乱読乱文多謝

書評というより、読書感想文などを、随想風に。新刊書の紹介はたくさんあるので、古典や名著を中心に読んでいきます。

『罪と罰』

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)罪と罰〈上〉 (新潮文庫)
(1987/06)
ドストエフスキー

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彼はどこで間違ったのか

 ドストエフスキーの作品群のなかでも、『地下室の手記』とともに、私が最も好きな作品である。『カラマーゾフ』も勿論素晴らしいが、どうも、私は『罪と罰』のほうが好きだ。読んだのは、今回で4回目ぐらいだと思う。

 頭脳明晰だが、貧しさのために大学に通うことを諦めなければならなくなった主人公ラスコーリニコフが、自身の「理論」に従って殺人を犯す、というのがこの作品のあらすじだ。そしてその事件の周囲を取り巻く様々な人びとの、様々な人間模様が、物語を多角的、多面的に織り上げていく。このあたり、実にドストエフスキーらしい作品だといえるだろう。

 よって、この作品には様々な楽しみ方がある。例えばこの本の訳者も巻末の解説で書いているが、推理小説的な要素がある。予審判事ポルフィーリィが、ラスコーリニコフを犯人だと疑いつつも、物証がないために、言葉による心理的な駆け引きという、読んでいて非常に面白い方法で、主人公を追いつめていく。このふたりの対決を追いかけるだけでも、この作品は充分に楽しむことができるだろう。

 しかしそれは、この作品の重要な部分ではあっても、本質ではないだろう。同じく主人公の「良心の苦しみ」を描いた部分ではあったとしても、やはり私は、主人公とソーニャとの関係と、その周辺の出来事のほうに、本質的なものを感じるし、また、興味も感じる。勿論、他にも様々面白い側面があるのだが(主人公の妹のことや、ルージンのことなど)、全てに触れる訳にもいかないので、今回はこの辺りに限って、考えてみようと思う。

 ラスコーリニコフの犯罪の、「論理的」根拠。もしその最終目的が、社会全体の進歩だとか、福祉だとかいった、公共の利益になるようなものであるのならば、眼の前の避け難い悪事を働くことを、良心は容認するだろう、少なくともその「事業」を成就させるほどの「非凡」な人間においては。・・・というのが、私的解釈による、彼の考え方の要約になる。

 この、一種のマキャヴェリズム(通俗的な解釈ではあるが)に則って、ラスコーリニコフ(長いので、以下ロージャ)は、実際にひとりの強欲な金貸しの老婆を殺害し、さらには、現場に居合わせてしまった老婆の義妹のリザヴェーダまでをも成り行きで殺してしまい、そして眼についた金品を奪う。そしてその「犯行」は、周到に準備をしたつもりがほとんど行き当たりばったりに等しかったにもかかわらず、様々な偶然が重なって、「完全犯罪」に近いものとなった。

 だが結果として、彼は最終的には逮捕され、裁かれ、シベリア行きになる。つまり彼の「犯行」は、当初の目的に達することができなかった、という意味で失敗に終わった、ということだ。そして、その失敗の原因とは何なのか、それを考えることが、つまりこの作品の主題に関わることだと思う。そしてそれは、やはりソーニャの周辺に見出されると思うのだ。

 前述のように、実際の犯罪行為は様々な出来事に導かれて、どこか無我夢中で実行されてしまったという要素が強く、それが偶然によって完全犯罪になったとしても、優秀な予審判事たるポルフィーリィによる「心理的」追跡に対抗できるだけの自信を、ロージャは抱くことができなかった。それによって、自らの犯罪行為が露見してしまうことへの恐怖が、ひとつの強迫観念となって彼を自首へと導いた部分は決して小さくはないだろう。

 しかしもし彼の、その行為を裏打ちしているはずの自らの「理論」への自信が揺るぎないものであったならば、彼は予審判事の追求のプレッシャーぐらいは容易に耐えただろう。それはつまり世の法律や倫理に対抗する形での、自身の「正義」に自信を持つ、という意味で彼を立派な確信犯にしてくれただろうからだ。だから、彼を自首させたのはポルフィーリィではなく、ソーニャだった。ソーニャが、決定的に、彼の「理論」への確信を失わせたのだ。

 ソーニャという、この娼婦であり、聖女である女。初めてロージャが彼女の部屋を訪れ、話をした場面。ここにおいて、ロージャの運命はほとんど定まった、と考えてよいと思う。献身というに留まらない、全的な自己犠牲に徹する彼女を、ロージャは「狂信者」と呼んだ。しかし彼にはわかっていたはずだ、彼もまた、自らの「理論」のために人を殺し、そして少なくとも金貸しの老婆を殺害したことに関しては一切の罪悪感も覚えないでいる「狂信者」であることを。そしてまた、ロージャは彼女の姿に思い知らされた。この哀れな貧しい娼婦、愚かで善良な「狂信者」の姿こそは、「良心」というものの、それも彼自身の「良心」というものの具現であることを。

 そう、彼は自分が、大義のためにならばと敢えて殺人までもをやってのけるような、そんな「特別」な人間ではなかったことを、思い知らされたのだ。彼は、自分の犯した罪が、ただ母や妹を悲しませ、苦しめるであろうことにすら耐えられない「凡夫」だった。彼の「理論」が間違っていたのではない。その方法が間違っていたのでもない。自身の「資質」を見誤ったことこそ、彼の過ちだった。

 ではなぜロージャはその過ちを犯してしまったのか、といえば、無論それは、彼の自尊心のせいだろう。事実彼は、自分の論文を雑誌に掲載させることができるぐらいには優秀だった。その優秀な自分が、貧困のために狭い下宿部屋に押し込められたまま、大学の学費も続かず、志も半ばに貧者たちの醜悪さのなかに落ち込んでいくことに、我慢がならなかったのだ。

 マルメラードフとの出会いは、だから彼にとっては決定的な出来事だったに違いない。この飲んだくれ、家族を極貧の困窮の内に放っておきながら酒に溺れ、官職は首になり、娘のソーニャに身体を売らせるまでに至りながら、なおも飲んだくれる男の姿に、ロージャは、他ならぬ自分の行く末を見たに違いない。貧すれば鈍する、という。今はどうにか、ボロを纏いつつも自尊心を保っている自分も、やがてはマルメラードフのようになってしまうこと、それは彼にとっては何よりも恐ろしいことだったに違いない。

 だから、彼は実行した。「きみが自分でやる決意がないなのなら、正義もへったくれもない」。たまたまある飲み屋で耳にしたこの言葉は、彼を駆り立てるに充分なものだった。だから彼は実行した。後に彼はソーニャにいう。

 「・・・権力というものは、身を屈めてそれをとる勇気のある者のみに与えられる、とね。そのために必要なことはただ一つ、勇敢に実行するということだけだ! (中略)ぼくは敢行しようと思っただけだよ、ソーニャ、これが理由のすべてだよ!」

 彼は、自身の怠惰が、自身をマルメラードフにしてしまうことを恐れ、自身が他に優越することを、他ならぬ彼自身に証明するために、自分はあの飲んだくれとは違うのだということを証明するために、実行した。最早彼の「理論」の正当性など、どうでもよかったのだ。

 しかし彼はそれに耐えられなかった。耐え得るはずもなかった。なぜなら、彼には「大義」などなく、ただ「敢行」するために実行したに過ぎなかったのだから。そう、彼は自身を見誤った。大義も目的も持たない「凡夫」に、「非凡」な人間のための「理論」など、なんの助けにもならなかった。

 彼の自尊心はしかし、なかなかその自身の過ちを全的に認めることができなかった。だから、その苦しみは大きく、長く続いた。自首し、シベリアへ送られてもなお、彼は他の流刑囚の「醜悪さ」に立ち混じることができず、他の囚人たちに嫌われ、孤立した。しかしソーニャに、彼のためにシベリアまでついてきた彼女の献身に、彼が心を開いたとき、初めて、彼は救われた。

 それは、貧者であってもなお美しく気高くあり得ることを、彼が「狂信」と呼んだソーニャの自己犠牲が、どれほど誇り高くあり得るものであるかを、彼が知り、認めたときであった。『罪と罰』という題名から、彼の殺人の是非に、まず眼がいってしまいがちではあるが、貧窮というものに対し、どう立ち向かうべきなのか、そこにこそこの作品の主題があるように、私は思った。

 ところで、ならばロージャが、当初の「理論的目的」に忠実に、老婆から奪った金を生かして生活を立て直し、物的証拠をもたない警察に対しては最後までシラを切り通していたならばどうだったのか、という疑問が残るだろう。つまり、全てが上手くいった場合には、彼はどうなっていたのか、ということだ。

 これについては、スヴィドリガイロフが、その答えを与えてくれているように思う。私はこれまで、この人物について、物語の終盤近くに多くのページが割かれていることに疑問を感じていた。この好色で醜悪で不愉快な人物が、物語において大きな役割を果たすことは確かだ。しかしその最期について、明らかに物語とは無関係といえるほどに、事細かに描写されている。どうしてだろうか。

 私はスヴィドリガイロフとは、他ならぬ、ロージャが厚顔無恥にも大した「大義」ももたずに強盗殺人をやってのけ、その罪にも自分に都合のよい屁理屈をなすりつけて、「しかたがないさ」と肩をすくめるのみ、そしてほとぼりのさめたことろに奪った金を持ち出してきて、何喰わぬ顔で生活を始めた場合の、成れの果ての姿を象徴的にあらわしたものであるのではないか、と思った。

 つまりあんな方法で金を得たとしても、元来活発な活動家に生まれついてはいないロージャは、ただ無為徒食の人間以外の何ものかにはなり得ず、結局ろくでもない最期を迎える他はなかったのだと、作者はそういいたかったのではないか。

 ロージャが、ただ自尊心の強いばかりの若者であり続け、そしてその自尊心の満足ばかりを思っている内は、彼は、マルメラードフか、あるいはスヴィドリガイロフにしかなり得なかった。ならば彼は、彼の運命の内に、ソーニャと出会うことによってしか救われ得なかったのだろうか。

 いや、実は彼のそばにはいつでも、彼の行くべき道を指し示してくれている人物がいたのだ。それは、他ならぬ妹のドゥーニャだ。やはり貧困のうちに気高く生きる妹の存在の大きさに、彼が気付いていたのならば、殺人を犯す必要も、シベリアに流される必要もなかったはずだろう。この点にこそ、彼の悲劇の根本があったのではないだろうか。

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日々の出来事 16

初・初島

 温泉地として名高い、かつては新婚旅行先の定番だった熱海の沖合に、その島を望む。

  初島や ああ初島や 初島や

 ん? 何か違うな。

  箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ

 これですね。実朝の歌は、素朴でいい。伊豆は、頼朝が流された先であり、源氏にはゆかりの深い土地であったから、実朝も感慨深く、島影を眺めたことだろう。

 先日、身内の用事で、泊まりがけで熱海に行ったそのついでに、初島に遊びに行ってきた。初島は、静岡県内では唯一の有人島である、らしい。伊豆大島だとか、伊豆七島だとかは、伊豆と名がついてはいても、東京都である。それは知っていた。しかし、静岡県には、初島の他には人が生活している島は全くないのだ、とは知らなかった。たまたま、熱海へ行く前日に、県内のローカル情報番組で初島が紹介されており、この事実を知るに及んで、それでは是非行ってみなければ、ということになったのだった。

 初日は、熱海の「来宮神社」へ。



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 祭神は、大己貴命、五十猛命、そして日本武尊。



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 おいなりさま。



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 本殿。なかなか立派。おみくじを引くと、大吉であった。よし、いいぞ。



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 そして、天然記念物にもなっているご神木、「大楠」。樹齢は二千年以上、という。根元を一周すると、一年寿命が延びるとか、願い事が叶うとかいわれる。我々も歩いてみる。



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 こうして見ると、なるほど、すごい大木だ。



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 根元に、皆が触って黒くなっている所が。何だかわからないが、樹の力にあやかろうと、自然発生的に参拝者が触っていくようになった様子。よって、神社のほうからは何のアナウンスもないのだが、信仰なんてものは、こうして生まれてくるのが自然なものなんだろうな、などと一人合点。



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 その夜は、熱海から少し南下した、網代の民宿で一泊。魚が美味い! 

 二日目に、初島へ向う。初島へは、熱海と伊東から船が出ている。我々は勿論、熱海港へ。



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 その、熱海港にて。こんな船に乗ります。



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 船上より、熱海城を望む。一度、観に行きたいなあ。



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 前方に、初島の島影。ホットケーキみたいな形。熱海港から30分ぐらいで、島の南岸の初島港到着。面積約0.437平方km、周囲約4kmの小さな島。人口は、250人ぐらい。上陸して、観光客に賑わう港から、海沿いに東へ向う。



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 桜のお出迎え。何という品種だろう。大島桜にしては、色が濃いし、河津桜にしては、時期が遅すぎるし。八重桜?



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 龍神宮。名前は立派だが、つつましい神社。海中から現れたという剣が祀られているとのこと。



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 島東岸のマリーナに到着。



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 海中展望船「ノア」。なんと、船底に窓がついていて、海中が鑑賞できる船なのだ。これに乗り込んだ。が、あいにく天気が悪く、太陽光があまり海中に入ってこないので、視界は良いとはいえなかった。お魚はいたのだが、写真の技術がお粗末な私には撮影できませんでした。おまけに、閉暗所恐怖症(暗くて狭いところが苦手)気味の私は、正直なところ、落ち着いて魚なんか観ていられなかった。だって、潜水艦みたいな船で、海中にしか窓がないんですよ。怖いじゃないですか。妻や子供には、平気な素振りをしておいたけど・・・。

 次に我々は、灯台に向った。灯台というと、普通、岬の先端にあるものだが、初島の灯台は、島の一番高い所にある。位置としては、島の中心より、少し西寄り、といったところか。つまりマリーナのある東岸からは、距離も高低差もあるのだが、小さい島だし、高低差といってもたかだか50メートルぐらいだし、と元気よく歩きはじめたのだが、甘かった。

 上の、島全体のみえる写真を、もう一度みて頂きたい。海岸から、一気に高くなっているのがおわかり頂けると思う。要するに、なだらかに50メートルを登るのではなく、海岸からいきなり40メートルぐらいを登ってしまうような感じなのだ。これが、辛かった。いや、普通に歩く分には大したことはないのだが、例によって我々は、3歳と1歳の子供連れなのである。そんな急坂を、素直にがんばって自分で登ってくれるはずもなく、またダッコをすることになる。テニスコートだとか、アスレチックだとかの観光施設を抜け、灯台に着く頃には、私も妻も疲れ果てしまった。道が綺麗に整備されていたのがせめてもの救い。しかし全く、どこへ行ってもこのザマである。



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 初島灯台。全国で15番目の「登れる灯台」なのだそうだ。内部の螺旋階段を登って、外の階段を下る。200円、だったかな。資料館も併設されている。



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 颯爽と灯台に向う娘。後を追う父はくたくた。この後、当然私は、また彼女を抱いててっぺんまで階段をのぼることになるのだ。



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 レンズを間近から。

 私の妻は、何だか知らないが灯台が好きで、やたらと行きたがる。実は今回の初島行きも、この灯台が第一目標だったのだ。少し興奮状態の妻につられて、こんなものまで買ってしまった。



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 「初島灯台」ストラップ。妻は、早速自分の携帯電話にぶら下げて喜んでいた。おまけに、受付のおじさんとも仲良くなって、港への近道など聞き出していた。その道を辿る。



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 観光施設ではない、島の住人の方々が暮らす集落を抜ける。こうした道のほうが、やはりその島の本来の姿が感じられる。



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 初島小・中学校。面白い校舎だ。



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 帰りの船の時間まで、時間つぶし。初木神社。日本人は無宗教だ、などといわれるが、嘘である。どこにいっても、当り前のように神社がある。そしてその神社のもつ聖性を、本当に否定しきれる日本人が、一体何人いるだろうか。それは我々が、わざわざ教義を学んだりだとか、信仰告白をしたりだとかをする必要のないほどに、深く深く根付いた、本物の信仰心というものをしっかりと今も抱いていることの証ではないだろうか。

 先日、観音堂まで山登りをした際に痛めた腰が、また痛くなってしまったが、しかし、初・初島観光、なかなか面白かった。ところで、冒頭の実朝公の歌の歌碑などもあったはずなのだが、観てくるのを忘れてしまった。またいつか、遊びに行きたいものだ。そのときまでに、子供等よ、自分でどこでも歩けるようになっていてくれよ。お父さんはこれから、どんどん衰えるばかりなのだから。



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 おまけ。我が家でも端午の節句のお飾りなどを出しました。最近の流行は、いかつい戦国大名の鎧兜のようだけれど、私はやっぱり、雅びな平安・鎌倉あたりのものが好きです。

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『さすらいの野宿ライダーになる本』

さすらいの野宿ライダーになる本 (CAR BOOKS)さすらいの野宿ライダーになる本 (CAR BOOKS)
(1983/01)
寺崎 勉

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さすらいの野宿ライダーに憧れた本

 オートバイに乗りたい、と思いはじめたのは、高校生の頃だった。しかし乗りたいからといってすぐに乗れるものではない。私の通っていた高校は、二輪免許の取得もアルバイトも禁止されていた。無論、校則違反を覚悟すれば、そのどちらも「やっちゃう」ことは可能だが、免許を取り、バイクを買い、走り始めるまでにかかるお金を、すべて自分で稼ぎ出すことなどは、当時の私には現実的に不可能であった。

 そこで、雑誌だとか、本だとかを読んで、自分の欲求をごまかすことになる。当時はやった『バリバリ伝説』なんてマンガを読むこともそのひとつだったし、あるいは、「最新バイクカタログ」みたいなものを買ってきて、あれがいい、これがいいと妄想にふけったりもした。ヘタクソなプラモを作ったりもした。

 その頃の私は、当時流行していた「レーサーレプリカ」と呼ばれる、まるでサーキットのレーシングマシンをそのまま公道用に市販してしまったかのようなスポーツバイクに惹かれていた。だから、雑誌もレース関係の情報がたくさん載っているものを選んだし、ライディングのHOW TO本を買うにしても、「速く走るにはどうしたらよいか」というようなことが書かれたものを読んだ。

 しかし、そんなスポーツライディング系の本ばかりが並んだ当時の私の本だなに、一冊だけ、毛色の違う本があった。それが、この『さすらいの野宿ライダーになる本』だった。

 旅への憧れ、というものは私にはごく幼い頃からあり、父の運転する車に家族で乗り込んで出掛ける時も、このままずっと車で遠くまで旅ができたら、なんていつも思っていたし、私の暮らす街の北を限る山々の連なりを眺めては、その山の向こうの、まだ知らない土地を旅する自分を空想したりしていた。

 私にとってのオートバイとは、前述のように、当初は「速くてカッコイイ」乗り物として憧れの対象となった訳だが、そのオートバイが、「遠くまで旅するための乗り物」として、私の幼い頃からの「旅への憧れ」と出会い、融合したのが、つまりこの本だった。

 そして数年後、私は実際に、自分のオートバイに大荷物を積み上げ、旅に出ることになった訳だが、勿論私には私の「旅のスタイル」というものができあがり、それはこの本の筆者のものとは違ったものとなった。

 この本は、HOW TO本的にバイクツーリングの方法について解説している、というよりは、著者の寺崎氏の旅、というものがどういうものなのかを紹介する、というものだ。だからそれが、私のものと違ったものであるのは当り前のことなのだが、今読み返し、このふたつの「旅のスタイル」を比較してみるのはとても面白い作業だった。

 私のオートバイでの旅は、ほぼ、北海道に限られている、という特殊なものだ。北海道以外での野宿、というと、九十九里浜で一泊したことがあるくらいである。このときは、朝散歩に来た犬が私のバイクに放尿してしまい、洗う水もなかったのでそのまま走ってしまったら、自慢のGPZ900R(映画『TOP GUN』でトム・クルーズが乗っていたあのバイク)から何とも言い表し難い悪臭が立ちのぼってきた、という甘酸っぱい思い出があるが、まあそれはよしとして、この北海道限定ということが、ほぼ、私の旅のスタイルを決定しているといっていいだろう。そしてこの本の著者とのスタイルの違いも、どうやらこの点から多く生まれているようだ。

 例えば私のツーリングは、キャンプ場を渡り歩く、というのがその基本にある。これは、格安のキャンプ場があちらこちらに点在する北海道だからこそ可能な方法だ。本当に、一泊500円とか、300円とか、タダとか、そんなキャンプ場が山ほどあるのだ。しかもそれらは、ほとんどどこへ行っても、トイレや水道といった設備もちゃんとしている。「貧乏旅行」を原則とする野宿旅をする旅人には、これほどありがたいものはない。

 しかし北海道以外では、こうはいかない。キャンプ場は限られているし、しかも値段が高い。数千円なんてところだって珍しくもない。これは、地価も高く、市街地からはなれた場所でなければキャンプ場など造れない本州などでは、仕方のないことだろう。だがこれでは貧乏野宿旅は難しくなる。よって、日本全国どこへでもツーリングに出掛ける寺崎氏は、キャンプ場を使わない。山奥の空き地だとか、川原だとか、海岸だとかにテントを張ってしまう。

 確かに本州などでは、この方法のでないと、行く先だとか日程だとかを縛られる要素が高まり、旅の自由度がグンと低くなってしまうだろう。このあたり、北海道ではあまり考えなくてもよいことが、いろいろと影響してくるということだ。北海道がツーリングライダーにとっての「憧れの地」であり続けていることには、こんな理由もあるのである。

 ただ北海道では、逆にあんまりいい加減にキャンプ地を選ぶと、本州などでは考えられないような「危険」が待ち構えている、ということもある。その「危険」とは、勿論、ヒグマだ。私は実は、初めて北海道に行ったとき、上陸して二晩目に、この『野宿ライダー』の真似をして、テキトーな林道に入り込んで、そこで野宿をしてしまったことがある。今思えばこんなことは自殺行為以外の何ものでもない。初北海道ツーリングで浮かれていたとはいえ、馬鹿なことをしたものだ。今思い出しても冷や汗ものである。
 
 食事についても、私と寺崎氏とは違いがあるようだ。簡単にいってしまうと、寺崎氏は自炊するが、私はほとんど買ってすませてしまう、ということだ。私も一応、お湯を沸かせるぐらいの道具は持っていくので、「サトウのごはん」やボンカレーみたいに温めるだけのものや、カップラーメンや粉末のカップスープなどは食べる。しかし寺崎氏のように、米を炊いたりカレーをつくったりなんてことはしない。

 これは、本州も北海道も関係のないことのようでいて、実は意外に、またしても土地柄が関係している部分もある。というのは、北海道では、キャンプ場が比較的街に近い場所にあるので、一から作るよりも買ってきちゃったほうが手っ取り早いのだ。本州のように、市街地から遠路はるばる山奥のキャンプ場に行く、という感覚は、北海道にはない。本当に街のすぐそばに、自然たっぷりのキャンプ場があるのだ。そしてその街には、どんなに小さな街でも、必ず何かしら食料を調達できるお店がある。なぜならば、「隣町」があまりに遠くて、地元の方々のためにもそういうお店は絶対に街に一軒は必要だからだ。

 こうして、食料の入手が簡単なことを知ってしまうと、どうも私の場合、自炊する気など全く失せてしまった。いや、自炊したほうが美味い食事になることは確実なのだが、私はとにかく、キャンプ場でボーッとしていることが大好きなので、食事にあまり時間をかけたくない、ということもあるのだ。飯などは買ってきたものでさっさとすませ、あとは寝るまでの時間をのんびり過ごす、これが私のスタイルなのである。

 しかし何だか、高校生時代に憧れた「野宿ライダー」の姿からは、かなり離れてしまったなあ、とは我が事ながら私も思う。ただ、これにはこれで、よい点がいろいろあるのだ。

 宿泊地に関していうならば、何よりも、キャンプ場には他の「旅するライダー」たちがたくさんいる、ということがある。広い北海道には、情報誌には載っていないような穴場が山ほどあるので、キャンプ場で他のライダーから得られる情報に耳を傾けることで、旅をより楽しいものにすることができる。

 いや、ただ隣近所のテントの住人と、あつまって下らない話をしているだけでもいいのだ。暗くなり、相手の顔もはっきりとわからないのに、全く初対面のひとといつまでも談笑する、なんてことは、もう旅先でしかあり得ないことである。私は普段はほとんどお酒を飲まないのであるが、そういういつ始まるかわからない「座談会」のために、ツーリング中だけは、いつでも少しばかりのアルコールを持ち歩いている。こういうところで飲むお酒は、おいしいし、楽しい。

 そしてこうした「座談会」で、もうひとつ、知ることができるのは、旅のスタイルには本当に「個性」というものがある、ということだ。皆それぞれ、自分のやり方をもっている。そしてベテランの「旅人」になればなるほど、その独自性は強まり、そしてベテランになればなるほど、他人のやり方を尊重するようになる。自分の方法を押し付けたりしない。

 それはよくない、こうした方がいい、とか何とか言い出すのは、決まって初心者に毛がはえた程度の人だ。だんだん旅というものの「やり方」がわかってきて、それを自慢したくなるのだろう。だが旅慣れたひとは、それに反論することすらしない。そんなことで互いを否定しあうことの下らなさを知っているのだ。のみならず、他の人のやり方が気に入れば、すぐに自分も取り入れてみる。それが初心者の意見であってもだ。そうした柔軟性のほうが、よほど旅を快適にしてくれることをもまた、知っているのである。

 そして旅の「個性」は、さらにその独自性を強めながら、完成していく。・・・普段の生活でも、こういう姿勢が取れたならいいのだけれど。

 実はこの本、もう二十年近く、友人Yに貸したままだったのを、今回、返してもらったのだった。突然読みたくなって、彼に連絡したらば、貸した時のままの綺麗な状態で返ってきた。ありがたいことだ。高校生の頃に、あれほど夢中になって読んだバイク関係の本が、どれも今や所在不明になっていることを考えると、Yに「保管」してもらっておいて、本当によかったと思っている。そのバイク関係の本のなかで、今なお読んで楽しめる唯一の本が、こうして無事に手元にあるのだから。


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日々の出来事 15

観音さまと山桜

 先日、静岡市の西部を流れる安倍川にかかる橋を、西岸から東岸へと車で渡るとき、あるべき場所に富士山がみえなかった。

 空は晴れているのに、霞にかくれて富士山がみえなくなると、春だなあ、と感じる。今年は確かに、春の訪れが遅かった。いつまでも、富士山がはっきりとみえていた。富士山が春霞に隠れてはじめて、桜も盛りを迎える。先日は岡部町の桜を紹介させて頂いたが、あれはソメイヨシノであった。今回は、山桜などを堪能したく思う。

 安倍川を渡り、どこへ向っていたのかというと、清水区(旧清水市)の、大内というところだ。そこには私のおばさんが住んでおり、その近所で小さなお祭りがあるとかで、遊びに行くことにしたのだった。

 おばさんの家には、親戚衆が何人か来ていて、一緒に昼ごはんなどを食べたのだが、その後、ちょっと散歩にいこうと、私の両親と、妻、そして我が子(三歳・娘、一歳・息子)とで連れ立って出掛けた。お祭り、というのはまあ、町内会のイベント程度のもので、たいしたこともなさそうだった(失礼)ので、我々はまず、近くの神社に遊びに行った。

 この大内という町は、小高い山の麓の町で、おばさんの家はその町でも一番山に近い辺りにある。よってその山の麓にある神社までは歩いても一分とかからない。神社でお参りをし、そのまま、何となくまた山の方へ歩きはじめた。

 するとみえてくるのが、お墓と、その脇を山へと続く石段である。石段、といっても、山道に石の段々がある、という程度のものだが、この道は、山腹の観音堂に続いているのだ。実は私は幼い頃の一時期、この近所に住んでいたことがあり、その観音堂へはセミ取りなどをしに遊びにいった記憶があった。

 そこで、なんとなく、その山道に段々がついた道に我々は踏み込んで行った。道はすぐにまるきりの山道になることはわかっていたし、妻は一歳児(体重約10㎏)を抱いていたし、私は私で娘(体重約15㎏)を抱いていたので、まあ、行けるところまでいこうか、ということになった。ただ、最近足を悪くした母だけは、そのまま帰ってしまったが。



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 途中、道ばたにこんなものが。

 そろそろ疲れたなあ、という頃に、ふと上を見上げれば、桜の木が。あそこまで行こう、と頑張る。



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 その桜越しに望む、清水、そして静岡の街並。

 そろそろ下ろうか、と思いつつ上をみれば、またしても、木々の茂りの先に桜が。そして観音堂の屋根もみえた。実は、先ほどのお墓の辺りから観音堂までは、15分ぐらいの距離しかないのである。ただ、我々は子供を抱えている。妻は、ダッコ紐を使っているからまだいい。私は三歳児を、腕で抱えているのだ。このところすっかり運動不足のお父さんは、正直なところ、かなりへたばっていた。しかしここまで来たなら、観音堂を子供等にみせてやりたい、と、お父さんはがんばることにした。

 ガクガクする膝で必死に這い上がり、15分の道を30分ぐらいかけて、やっとたどり着いたのが、まず、仁王門であった。



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 仁王門に続く最後の上り道。



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 仁王門。



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 仁王さま。すごいメヂカラ・・・。



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 門を、上から。何と、茅葺きである。じつはこの門、後で調べたら、1516年建立の、重要文化財らしい。ほら、におうさんだよ、と妻の胸元の息子をみれば、もうすっかり夢の中。「とっくに寝てたよ」とは妻の言。



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 そしてやっとたどり着いた観音堂。地元では、「大内のかんのんさん」などと呼ばれているが、鷲峰山霊山寺というのが正しい名前。高野山真言宗のお寺であり、開創は723年、本堂の建立は1756年、だそうだ。これは、かなりの古刹。知らなかった・・・。



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 仁王門から本堂へ続く道。



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 咲き乱れる山桜。白い花と、赤茶色の葉との組み合わせが、とてもいい。



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 本堂からの景色。



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 鐘楼も桜につつまれる。これは明治の建物。



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 本堂の影に。

 やはり山間の緑樹のあいだには、山桜の白い花が似合うなあ、などとぼんやりしていると、娘が「帰る」といいだす。そう、登ったからには下らなければならないのが、山というものだ。そして子供を抱えなどしている場合は特に、下りのほうが足腰に負担がかかるものだ。

 すでにくたくただというのに。ちょっと手伝ってもらおうかと父の方をみれば、嫁にいいカッコしたいらしい父は、「帰りは俺が抱いてってやる」と妻から未だ熟睡中の息子を受け取っている・・・。しかたなく、再び娘を抱き上げ、重い重い足をひきずって下山を開始した私であった。



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 この日より数日間、全身の痛みに苦しんだことはいうまでもない。ちょっとは運動しなきゃなあ・・・。


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日々の出来事 14

春来たる

 いつだったか、丸子という宿場町でのお祭りのことなどを紹介させて頂いた。私の暮らす町の隣町である丸子は、かつては東海道の20番目の宿場であった。ここを過ぎると宇津ノ谷峠がある。ここについても、いちど紹介させて頂いた。で、この宇津ノ谷峠を越えると、次の宿場町が岡部宿、ということになる。

 (ちなみに、丸子から東にひとつ戻ると府中宿であり、これは駿府城の城下町の一部、であるから現在の静岡市中心街辺りである。さらにひとつ戻ると、江尻宿。これは、かの『ちびまる子ちゃん』の舞台となっている街の辺り。またさらに戻ると、17番目の宿場、興津宿であり、これは私の生まれ故郷である。)

 この岡部についても、実は一度、記事にしているのであるが、そのときは、街道から離れたあたりの農地につくられたコスモス畑のことなどについてであった。今回は、旧宿場町としての、この岡部という街について、紹介させて頂こうと思う。

 岡部町は、以前は志太郡岡部町、という町制の街だったのだが、現在は藤枝市に編入され、藤枝市岡部町、ということになっている。街の様子はというと、正直なところ、あまり賑わっている、という感じではない。街を抜けていくメインストリートは、無論かつての東海道なのだが、その後身たる国道一号線は現在、街の南側の山間を抜けてしまっており、東西に行き来する車の流れが、ここを通ることはない。岡部町へは、つまり基本的に岡部町に用のあるひとしか来ない、ということだ。

 ということで私も、近所の街でありながらなかなか訪れる機会もなかったのであるが、最近になって、我が家では、ちょっとした「岡部町ブーム」が起こっている。どういうことか、というと、それは、ともかく以下の紹介文を読んで頂きたい。この街、なかなか侮れないのだ。




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 こちらは、「大旅籠 柏屋(かしばや)」さん。1836年建築(創業はもっと古い)というから、180年も前の旅籠屋の建物を、資料館として公開している。こちらで、なんと等身大のひな人形を展示している、というので出掛けていったのだ。



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 こちらが、その等身大ひな人形。でかい(笑)。どのくらいでかいかというと、



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 三歳児(わが娘)との対比。大きいでしょ。



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 お雛様のいるお座敷から、庭を眺める。ぶら下がるのは吊るし雛。奥のほうで、日本庭園にワビサビを覚えつつ鑑賞しているのが、わが息子(一歳)。



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 当時の調度品や、



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 当時の旅人の様子など。この人形も等身大で、しかも薄暗いなかに展示してあるので、ちょっとビックリする。



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 二階には、江戸時代の街道の様子を再現したジオラマなどもある。



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 台所。



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 建物裏手は、広場のようになっており、そこに「なまこ壁」の蔵がある。



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 また、売店やレストランもある。我々は団子、柏餅などを頂いた。



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 裏庭からの眺め。こうしてみると、大きな屋根の形などが、意外にモダンなスタイルである。



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 庭から表へ抜ける、通用口。

 この日は、この柏屋さんだけを見学して帰ったのであったが、その帰り道に、道ばたに大きな桜の木をみつけた。そのときはまだ開花していなかったのだが、開花したならさぞかし綺麗だろうと思われたので、先日、そろそろ満開か、と思われる頃合いを見計らって、再び岡部町に出掛けた。



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 これが、その桜。「十石坂観音堂」という。静岡側からの、街の入り口あたりの、街道沿いにある。



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 石段をあがってみる。寂れ具合がとてもいい雰囲気。

 ここだけでは物足りないので、周囲をもう少し歩いてみることにした。



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 観音堂近くの川沿い。春だ! と叫びたくなるような景色。



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 街道を西へ。「初亀醸造株式会社」さん。こちらも、1636年創業という老舗。私はお酒が飲めないが、この建物には大いに惹かれる。

 その初亀さんを過ぎて少しいったところから、裏路へ入ったところに、こんなものが。



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 「姿見の橋」。橋といっても、道の下を溝がくぐっている、という程度のものだが、なにやら由緒のある様子。読めば、何とあの小野小町が、東下りの途上、この岡部に宿泊した折に、この橋からふと水面を眺め、そこに写った自分の顔に老いの影を見出して嘆いたとのこと。小野小町って、平安時代のひとですよね・・・。まあ、こんなものがあるところをみると、この裏路が元々の街道なのだなあと、しばらく歩いてみる。



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 左手に、石段をみつけて立ち寄れば、神社であった。



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 その由来等々を書いたもの。おしゃもっつぁん??



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 こんなもの(火事のときには、ぶらさがったハンマーで、この「非常板」をたたけ、ということらしい)を眺めながら、さらに進む。そしてたどり着いたのが、「日蓮宗正應寺」。ここの桜が、見事だった。



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 門前。



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 門を、内側から。



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 桜に、蜂の巣。面白い。



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 桜に負けじと。



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 本堂。



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 なかなか立派な塔まである。

 こんなお寺があるなんて、知らなかった。桜の名所といってしまってよいほどだ。いや、私が知らなかっただけかもしれないが。しばらく桜を堪能して、お寺を後にし、街道に戻る。



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 「小坂」バス停。これまた、ため息が出るほどの美しさであった。

 我が家の「岡部町ブーム」、ご理解いただけただろうか。妻が柏屋さんで、岡部町の観光案内マップ、みたいなパンフレットをもらってきた。また近いうちに、でかけてみようかと思っている。



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追伸。先日、ようやく大型免許を取得することができた。自動車学校が混んでいる時期で、時間がかかってしまったが、一応、ストレートで卒業できた。応援コメントくださった方々、どうもありがとうございました。



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