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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

韮山城 その2


 韮山城 その2


 延徳三年(1491年)、堀越公方足利政知が死去した。政知には三人の息子がおり、長男茶々丸は先妻の子、二男、三男は後妻の円満院の子であった。円満院は政知の生前から、茶々丸を土牢に捕らえた上で、我が子である二男潤童子を跡継ぎとしていたが、牢を脱した茶々丸は、円満院と潤童子を殺害し、二代目の堀越公方の座についた。ちなみに三男の清晃は、そのときたまたま上洛中であった。もし伊豆にいたならば母と兄諸共殺されていただろうが、危うく難を逃れた形だった。

 この堀越御所の混乱を、間者を送り込んで見張っていたのが、伊勢宗瑞であった。茶々丸が堀越公方の座についた後にも混乱はなかなか収まらなかった。それに乗じて明応二年(1493年)、宗瑞はついに伊豆に侵攻、堀越御所を攻め、茶々丸は落ちて堀越公方の勢力はここに滅亡することとなる。

 宗瑞の伊豆侵攻はどのような意図のもとに行われたのか。今川氏親に駿河東部を任された者として、伊豆との国境周辺の安定を得るためにか、それとも自らの領国を自らの手で築き上げようという、戦国大名と呼ばれるにふさわしい野望からか。

 諸説あるようだか、同年に細川政元が京において、十代将軍の足利義材を廃して義澄を将軍の座に据えた事件に関係していると考えるのは自然だろう。この義澄という人物、他ならぬ先代の堀越公方政知の、生き残った三男坊である清晃その人なのだから。無論この段階で、幕府の実権は細川政元の手にあったのだろうけれど、新将軍の異母兄である古河公方茶々丸が、新将軍すなわち幕府の敵対者であることには違いはない。よって、伊豆を攻めて、関東の情勢をややこしくしている堀越公方を排除することを、絶好の位置にいる今川配下の宗瑞に命じる、ということは十分にありそうなことである。

 つまりこの伊豆侵攻は、幕府の命によって、今川配下の武将として宗瑞が行った軍事行動であり、従来いわれてきたような「下克上」的要素は、少なくともこの段階では稀薄、あるいは全くなかったと考えるべきであるようだ。無論、張本人たる宗瑞が、どういう心づもりであったかは知る由もないことだが。

 堀越御所を落とした宗瑞は、御所の側近くに韮山城を築き、興国寺城から本拠をこちらに移す。そして堀越公方方の残存勢力を掃討し、伊豆をその手中に収めることになる訳だ。




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 ということで、ようやくお話がここに辿り着きました(笑) 韮山城である。公園に隣接していて、駐車場もあるので車で来てもダイジョウブです。




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 場所としてはこの辺り。




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 一応、現地の案内図も。南北に長い「連郭式」。さあ、中を観てみよう。




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 案内看板のすぐ脇の道。ここから城内へ。




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 やがて見えてくるのは、西側に隣接する韮山高校のテニスコート。




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 テニスコートにつきあたったら左手へ。




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 この堀切? 切り通し? の先に、




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 「権現曲輪」。伊勢宗瑞創建の熊野神社がある。山城のなかにある神社の雰囲気は好きだ。




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 その先、階段があるのでそちらへ。




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 登りきると、「二の丸」。




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 「二の丸」の北のはずれ。土塁がめぐらされているのがわかる。




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 これは「二の丸」の東側の様子。急峻な地形で、攻めるのは大変そうである。ちなみに、こちらがわには沼も広がっている。




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 「二の丸」からさらに南へ続く、上り坂。




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 視界がひらけたところに、階段があるので、それを登ると、




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 「本丸」である。ようやく城の中枢部へきた所で、次回に続く。



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韮山城 その1


 韮山城 その1


 今回は、ちょっと歴史のお勉強をしつつ、城址見学をしていこうと思う。その歴史的背景が、とても面白いからだ。

 伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅の南西、狩野川の畔に、鎌倉幕府おいて執権として一時代を築いた北条氏の屋敷跡があるが、そのそばに、




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 「伝堀越御所跡」。つまり、室町時代、鎌倉公方として鎌倉にはいるはずであった足利政知が、館を構えた、とされている場所である。

 暦応元年(1338年)、足利尊氏は征夷大将軍に任じられ、室町幕府が開かれた。幕府は京都におかれた訳だが、それ以前の武家政権であったところの鎌倉幕府において政治の中心があった鎌倉には鎌倉府がおかれ、鎌倉公方がそれを采配する体制によって、関東は統治されることとなった。最初の鎌倉公方は尊氏の子である義詮であり、その義詮が二代将軍の座に就いた後はその弟基氏が就任、以後は基氏の家系が世襲することとなった。

 しかしこの鎌倉公方、しだいに室町将軍家に対し反抗的になっていく。元々が将軍の弟の家系であるから、それなりのプライドもあるだろうし、将軍家としても軽く扱う訳にもいかない相手であるから、関東の支配者として振舞うようになったとしても不思議はない。そして実際、関東八州と甲斐、伊豆、さらには陸奥と出羽の計十二カ国については、鎌倉公方が守護の任命までを行うに至り、幕府の支配体制の枠外にあるといってもよい状況にまでなった。

 両家の対立が次第に強まり、さらには鎌倉公方の補佐役である関東管領の上杉家も交える形で具体的な戦乱となったのが、応永二十三年(1416年)の上杉禅宗の乱であり、そして永享十年(1438年)の永享の乱であった。このあたりの混乱が、関東における「戦国時代」的雰囲気を形作ったといい得るだろうし、さらにはこのふたつの戦乱を、幕府の命によって鎮圧するのに尽力したのが、駿河守護である今川氏であったこともまた、後に重大な意味をもってくる、ともいえるだろう。

 永享の乱において鎌倉公方足利持氏は殺され、一時、鎌倉公方は断絶した。しかし嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱において将軍足利義教が殺される、という幕府の混乱のなか、関東武士からの要望もあり、将軍家は持氏の遺児である成氏を鎌倉公方として復帰させてしまった。この成氏は無論、将軍家は父の仇だと思っているから、またしても将軍家に反抗的な姿勢を取るようになった。

 享徳三年(1454年)、ついに成氏は関東管領上杉憲忠を謀殺するに至る。将軍足利義政はこれを将軍家への謀反とみなし、駿河守護今川範忠らに鎌倉攻めを命じる。武力攻撃を受けた成氏は鎌倉を捨て、下総の古河に逃れ、そこに腰を据えて引き続き関東の支配者として采配を振るう。こうして、鎌倉公方は「古河公方」と呼び名を変えることとなった。

 古河公方はおとなしくなるどころかさらにその権勢を強め、関東はほとんど幕府の影響下から外れてしまった。それは中央政権が享徳の年号を改めた後にも、古河公方が享徳を使用し続けたことに象徴されることから、この一連の出来事を「享徳の乱」と呼ぶ。

 将軍義政はこれに対し、幕府が任ずるところの「正当な」鎌倉公方たるべき足利政知を送り出す。政知は義政の兄弟であり、すなわち足利本家の人間であるから、「正当」性の高さという点では古河公方成氏などよりもずっと上である、はずだった。長禄二年(1458年)四月、政知は京を発ち、鎌倉をめざした。しかし伊豆まできたところで、関東の状況が、それ以上の前進を諦めざるを得ないものであることが知れた。もし古河公方側が攻めてきても鎌倉を守れる力はなく、関東管領の上杉氏がどちらに味方するのかもはっきりしなかった。

 そこでしかたなく、政知はそのまま伊豆に居を構え、そこを仮の御所とした。これがすなわち、上掲の写真のところにあったといわれる堀越御所であり、ここに住まった政知は、「堀越公方」と呼ばれることとなった。こうして、関東にふたりの「鎌倉公方」がいる、という異常な状況が生まれた訳である。

 ようやく、たった一枚の写真の説明が終わりました。しかし今回見学した「韮山城跡」にたどりつくには、もう少しお話が続きます(笑)

 古河公方と堀越公方。当然両家は諍いを始めることとなるのだが、その勝負が決まる前に、もっと大規模な戦乱が起こってしまった。すなわち、応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱である。その戦乱の最中、遠江において、後に両公方にとっては大きな意味をもつことになる出来事が起こった。

 文明八年(1476年)、遠江に侵攻し、これを奪わんとする駿河守護今川義忠は、遠江守護たる斯波氏側についた勝間田、横地両氏を攻め、その居城たる勝間田城、横地城を落とすが、その帰路に、敵の残党に襲われて戦死してしまう。所謂「塩買坂の戦い」であるが、当主の突然の死は、駿河今川氏に相続争いを生むこととなった。義忠の嫡子龍王丸が未だ六歳と幼年であったために、義忠の従兄弟にあたる小鹿新五郎範満が我こそはと名乗りをあげたのである。この争いに、仲介者として割って入ったのが、伊勢新九郎盛時、後の伊勢宗瑞、すなわち死後に北条早雲と呼ばれることになる人物であった。はい、これでようやく、今回の主人公が登場しました(笑)




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 こちらが現在の塩買坂。(こちらの記事もどうぞ。「塩の道・相良から掛川 その2、塩買坂」)

 義忠の妻、北川殿が宗瑞の姉であったことから、宗瑞はあくまでも龍王丸側の人間として仲介に入った訳であるが、話がややこしいのは、小鹿範満の母方の祖父が、堀越公方足利政知の重臣であった、関東管領上杉氏の一族上杉政憲であったことである。つまりこの今川氏の相続争いには、堀越公方と関東管領の介入があった、ということだ。一方宗瑞はというと、元々は京で幕府の役職に就いていた男であり、しかも、足利将軍家とは血統的に近しい今川氏の、正当な嫡子に家督を継がせようとしていたのであるから、どちらかというと幕府の意向に添って行動していたといえる。つまりこのあたりに、すでに幕府と堀越公方との関係に、ギクシャクしたところが見え始めていたといえるかもしれない。

 この家督争い、一度は宗瑞の提案で、龍王丸が成人するまでは範満が家督を代行する、という形で収まったのであるが、最終的には、長享元年(1487年)に、龍王丸成人後も家督を譲ろうとしない小鹿範満を、宗瑞が武力で排除することになる。この間の出来事として注目すべきは、文明十四年(1482年)に、将軍義政と古河公方成氏とが、なんと和睦してしまうということが起こったことだろう。事態を収拾できない堀越公方を見限った、というところだろうが、堀越公方としては「梯子をはずされた」形ともいえるだろうか。

 いずれにせよ、龍王丸は晴れて今川の家督を継ぐことができた。氏親を名乗った彼は、功労者である宗瑞に、興国寺城と領地を与えている。




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 興国寺城址の様子。

この興国寺城については以前の記事を参照願いたいが(こちら「興国寺城」)、立地としては現在の沼津市の、伊豆ににらみをきかせるには絶好の場所にある。そして宗瑞はこの城を足掛りとして、堀越公方を攻めることになるのである。

 戦国時代の始まりをいつとするのか、これは諸説あるところであるが、今回の記事を書くにあたって大いにその著書を参考にさせて頂いた小和田哲男氏は、この宗瑞の伊豆侵攻をもって、戦国時代の端緒としている。それの是非はおくとしても、少なくとも、この伊豆侵攻に至るまでの関東とその周辺の歴史的動向は、戦国時代というものがどのように醸成されていき、いかなるものとしてあったのか、それをある意味象徴的に理解できるものであるとはいえるのではないだろうか。つまり、幕府の支配体制の瓦解と、地方勢力の台頭とが、どのようにあったのか、ということである。そのために、今回はこんな記事をだらだらと書いてみたのだが、次回にはちゃんと城址に行きますので、どうか、ご寛恕ください(笑)


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真夏の外構DIY


 真夏の外構DIY


 一昨年のお盆休み、私はカブで旧東海道の天竜川西岸から白須賀宿、つまり静岡県内の東海道の一番西の区間を走り、そのことを記事にしてこのブログにあげた。去年は、この区間の別ルートというべき、姫街道を、やはり県境まで走った。で、今年は、というと……折角の五連休、ではあったのだが、どこへも行かなかった。どこへもいかず、何をしていたかというと、土木工事、であった。

 今年六月に、ようやく自宅を新築したのであるが、もとより貧乏な我が家、建物を建てるだけで精一杯であり、家の廻り、つまり所謂外構工事というものまでお金がまわらなかった。建築工事を頼んだのが、従兄弟がやっている工務店、ということで、二台分の駐車スペースと玄関前のアプローチだけはサービスでやってもらっちゃったのだが、それ以外は、もう、ただのむき出しの地面である。

 だが、これはそのままにしておくのはカッコ悪いし、雨で土は流れちゃうし、雑草は生えてくるし、スーパーカブを置く場所にも困るしで、なんとかしなくてはならない。と、いうことで一念発起、自力でなんとかすることにした。金がなくて他人様に頼むことができない者は、自分の身体を動かすしかないのである。




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 とはいえ、一気に全部やるのは無理なので、今回はこの角の部分だけをやることにした。ここを舗装すれば、カブは置けるようになるのだ。




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 しかしコンクリで綺麗に舗装、なんて真似は私にはできない。そこで、レンガを敷くことにした。ベルギーレンガ、というものを使用する。近所のホームセンターで安く手に入るし、形が、なんというかピシッとしていないので、ピシッと並べられない素人には「ごまかし」がきかせやすいかな、と思ったのだ。




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 まずは、レンガを敷く場所を掘り下げる。……と言うのは簡単。これだけ掘るのに、合計何時間掛かったことか。連休に入る前から少しづつ初め、連休初日に二時間かけてようやく掘り終えた。私の身体は、もうこの時点でボロボロ状態であった。




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 生意気に水糸なんかを張ってみる。高さは、プロが施工した駐車場のコンクリート舗装に合わせた。




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 まずは敷地の一番外側に溝を掘る。




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 その溝の底に、まず砂利を敷いて踏み固めて、




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 次に砂を敷いてまた踏み固める。




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 その上に、こんな感じでコンクリートブロックと、その前に飾りのメルスボーダーを並べていく。水平を出しながら真っ直ぐ並べていくのは、想像以上の重労働であった。ブロックとメルスボーダーは、コンクリート用の接着剤で接着した。モルタルは、今回は使用しませんでした。失敗したときに大変なので……自信がなくて。




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 外枠が一通り完成。手前の角の隙間は、まあ、みなかったことにしてください(笑) 初日はここまで。ちなみに、作業は早朝5時半ごろから、お昼前ぐらいまで行った(もちろん、休み休みで、とちゅうでシャワーをあびたりご飯をたべたりしながら)。これはもう、暑さ対策である。午後になると作業場に陽が当たって、もう暑くて暑くてどうにもならないのだ。




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 二日目。ブロックの上に、レンガを並べていく。これも、接着剤で固定。




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 そして、全体に砂利を敷く。本当は、砂利ではなく、もっと角が立った砕石を使いたかったのだが、ホームセンターになかったので、あきらめた。砕石の方が、土が安定するのである。




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 そして砂。その後は、ひたすらレンガを並べる。水平器で水平を出しながら、砂で高さ調整しつつ、ゴムハンマーで叩いて固定、を繰り返す。炎天下、うずくまって下を向いたままの作業はとても辛かった。




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 ここまで並べたところで、この日の作業は終了。実は、レンガが足りなくなったのだ。これは、作業が進んで正確に幾つのレンガが必要になるかわかってから、もういちどホームセンターに買いにいこうと当初から予定していたのである。レンガもひとつ百円ぐらいするので、ムダにたくさん買いすぎたくなかったのです。なので、この日の午後には買い出しにいった。レンガを買ってくるのも、重量物なので楽な作業ではない。筋肉痛と腰痛に苦しみつつ、行ってきました。




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 三日目。前日の買い物の時、店先でよさそうなものをみつけ、急遽、予定変更でこんなものを敷いてみた。コンクリ製のイミテーションの木道である。




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 木道の右側が並べ終わったので、砂を撒いて100円ショップで買ってきたデッキブラシで砂を掃く。こうすると、レンガの目地に砂が入り込むのである。今回、レンガの下にもモルタルは使わず、レンガ同士もモルタルで接着はしなかったので、こうしてしっかり隙間を埋めなくてはならない。




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 そして、大きな隙間には色つきの砂利を入れる。本当はレンガを隙間なく並べたほうが安定するのだが、レンガを割ってピッタリサイズに、なんて芸当は私にはできないのだ。




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 木道左側も同じで順で。




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 最後に、珪砂というとても細かい砂をまいて、再度目地埋め作業をする。これもね、ただデッキブラシでこするだけなんですけど、楽な作業じゃないんですよ(笑)




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 一応、完成。いかがでしょうか。珪砂のせいでなんだか白っぽいけれど、ひと雨降れば綺麗になるでしょう。あちこち、予定通りにいかず、手直ししなければならなそうな場所はあるし、多分、何日かしたら不都合もみつかりそうだけれど、それはまあ、おいおい、ということで。




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 カブをおくとこんな感じ。これで一応、駐輪場らしきものはできた。ホントは屋根がほしいんだけどなあ。

 今回、はじめてこんなレンガを敷くなんて作業をしてみてわかったこと。

 その1。土、石、コンクリなどの重さを甘く見てはいけない。
 その2。素人が真夏にやるべき作業とはいえない。

 連休の残り二日は、すっかり疲れ果てて、まるきり寝て過ごしてしまった私でした。次のDIYは、もうちょっと楽なものにしよう……


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下田街道 三島大社から韮山


 下田街道 三島大社から韮山
 その3 韮山





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 原木駅東側から、また街道に戻り、南へ。




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 ほどなくして、「原木」の交差点。




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 そこにあるのが、「荒木神社」。




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 こんな看板が。『草燃える』は、1979年放送のNHK大河ドラマ。私もほんの少しだけ憶えている。懐かしい。




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 あんまり綺麗に整備されすぎておらず、しかも、よく手が入っていて清潔で整っている、こうした雰囲気の神社は大好きである。




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 祭神は、天津日子根命。現地の由緒書きを転載。

 
 創建はさだかでないが、境内や隣接する荒真木遺跡からは古墳時代の祭祀土器が見つかり、遺跡包蔵地に指定されていることからも神社の存在が推測される
 「延喜式神名帳(九〇五年)荒木神社名があり「伊豆の国神名帳」に正四位上あらきの明神と記載されている
 中古は茨城神社、鞍掛神社とも称しており、歴史ある神社といえる
 原木(ばらき)の地名は「荒木神社」「茨城郷」の「あらき」「いばらぎ」が「ばらぎ」に転訛したものと考えられている





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 御神木が、この神社の歴史の古さを物語る。




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 さらに南下。ほどなくして、県道134号線との立体交差。これをくぐれば、もう今回の終着地である、韮山である。




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 街道の左側に、「八坂神社」。




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 さらに300mほど進んだ、この交差点を右折する。




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 まず、「北条政子産湯の井戸」。




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 さらに進むと、




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 狩野川にぶつかるので、左折。 そのあたりが、


 

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 「史跡 北条氏邸跡(円成寺跡)」。現地の解説文を転載。

 
 北条氏邸跡は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷になっているところです。ここを含めて伊豆北条と呼ばれた一帯(現在の寺家・四日市付近)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地であった場所です。北条氏邸跡は武士の地方での生活を知ることができる遺跡としてきわめて重要なのです。
 1333年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼という女性が中心になって、邸宅の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。
 (後略)


 平家打倒を成した頼朝であったが、彼の築いた鎌倉武家政権は、実質、北条の支配するものとなった。源家の将軍たちがお飾りに過ぎなかった、とまでは言えないが、しかし、頼朝と政子が恋仲になったあたりからもうすでに、そして実朝の暗殺に至るまでの流れも含め、全ては北条にとって「できすぎている」感がしてならない。まあ、そんな「北条陰謀説」を信じるか否かは別として、こんな片田舎の何もない場所が、一時代を築いた名門一族にとってとても意味のある場所だったという訳だ。

 さて、きた道をもどって、




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 街道に出る少し手前、この「光照寺」のある角を南へまがり、




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 こんな路地を辿って、150mばかり行くと、




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 「願成就院」というお寺がある。




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 その山門の左手あたり。「願成就院跡」。つまり、このお寺はかつてはこちらにあった、ということか。「願成就院」は、『吾妻鏡』の記述によれば、頼朝の奥州平泉攻めの成功を祈願して、北条時政によって創建された、という。





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 現在の「願成就院」の境内には、その北条時政のお墓がある。「北条陰謀説」の真偽はどうあれ、平家打倒の為の功績、という点では、源義経以上ともいい得る人物である。時政の実践力抜きでは、すかんぴんの流人であった頼朝には何もできなかっただろうから。

 さて、それでは今回の目的地と定めていた場所へ向かおう。街道に戻り、「八坂神社」ある交差点を東へ曲り、伊豆箱根鉄道の韮山駅の東側方面へ。




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 「遺跡 蛭ケ小島」。源頼朝流刑の地、として、公園化され、整備されている。




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 そこでひときわ目立つのが、この「蛭ケ島の夫婦」の像。いうまでもなく、頼朝と北条政子の姿をかたどった像である。

 平清盛は、年少であった頼朝を殺さずに流刑とした。このこと自体、清盛の判断は結果的には甘かったといい得るが、しかも、その流刑地にこの伊豆を選んでしまったこともまた、いくら伊豆が流刑先としては「メジャー」な場所だったからといっても、源氏の嫡男への処遇としてはあまりにも甘かったとはいえないだろうか。

 清盛がこの「蛭ケ島」という地名を、伊豆諸島のどこかの小さな離島と勘違いした、なんて説もあるみたいだが、まさかそんなこともないだろう。箱根の西にあり、東海道から大して離れてもいないこんな場所に、間違いなく将来的に機会さえあれば自らの命を狙ってくるであろう少年を生かしておくなどということを、どうしてしてしまったのか。確か池禅尼が助命を懇願した、なんて話があった気がするが、それにしてもこれは、あの狡猾な清盛としてはその生涯で最大の失敗とさえいえないだろうか。




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 清盛のその采配の結果、源氏の嫡男という高貴な血筋の他は何も持たなかった頼朝が、この地で、源氏再興のためにはぜひとも必要な強力な「武力」もった北条氏の娘と結ばれた。このあまりにもドラマチックな出来事によって、日本の歴史は大きく動いた訳である。

 さて、時間も七時をまわり、そろそろ道路も交通量が増えてきたので、予定通り、今回の「下田街道めぐり」はこれで終了としましょう。しかしもうひとつ、この韮山には寄っておきたい史跡があるのだ。次回、そちらを観に行ってみましょう。




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下田街道 三島大社から韮山


 下田街道 三島大社から韮山
 その2 二日町から原木





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 今回のコース(三島大社から韮山)。




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 「間眠神社」からまた旧下田街道である県道141号線にもどり、南をめざす。前方にみえる高架道路は国道1号線である。それをくぐって、




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 ここで踏切を斜めに渡る。線路は、「伊豆箱根鉄駿豆線」。




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 踏切から500mぐらいのところに、「手無地蔵」。このお地蔵さんの由来も、手持ちの資料たる『下田街道』の記述と、現地の解説文とにちょっと差異がある。『下田街道』によると、ある若侍が深夜にこの辺りを通りかかったところ、鬼女に髪を引っぱられたのでその左手を斬り落としたが、夜が明けてみればそこには左手のない石地蔵が立っていた、という。現地の解説文では、この辺りにあった石地蔵が、よく化けては人を驚かしており、ある日、いつものように化けて通りかかった若侍の髪を引っぱったところ、若侍に左手を斬られた、という。そしてその若侍は源頼朝である、という言い伝えもあるらしい。伝承というものは少しづつ変化していくものだということがわかる。頼朝の件はいかにも「後付け」っぽいが(笑)。




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 『手無地蔵』の脇に石碑群。だいたい江戸時代のもののようだ。




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 さらに旧街道を南下する。




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 この「中島南」の交差点を右折すると、




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 すぐにこの御殿川が流れているのだが、




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 その川の手前にあるが「左内神社」。そして、




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 川の対岸にあるのがこの「右内神社」。かつてはこのふたつの神社の間を、街道が通っていたようで、三島大社の門の守護神、とされていた。




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 「右内神社」の境内には、この「力石」がある。




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 街道に戻り、先に進むと「大場橋」で大場川を渡る。すると県道はぐっとカーブして東のほうへ向かってしまうが、




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 その先の「大場」の交差点を右折し、ここで県道141号線とはお別れして、




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 さらに南へ。




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 「妙蔵寺」というお寺がある。このあたりの地名を「安久」というが、ここがすなわち、前回に紹介した、交代で頼朝のかわりに三島大社にお参りをした在庁法奉納弊使が住んでいたあたり、ということになる。「在庁道」はここから三島大社まで通じていたというわけだ。




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 やがて伊豆縦貫道の高架がみえてくるので、それをくぐって




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 さらに南へ。




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 すると道は国道136号に合流するが、




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 その先で狩野川の支流、「らいこう川」を渡るのだが、その橋、「蛇ケ橋」にも昔話がある。頼朝が三島大社にお参りに向かう途上、大雨で川が増水して渡れず困っていたところ、大蛇があらわれて橋となり、頼朝は川を渡ることができたという。もう、なんでもかんでも頼朝である。




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 その橋のかたわらに。幕末頃のものらしい。




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 さらに国道を南へ。




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 すると、伊豆の国市に入るが、その市境の看板の下にある脇道を左折して寄り道。




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 踏切。




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 踏切からは、伊豆箱根鉄道駿豆線の原木駅がみえる。原木(ばらき)は、『下田街道』によると、伊豆の東西の両海岸へと至る道が分岐する陸路の交通の要衝で、かつ、狩野川の物資輸送の拠点でもあり、江戸時代には三島・大仁間の人馬継立を行う等、賑わったという。




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 線路の東側には、気持ちのいい田園風景が広がる。平安末期から鎌倉初期の文献には、「牛鍬大路」という道の名がみられ、それはこの辺りを東西に通っていたらしい。

 治承四年(1180年)八月十七日、伊豆に流されていた源頼朝は、以仁王の令旨に応える形で挙兵、まずは伊豆の目代であった山木判官兼隆(前回寄った「妻塚観音堂」のところでも出てきた、あの大庭景親に頼朝殺害を命じたとされる人物)を襲撃することとなった。当初北条時政は、この山木兼隆に娘の政子を嫁がせようと送り出したが、すでに頼朝と恋仲にあった政子は逃げ、頼朝の元へと走ってしまった、という話もあるが、これはどうやら後世の作り話のようである。頼朝挙兵の最初のターゲットが兼隆であったために、それをよりドラマチックに演出するためのフィクション、といったところか。

 このときの、頼朝が兼隆の元へと向かう様子を、『吾妻鏡』が描いている。簡単にいうと、頼朝の判断で、広い牛鍬大路と閑路である蛭島通とのふたつの道の内、牛鍬大路を通って行くことにした、というものである。その正確な道筋は最早わからなくなってしまっているようだが、先程の原木駅の西側と、この水田の東側とに、「牛鍬」という古い地名が残っているそうで、この辺りを牛鍬大路が通っていたと考えられる、ということのようだ。

 俗に「源平合戦」と呼ばれる「治承・寿永の乱」。その一方の主役たる頼朝の第一歩が、この辺りから踏み出されたと思うと、感慨深いものがある……といったところで、次回に続く。




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