線を、インターから北上、国道1号線の高架をくぐると、道は第二東名高速道路藤枝インターへむかう自動車専用道路になってしまうので、その側道に入って500mぐらい。すると、




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 ようやく本日の目的地、「朝日山城跡」に到着です。いちおう、周辺地図も。




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 「朝日山城」は、室町時代に築かれた、岡部氏の本城、とされているが、正確な築城年は不明であるようだ。

 文献上に、岡部郷というこのあたりの古い地名を名字とした岡部一族の名があらわれるのは、平安時代の終わり頃のようである。奈良時代の藤原武智麻呂を始祖とする、藤原南家の流れを汲む武家である工藤氏から分かれた岡部氏は、鎌倉時代にはすでに、岡部郷の地頭に任じられた、駿河における代表的な武士団であったという。

 ただその後の岡部氏については、よくわかっていないらしい。記録がない、ということのようである。確かなところでは、ずっと時代がくだって天文五年(1536年)の、今川氏の内訌である『花倉の乱』の際に、岡部氏は栴岳承芳すなわち後の今川義元の軍勢に加わり、その勝利のために貢献したようである。この城が室町時代のものだということは、つまり、少なくとも今川氏が駿河の守護となってから後は、岡部氏は今川氏の家臣としてあったと考えてよいだろう。

 しかし、今川氏の家臣団の一員であったということは、義元時代以降、岡部氏が戦国の荒波に飲み込まれてしまったことは、容易に想像できる、というものである。が、それはのちほど、ということで、とりあえず、城跡をみてみましょう。




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 とりあえず、例によって現地に掲示してあった全体図の、見にくい写真を。ご参考までに。ただし、城跡全体の学術的発掘はなされておらず、これはあくまで想像図である。「一の曲(本曲輪)」以外の曲輪については、その配置あるいは本当にあったのか否かも含めて、正確なところはわかっていないようである。一枚目、山の麓にごちゃごちゃっと書いてある辺りから、入っていく形になる。




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 入り口。城跡の主郭部は現在稲荷神社となっているので、一見「城跡らしさ」はみられず、神社の入り口にしか見えない。




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 しかし鳥居の前には、ちゃんと城跡であることを示す看板があります。




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 その鳥居をくぐってすぐ、目の前にあらわれるのが、この大きな「竪堀跡」。木が茂っていてちょっとわかりにくいが、かなりの規模である。ただ、これは自然地形ではないか、という説もあるようである。




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 しばらく山道を登っていく。つづら折りの道が急斜面を一気にあがる感じ。




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 そして、尾根筋に。まっすぐに参道が続く。上掲想像図によると、この辺りから曲輪が階段状に並んでいたんじゃないか、ということらしい。




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 稲荷神社拝殿。




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 本殿。このあたり、後世の手が多く入り、城として機能していた頃の形がはっきりしないようだ。




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 そして本殿の裏手が、「一の曲輪(本曲輪)」である。ここだけは、城の本来の形がよく保存されているという。




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 左手の盛り上がりは、土塁の跡である。

 この本曲輪の規模の小ささ、そして前述の通り竪堀とされているものが自然地形の谷間であるらしい、ということ、そしてさらには、戦国期には岡部氏は今川氏の重臣として駿府の屋敷にいたことなどから(加藤理文編著、『静岡県の歩ける城70選』参照)、現在見られる遺構は室町時代初期のものではないか、という説もあるようだ。




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 先ほどの拝殿脇から、遊歩道が尾根伝いに伸びている。そちらへ向かいつつ、次回へ続く。




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おひな様 2017


 去年は、実はいろいろと事情があって飾れなかったおひな様だが、今年はなんとか飾り付けできました。



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 こんな感じ。スペースの関係で、三人官女が飾れなかった。狭いアパート暮らしなので、毎年飾り付けの条件が変わり、苦慮している。正直なところ、私としてはその三人官女のほうが主役の二体よりも気に入っている、というかその内の一体が私の大のお気に入りなので、とても残念なのだが、来年こそは。



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『駿河今川氏十代』 その3


 今川氏についての広報活動 Ⅲ
 戦国大名今川氏の誕生






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 戎光祥社 中世武士選書25 『駿河今川氏十代』 小和田哲男著
 ISBN978-4-86403-148-6



 この著書のなかで小和田氏は、守護大名と戦国大名とはどう違うのか、という問いには、今川義忠(第六代)と氏親(第七代)との違いをみることによって、その解答が「最も端的な形で用意される」ということを書いている。

 一般に、六代義忠までが守護大名、七代の氏親以降の四代が戦国大名、ということになっているらしい。この二者の違いとは、いったいどこにあるのだろうか。

 六代目義忠が、勝間田城攻略の帰路、塩買坂において、敵の残党の襲撃にあって討ち死にしてしまったことについては、勝間田城、塩買坂にそれぞれ行ったときの記事に書いたので、それを読んで頂ければと思うが(こちら。「カブで史跡めぐり 32・勝間田城」。「カブで史跡めぐり 37・塩の道 相良から掛川、その2 塩買坂」。)、この勝間田城の戦いはそもそも、応仁・文明の乱という全国的な大混乱に乗じて、斯波氏の配下にあった遠江を手中に収めようという義忠の軍事行動の一環であった。

 すなわち、この六代義忠から七代氏親への代替わりの時代背景としては、幕府の力が弱まり、戦国時代へと推移しようという正にその頃だった、という訳だ。別のいい方をするならば、「守護大名」から「戦国大名」へと変貌することができない大名は、生き残ることができなかった時代、ということである。

 具体的にみてみよう。応仁の乱の際、義忠は細川勝元の東軍についている。これは勝元を支持したというよりは、遠江の守護である斯波氏が西軍についたから、という理由による。つまり大義名分を得るため、といことであるが、しかし、他ならぬ大義名分が必要であった、ということに着目すべきではなかろうか。

 つまり、今川が駿河の「正当な」守護であるのと同じく、斯波もまた「正当な」遠江守護である。だから、その斯波を攻撃するには「正当な」理由が必要とされるのであり、そして、両者の権威の正当性を保証するのは、あくまでも室町幕府なのである。その幕府の力が揺らいだのが他ならぬこの応仁・文明の乱であったのだとしても、この時点では、すべてこれ室町幕府という枠組の中の話なのである。

 その枠組の中にあり、ある地方の支配者としての権威を、さらに上位の権威である幕府に保証してもらっている立場である以上、それはあくまでも「守護大名」であろう。そして守護とは、あくまでも幕府の一職制に過ぎない。だがその上位の権威である幕府の力が、この応仁・文明の乱を契機に弱体化してしまった。それは最早、ある一地方を支配するための「後ろ盾」にはならなくなってしまった。七代氏親が家督を継いだのは、まさにそんな時代であった、という訳だ(さらにいうならば、氏親の家督相続に尽力したのが、戦国大名の先駆けとされる北条早雲であることもまた、象徴的なことだといえるだろう)。

 小和田氏は、「義忠段階と氏親段階とでは、(一)検地の有無、(二)戦国家法の有無、この二つによって明確に分けられ」るとしている。つまりそれは、領国内の土地と農民とを直接に掌握、支配し、そして「自己の領国支配原理がすべてに優先する」、というものであるという。そこには最早、古代以来の「荘園」というものを尊重する態度も、幕府等中央政権への忠誠や恭順の姿勢もみられない。領国の、直接的で、自己完結的な支配があるのみである。

 かかる支配者をもって、小和田氏は「戦国大名」と呼んでいる訳である。そして今川氏においては、七代氏親から、そうした支配体制が確立された、ということだ。これは納得できる明解な説明だと思うし、戦国大名というものがかかる性質のものであると定義される以上、この戦国大名の登場をもって、戦国時代と呼ばれる時代の始まりである、と説明することも可能であると思われる。

 ただ無論、こうした性質のものであるからには、歴史年表上の穴埋め問題的に、ある年号をもって「はいここから戦国時代ですよ」と指し示すことも、はっきりと戦国大名と「それ以外」との間に線を引くことも困難だろう。こうした定義付けというものは、決して実際の出来事や事物に先行するものでも、優越するものでもないからである。ある戦国大名は検地なんてものは碌にせずに済ませてしまったかもしれないし、またある者は成文法など作らずに、乱世の実力者らしく「俺が法律だ」で通してしまっただろう。上記の定義は、あくまでも様々な戦国大名の在り方から抽象化された概念に過ぎない。

 しかし幸いなことに、我々が対象としている今川氏親の場合は、その典型、ということができそうである。だからこそ、小和田氏は「最も端的な形で」という書き方をしているのだろう。

 義忠の遠州進出は、前述のように塩買坂で頓挫してしまった形であったが、氏親がそれを引き継いだ。この氏親の遠江侵攻にも、やはり北条早雲の多大なる助力があったようであるが、それはおくとして、永正十三年(1516年)、義忠の討ち死にから実に37年後に、氏親はようやく遠江を掌握した。

 その遠江において行われた検地の記録が残っている。残された記録は五例、永正十五年(1518年)から大永四年(1524年)にかけてのものである。他の土地については、検地が行われなかったのか、それとも記録が残っていないだけなのか、不明なようであるが、少なくとも、遠江における検地は、新たに領有した土地の安定支配のために行われたものであろうことは、容易に推定できるものだと小和田氏はしている。すなわち、遠江支配を、守護として幕府の権威のもとに行うのではなく、土地と農民とを直接的に掌握した上で、自らの武力を背景に行う、戦国大名としての「最も端的な形」での支配のための、具体的政策、ということである。

 そしてもうひとつ、戦国家法、すなわち分国法である。大永六年(1526年)六月の死を目の前にして、五十六歳の氏親は、今川氏の分国法である「今川仮名目録」を制定する。この時点で、跡継ぎである氏輝はまだ十四歳であった。つまり、氏親はどうやら、まだ年少である息子への家督の継承が滞りなく行われるために、領国支配のための規範を残しておこうという意図から、この家法を成文化した、ということのようだ。

 つまり必要がそうさせたという訳で、前述の通り、「戦国武将はかくあるべし」という定義が先にあってそれに従った訳ではないということだが、結果的に今川氏が、ここにおいて、ある「典型的」な戦国大名となった、ということはできるだろう。ただ、ここでいう「典型的」であることとは、「平均的」であることを意味するのではなく、何というか、「完成度の高さ」とでもいったものを謂うのだと思う。

 それはつまり、支配体制の論理化、とでもいうべきであろうか。あるいは、マニュアル化、データベース化の作業、というべきか。激動の時代、一歩間違えれば領国を失う、どころか、一家皆殺しの目にもあいかねないような危うい時代に、支配体制を安定させ、家の存続を盤石のものとするために、めまぐるしく変わる環境に行き当たりばったりに対応するのではなく、それらに備え、それらをできうる限りこちらの都合に従わせるための努力である。

 前回にみた「文化的」家風とともに、こうした今川氏の知性、論理性というものこそ、私は他ならぬ今川氏の特徴であり、強みであったと思う(まあ、今川氏の特徴を相対的に論ずることができるほど、私は他の大名について知っているわけでもないのだけれど)。そしてまたそれが、ともすれば貴族気取りの「文弱」体質と誤解されがちな今川氏像、というものをも形作っているのではないだろうか。

 こうして、氏親の代に、後期の今川氏の最盛期を迎えるための準備は一通り整えられた訳だ。そうした意味で、氏親の存在は大きかったといえよう。そして今川氏はその後、第八代氏輝を経て、第九代義元を当主にいただくこととなる訳である。

 ということで、たった一冊の本から得たにわか知識で、今川氏の広報活動を行うという無謀な試みも、そろそろ終わりにしよう。これで、皆さんの今川氏のマイナスイメージが改善できたならいいけれど……無理でしょうね(笑) さんざん知ったようなことを書いておいて何だが、やはりこういうことは、他の、比較対象となるべき大名たちのことや、彼らが活動した時代の全体の動きなどもよく知らなければ、なかなか難しいな、と思い知った。勉強いたします。

 ただ、この先のスーパーカブでの史跡巡りの際に、手がかりというか、道しるべとなりそうな知識は、わずかなりとも得られた気はした。今後もまた、ローカルな史跡めぐりなどしていくつもりでいるが、その記事が、これによって少しでも面白いものにできればなあ、などと思っている。それでは、また。


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『駿河今川氏十代』 その2


 今川氏についての広報活動 Ⅱ
 マイナスイメージ払拭のために





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 戎光祥社 中世武士選書25 『駿河今川氏十代』 小和田哲男著
 ISBN978-4-86403-148-6



 この本で仕入れたばかりの知識によって、今川氏というものを皆さんにご紹介する、となると、なすべきはやはり、今川氏について一般に抱かれている(と思われる)なにやらおかしなイメージを払拭する、という作業になるのではなかろうか。だとするならば、まずはその「おかしなイメージ」というものをはっきりさせておく必要はあるだろう。

 とにかく、「桶狭間の戦い」が、今川氏の戦国大名としての評価を、著しく下げていることは事実だろう。二万五千以上といわれる軍勢をそろえておきながら、数千にすぎない織田信長の奇襲にあい、よりによって総大将の義元を討ち取られて敗走させられるというのは、いかなる理由があれ失態という他はない。

 また、その勝者が信長であったというのも、相対的に義元の評価が貶められる一因となっているだろう。これは『平家物語』における源氏と平家の構図と同じことで、このカリスマ的魅力をもった、生まれついての主人公である信長という戦国武将が輝けば輝くほどに、義元におちるその陰は濃く深くなるのだ。おかげで、あの英雄の物語が勇ましくドラマチックに脚色されるたびに、ますます、義元、そして今川の名前はマイナスイメージに沈んでいくのである。

 さらに、その桶狭間の後がまたいけない。義元のあとを継いだ氏真のことである。彼については、最近の史跡めぐりの記事においていくつか、そのエピソードを書いているので詳しくはそちらを読んで頂ければと思うが、とにかく、せっかく義元が広げた支配地域をあっという間に失ったばかりではなく、その後、落ちのびて嫁の実家の北条氏に保護されるも二年で追い出され、よりによって今川氏の息の根を止めた敵である家康のもとに転がり込み、さらには父を殺した信長の前で蹴鞠なんか演じてみせた上に、牧野城のお飾り城主ですら勤まらずにクビにされた、とあっては、これはもう「文弱」の誹りはまぬかれようもなさそうである。

 そう、この「文弱」というのが、どうも今川氏のイメージにこびりついてしまっているのではなかろうか。




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 静岡市、旧丸子宿の西にある、吐月峰柴屋寺。元は、連歌師宗長が草庵を結んだ場所であり、それが後に寺に改められたもの、だという。宗長は今川氏、特に六代目の今川義忠あたりと関係が深かった。そのためか、このお寺では今も今川氏にゆかりの品々をみることができる。

 古今東西、詩人や楽人といった芸術家のパトロンとなる権力者は珍しくはないが、今川氏の場合は確かに、それにとどまらない「文化的」な家風がみられるといえるかも知れない。この『駿河今川氏十代』においては、特に第四代の範政についてとりあげているので、みてみよう。


 一目見しかたちの小野に刈る草の
 束の間もなど忘れざるらむ



 これは、『新続古今和歌集』に選ばれた範政の「恋の歌」である。彼の歌は他にも一首選ばれており、支配階級、上層階級にある者の単なる「教養」としてのたしなみ以上の、「歌人」としての一面を彼がもっていたことが、ここから知ることができる。彼には、『万葉集』の秘事口伝も伝えられていたという。これは、鎌倉時代初期の学問僧である権律仙覚の万葉集研究の秘伝である。

 また範政は、『源氏物語』などの書写、校合や、古典研究などの業績も残している。これはもう、知識人、文化人と呼んで差し支えのないレベルである。こうした、彼に代表される今川氏の文化的家風というものが醸成された要因としては、やはり足利将軍家に血統的に近いことから、その繋がりで京の公家の文化人たちとの交流があったことは大きいだろう。

 そんな家風が最終的に、氏真の例の蹴鞠披露に至ったのだ、といわれてしまうと返す言葉もないのだが、しかし範政にしても、ただの文化人であった訳では決してなかった。

 駿河は、いうまでもなく東の国境を関東諸国と接している訳だが、その関東におかれた鎌倉公方が、早くから幕府にとって憂慮すべき存在となっていた。要するに鎌倉公方が力をつけすぎた上に、常に幕府に反抗的な姿勢を取るようになってしまっていたのである。

 こうした状況下にあって、今川氏が、他のどこかの国ではなく、この駿河の守護職に任じられたことには理由があったのだ。将軍家は、自らの血統に近く、信頼できる今川氏を、関東に境を接した駿河に、鎌倉公方の監視役としておいていたのである。そしてその役割を、実際に武力の行使というかたちで果たしたのが範政であった。

 応永二十三年(1416年)に起こった「上杉禅秀の乱」は、鎌倉公方の補佐役である関東管領職にあった上杉禅秀(憲氏)が、当時の鎌倉公方足利持氏との意見対立を理由に、管領職を辞任したことを端緒として起こった戦乱であった。詳細は割愛するが、禅秀は十万を超える勢力で鎌倉を襲い、持氏はこらえきれず鎌倉を脱出、箱根を経て、駿河の瀬名(今の静岡市葵区にある地名)の寺にまで逃げてくることとなった。

 範政はその持氏を駿河府中の今川館に保護した上で、家臣の一人を京にのぼらせて将軍義持の指示を仰いだ。義持としては、鎌倉公方持氏の力がこうして削がれることは願ってもないことだっただろうけれど、しかしだからといって禅秀がこんな形で力をつけることを黙認できる訳でもなかった。幕府にとって必要なのは、幕府のコントロール下にある関東の秩序、なのである。

 義持は範政に禅秀討伐を命じ、範政はこの関東の混乱の鎮圧に乗り出す。その詳細もまた割愛するけれども、範政は鎌倉にまで禅秀を追い込み、禅秀の自害によってこの戦乱を収束させるのに大いに尽力したのである。

 範政はこうした、単なる一国の守護であることを超えた務めを果たしながら、その上で、上記のごとき「文化人」でもあったのである。これこそが今川氏の「家風」というものの姿であって、決して「文弱」なんてものではなかったのである……少なくとも氏真以外は(笑)

 そしてこうしたバランス感覚があったればこそ、今川氏は守護大名から、有力な戦国大名へと変貌していくこともできたといえるのではないだろうか。

 では次回、戦国大名今川氏誕生のあたりを、読んでみることにしましょう。

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『駿河今川氏十代』 その1


 今川氏についての広報活動 Ⅰ
 その始まり





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 戎光祥社 中世武士選書25 『駿河今川氏十代』 小和田哲男著
 ISBN978-4-86403-148-6



 我が郷土静岡市で、地元ゆかりの戦国大名はというと、なぜか、徳川家康が挙げられることが多い。家康が幼少期を駿府で過ごしたことは確かであるし、その最晩年もまた駿府で過ごした上、駿府でその生涯を閉じ、日光の前にまず駿河の久能山に埋葬された、というのも確かである。が、家康はもともと三河の戦国大名だというべき人物であろう。

 その晩年を駿河で過ごしたのは、天下人として、どこに住もうと自由な立場にあって、たまたま駿河を選んだ、というだけであり、よってその時期の家康はいわば「日本の」家康なのであって、「駿河の」家康とはいうべきではないだろう。そして年少期についていうならば、これは「人質」として三河から駿河につれてこられていただけなのだから、やはり「駿河の」ではなく「三河の」、である。

 となると、駿河ゆかりの戦国大名は、という問いには、やはり今川氏、と答えるべきなのである。これはもう、絶対にそうなのである。いくら今川氏のイメージが少々悪いからといっても、その事実は揺るがないのである。そして、いくら周囲に信長だの信玄だのといった強くて男らしくてカッコいい武将がたくさんいるからといっても、静岡市民ならば、地元の戦国武将である今川義元を支持し、愛するべきなのである。これはもう、そういうことになっているのである。

 しかしいくら支持し愛そうとしても、今川氏のことをよく知らない、とあってはなかなか難しいものがある。ということで、この本を買ってきて勉強することにしたのである。

 ただ、こういう種類の本について、読後感想を書く、というのはちょっと難しいので、今回は、この本から得たばかりのにわか知識から、我が郷土の誇る戦国大名今川氏について、ご紹介、という感じにしたいと思う。

 「御所(足利家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」。

 これは室町幕府の将軍継承権について俗にいわれた言葉である。場合によっては将軍の継承権が発生する可能性があるといわれるほどに、今川氏は足利将軍家に近い血統にあった。

 ただ、その家格の高さのみによって、今川氏が大きくなっていった訳では無論なかった。吉良は足利の分家であり、今川はその吉良の分家であった訳だが、こうした分家ならば他にいくらでもあったはずである。その中にあって、例えば数に限りのある守護職の座を得るためには、なんらかの手段によって他を出し抜く必要があるだろう。

 今川氏発祥の地は、現在の愛知県西尾市今川町である。吉良家の分家がここに居を構え、その地名から今川を名乗った、という訳である。この今川氏が、最初に歴史の表舞台にその名を現したのは、「中先代の乱」における武勲であった。

 「中先代の乱」は、建武二年(1335年)の、後醍醐天皇の所謂「建武の新政」に対する北条時行の反乱である。足利尊氏・直義の軍勢が、鎌倉を目指して逃げようとする時行軍を追う過程において、東海道の難所のひとつで歌枕としても有名な小夜の中山峠で合戦となった。この戦いに、尊氏軍の大将として参加していたのが、今川氏の二代目基氏の長男、頼国であった。

 頼国は、敵将名越邦時を討ち取る等、奮戦した。このときに、頼国が邦時の武勇をたたえ、その鎧を埋めて弔った、とされる場所が、今も小夜の中山にある。当ブログでも以前スーパーカブで訪れた際に取り上げた、「鎧塚」がそれである。




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 これがその「鎧塚」。(記事はこちらです。お暇でしたらどうぞ。「カブのこと 12・旧東海道 大井川から掛川宿、その2 小夜の中山峠」)

 ただその頼国もまた、その後の相模川での戦いで二十本もの矢を受けて討ち死にしている。今川氏の当主基氏としては、長男を失った訳であるからこれは大きな痛手であっただろうけれど、結果的にはこの争乱で、基氏は五人の息子の内の三人までもを失った。しかしこの犠牲は、尊氏の印象に残らずにはいなかったことだろう。そして生き残った二人の兄弟の内、五男の範国が家督を継いだ。

 「中先代の乱」の後、こんどは後醍醐天皇と足利尊氏・直義とが対立した。ここから南北朝時代という混乱が始まる訳である。余談であるが、この対立の最中である建武二年(1335年)十二月五日、直義の軍と、後醍醐天皇方の新田義貞とが、現在の静岡市駿河区にある手越河原で戦った際に、新田軍が陣を張った場所に、私は過去に行ったことがあった。




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 ここ。以前住んでいたアパートの近所の、お散歩コースにあったのだ。しかもそれを、当ブログ内で取り上げたりもしている。で、記事はこれ。「日々の出来事 21・この街の思い出」。しかし当時は何のことやら解らなかったし、あんまり興味もなさそうだったことが、記事の文面からわかりますね(笑) さらにいうならば、以前ご紹介した「千手の前の像」がある「少将井神社」も、この近所になります。こちら。「カブで史跡めぐり 23・少将井神社、千手の前の像」。

 閑話休題。この今川範国が、所謂「駿河今川氏」の初代、とされる。つまりこの範国が、初めて駿河の守護に任じられた、ということだが、それは「青野原の戦い」の直後であるという。

 「青野原の戦い」は、建武四年(1337年)八月に、後醍醐天皇の要請を受けた畠山顕家が、京を目指して軍を動かしたのを、尊氏が美濃の青野原に迎え撃ったものだった。戦いは一応、顕家方の勝利、ではあったが、尊氏としては顕家に京に入られることを阻止できたということで、満足できる結果といえた。

 そしてこの戦いにおいて、範国はその勲功を尊氏に認められた。そして反対に、陸奥から京を目指していた顕家の侵攻を食い止めることができなかったのが、当時の駿河守護であった石塔義房であった。義房は任を解かれ、かわりに功績のあった範国が駿河守護の座についたという次第であった。

 駿河の国府所在地、といえば府中、すなわち後年の駿府、現在の静岡市、ということになるが、範国はいきなり府中にその本拠をおいた訳ではなかったようだ。通説では、まず現在の島田市にあった大津城に入り、そしてその後に現在の藤枝市にある葉梨郷花倉を本拠として、館と、詰めの城である花倉城を築き、その後は三代泰範の時代まではこの花倉にいた、というものらしい。

 ただ、以前花倉城址に行ったときの記事にも書いたが、範国の時代にはすでに府中に居を移していたと考えられるような文献もあるらしい。このあたりははっきりしないが、勿論、花倉に残された今川氏ゆかりの史跡等をみる限り、今川氏にとっては花倉が特別な場所であることには間違いなさそうである。(花倉城については、こちらを。「カブで史跡めぐり 33・花倉城」)

 こんな次第で、駿河今川氏は誕生した。そして初代範国から氏真まで、十代に渡って駿河を支配し続けるのであるが、なんだか寄り道ばかりしていたら長くなってしまった。続きは、次回。

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